アイザック・ニュートン
東の窓から差し込む朝日が、容赦なく部屋の中を照らした。
もしこれが西からの光だったなら、それはつまり——夕方まで寝ていたということになる。
アシュカルはぼんやりと天井を見つめながら、昨夜の夢を思い出そうとしていた。だが、何も思い出せない。
その時、不意に壁掛け時計へと視線が向く。
針は——止まっていた。
まるで時間そのものが、役目を放棄したかのように。
「アシュ!いつまで寝てるの!遅刻するわよ!」
甲高い声が部屋に響く。母の声だ。
「やばっ!!!」
アシュカルは飛び起きた。
それからは嵐のようだった。シャワーを浴び、服を着替え、すべてを一瞬で済ませる。
綺麗にできたかどうか?
そんなことはどうでもいい。
今の彼にとって重要なのは、“生活指導室に連れていかれないこと”だった。
―――――
満員のメトロミニバスに揺られながら、どうにか学校へと辿り着く。
教室に入った瞬間、アシュカルは安堵の息をついた。
自分の席——中列の真ん中に腰を下ろし、周囲を見渡す。
クラスメイトたちは楽しそうに会話している。
テーマは「人生で一番印象に残った出来事」。
皆が自分の物語を語り、称賛を求めていた。
アシュカルは——普通の人間だ。
大統領でもなければ、警察官でもない。社長でも、マフィアのボスでもない。金持ちでもなければ、ヒーローでもない。
もちろん——魔王でもない。
ただの、ごく普通の高校生。
特別な才能もなく、成績も平凡。
テストではいつも赤点ギリギリ。一度の追試で、なんとか進級する。
そんな男だった。
彼の存在価値は、ただ一つ。
“笑われること”。
周囲の笑いを取るために、自分を道化にする。
それが、彼がクラスに居場所を持つための唯一の方法だった。
「遅刻すると思ってたぞ」
突然、目の前から声がする。
顔を上げると、そこにはロイが立っていた。
本名はスロヨ。だが本人は“ロイ”と呼ばれたがる。
そのほうがカッコいいらしい。
「俺もそう思ってた。でも間に合ってよかった」
二人は軽く笑い合う。
同じ境遇にいる者同士——妙な気楽さがあった。
一方で。
教室の前方には、まるで別世界の存在がいた。
レア。
才色兼備。完璧という言葉がそのまま形になったような少女。
科学オリンピックでは全国一位。スポーツでも全国大会優勝。武術大会でも金メダル。
誰もが羨む存在。
そして——誰かの子供にとっては“悪夢”。
「なんであの子みたいになれないの?」
そう言われ続ける対象。
それが、レアだった。
アシュカルにとって——彼女は特別な存在だった。
同じ場所で育ち、同じ時間を過ごし、同じものを食べてきた幼馴染。
だが今は違う。
完全に別の世界の住人だった。
「……俺、頑張ったのにな」
小さく呟く。
壇上でトロフィーを掲げるレア。
歓声と拍手に包まれるその姿は、まるで光そのものだった。
アシュカルは理解していた。
自分は——あの隣に立つ資格がない。
恋人としても。友人としても。ただの知り合いとしてすら。
彼は、完敗していた。
そして——
二人の関係は、すでに終わっていた。
―――――
昼休み。
アシュカルが向かう場所は、いつも決まっている。
校舎裏の倉庫の陰。
そこに座り、パンをかじりながら、ぼんやりと空を見上げる。
視線の先には、近所の庭にあるヤシの木。
実がたわわに実っている。
「ニュートンはリンゴで重力を発見したよな……」
アシュカルは真剣に考える。
「じゃあ俺がここでココナッツに当たったら——」
「普通に死ぬわよ」
背後から、感情のない声。
振り向かなくても分かる。
レアだ。
「……やっぱそうか」
「本気でやろうとしてたの?」
「いや、さすがにやめた。リスク高すぎる」
レアはため息をつく。
「で、何してるの?」
「見ての通り。飯食って、ボーっとしてるだけ」
「……悲しいわね」
「君に言われると、余計にな」
少しの沈黙。
レアは静かに口を開く。
「ねえ、アシュ」
「何?」
「どうして、そんなふうに笑ってるの?」
「え?」
「みんな、あなたを笑ってるのよ」
「……」
「あなたが笑わせてるんじゃない」
「……」
「笑われてるの」
アシュカルは、少しだけ間を置いてから——
笑った。
「同じことだろ?」
その言葉に、レアは何も言えなかった。
彼女は知らない。
アシュカルが、なぜ“そうなったのか”を。
夢を語れば笑われる。努力しても届かない。追いかけても、背中は遠ざかる。
その果てに彼が選んだのは——
“諦めること”。
勝者を追うのではなく、最初から敗者でいること。
それが、彼の出した答えだった。
静かな風が、二人の間を通り抜ける。
その距離は——
昔より、ずっと遠かった。




