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#08 時を染める

 授業を始めて、三ヶ月程が経っていた。


 楷はいつしか、授業を待ち望む様になっていた。自分の後悔を拭うことよりも、学ぶことを楽しみ、日々成長する響のその輝く音を聴くことが、楽しくて仕方なかった。

 正しくなくても、教師の様に生きられることに喜びを感じていた。日々の彩り、そのものになっていた。


 この日も、一時間だけの授業が始まった。


「そろそろ、手紙を書いてみましょうか」

『え、もう? 書けるかな』

「そんなに緊張しなくても……まずもらった手紙を読んで、思ったことを箇条書きでも絵でも良いので、書き出してみましょう」


 響は頷いた後、楷にも見える様に母親からの手紙を改めて読み始めた。楷も躊躇(ためら)いつつ、一緒に読み進めていく。

 始めの方は体調の心配、その次に家族の近況が綴られている。そして次第に返事がないことへの心配、そしてなかなか会えない事への謝罪。そのどの手紙からも、確かな愛情が感じられた。

 毎日の様に届く手紙で、おおかた予想はしていたが響の家族は、決して響の才能を見限って山奥に住まわせた訳ではないのだ。

 大切な我が子が聴力を失い、大好きだった音楽の世界を諦めざるを得なかった。そんな娘が少しでも悲しまない様に、楽しい過去を思い出にする為に、音楽から距離を取らせた。これ以上の絶望から、守る為に。


 楷は、少し安堵していた。邪険に扱われ、一人で傷付いてきた悲しみとは違うのかも知れないと思ったから。頼り方が分からないだけで、頼れる場所があると思ったのだ。



「どうですか?」


 楷がそう言っても、響は首を傾げて考え込んだままだった。


「難しく考えなくても良いんですよ。単純にこの手紙を貰って、響さんはどんな気持ちになりましたか?」

『何て言うのかな、ぐおーって感じなんだけど』

「僕と話した時も言ってましたね。何かが込み上げてくる感じですかね?」

『あ、そうかも。何かあったかい感じのがぐおーって。嬉しいというか、懐かしいというか、でも何か泣きそうな感じもするし』

「ではひとまず『嬉しい』という気持ちだけを切り取って、一枚の手紙にしてみましょう。手紙のどの部分が響さんにどう伝わって、どの様に嬉しかったのか書いてみましょう」


 響は真剣な眼差しで頷き、紙に向かった。

 その時スマホから、一時間を知らせる音が響いた。


「すみません、今日はこれで。もし可能なら、他の感情も同じ様に書いてみてください」

『宿題だね。分かった』



 その日楷は、懐かしい響きだなと空を眺めながら帰路に着いた。

 澄んだ空気と、顔を出すのが早くなった空の赤が秋を告げていた。



 次の日。

 楷が別荘を訪れると、響は自分の感じた感情の分だけ、絵を描く様にスケッチブックいっぱいに言葉を綴っていた。

 教師をしていた頃に感じた、あの様な輝く音が、響から溢れていた。


『お母さんが、体調を気にかけてくれて嬉しい』

『お母さんの声が聞こえる様で、懐かしい』

『一緒に暮らせないのは、寂しい』

『もうピアノを聴かせられないのが、悲しい』


 そのどれもが、中学生のまま時が止まった様に幼くて母の愛情を求める、純粋な子どもの声だった。


「とても良いと思います。今度はこれをお母様に伝えるつもりで書いてみましょう。自分の中で大切にしておく気持ちとお母様に伝えたい、知って欲しい気持ちに分けると、書きやすいと思います」



 そんな風に何日か掛けて響は、伝えたい想いを少しずつ手紙に(したた)めることを始めた。

 楷もその傍らで、絵のタイトルを考え続けていた。


 また次の、そのまた次の日。

 この日響は、手紙を一枚書き上げた。


「良いですね、素敵です。もうこのまま出しても、何の問題もないですよ」

『ほんと? でも、書きたいことがまだまだあるんだよね』

「全てを書かずとも良いとは思いますが、ゆっくりいきましょう。それからこれは、頼まれていた……」


 楷もまた、絵のタイトルと感想を書き終えていた。


『めちゃくちゃ良いね』

「とても素敵な絵なので、ギリギリまで迷ってしまいましたが……以前の椅子の絵と違い今回は、温かさが色濃く描かれている気がしました。沢山のモチーフがとても精巧に描き込まれていて、そのどれもが響さんと(とも)に生きて来た大切なものなのかなと。美しくて寂しい、忘れたくないものとでも言いましょうか。詳しくは、説明を読んでもらえたら」

『なるほど。さすが、先生』

「響さんの想いを、正しく文字に出来ていれば良いのですが」


 楷の耳には、響からのなぜか少し動揺した音が聴こえた。


 その時玄関のベルが鳴り響き、天井に付いたランプが音も無く点滅した。

 響は、ランプには気づいていない。


「誰か来た様なので、僕出ますね」


 そう響のスマホに言葉を残し、楷は玄関に向かった。


「はい、今開けます」


 扉を開くと、女性が一人立っていた。

 もちろん楷には、その女性の顔は認識出来ていなかった。だが、手に持ったオレンジジュースのペットボトルで、そこに立っているのが誰なのかすぐに分かった。


「青谷……奏さん……?」


 楷は何となくしか認識出来ていない奏の顔を、ただ見つめた。数秒、時が止まった様だった。

 すると、部屋の奥から楷のスマホを持った響が現れた。


『楷さん、もう一時間』


 そう打ち込んだスマホを楷に見せた響もまた、時が止まった様に立ち尽くしていた。

 幸せな時間が終わってしまうことへの、恐怖にも似たその表情を、楷は知る(よし)もなかった。


 その止まった時を動かすかの様に、奏が小さく呟いた。


「先生……」


 その言葉を聞いた楷は、安心した様に呟いた。


「……元気そうですね」

「え、あ、はい……」


 奏からは、戸惑いの音が聴こえていた。楷はハッとして、深く頭を下げた。


「あの時は、申し訳ありませんでした。もしかすると覚えてないかもしれませんが、僕は貴方の中学の担任をしていました。途中で辞めてしまいましたが……」


 楷がそう言うと、二人は何故か悲しそうな表情をした。楷にその表情は分からない。

 だが似た様な感情が、楷にも聴こえていた——。

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