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「一波さんっ、どこにいくの? もう一時限目が始まるよ」
先ほどから通太は、一波綾乃に対して、叫ぶように喋りかけるが、彼女は立ち止るどころか、振り向きもせず、黙々と歩いていく。
廊下を歩く二人は、どうしても注目を集める。
なにせ、美人で名高い一波三姉妹の一人、一波綾乃が、男の手を引いて歩いているのだ。
これまで中学は勿論だったが、高校に入学してからも彼女は、異性から引く手数多と交際の告白を受けるのだが、どれも拒否していた。
入学早々、イケメンで有名な、一年一組鳴応中学出身の加川瞬をふり、周囲を驚かせた。
その後も、学年問わず玉砕する多くの男子生徒。
一時は、レズビアンじゃないのかという噂が出たほどだった。しかし彼女にはその気はない。
では彼女は、なぜ拒否するのか?
理由は簡単。自分が好きでないからだ。
自分が好きでない人と、なんで一緒に帰ったり、デートしたりしなければならないのか?
どんなイケメンでも、外見だけで振り回されるような彼女ではない。そんな考えが一波綾乃にはある。
一学期の後半になったこの時期には、彼女の頑ななその態度は周囲の知ることとなっていて、最近では誰も彼女に告白をしようと思わなくなっていた。
その一波綾乃が男子生徒を伴って、しかも手をつないで(手首を持っているのだが、手をつないでと誤解されている)歩いているのだ。
彼らと擦れ違う生徒たちが、振り返るのは当然だった。
だが、そんな周囲を尻目に、二人は四階から二階に下りて来ると、笹山露子のいる三年六組と逆の廊下を突っ切り、外階段の踊り場に出た。そこから先には、体育館に通じている陸橋があり、二人は太陽が照りつける陸橋を渡ると体育館の出入り口を素通りして、さらに歩いて体育館の裏手の通路に回った。そこはこの朝の時間、日陰になっていてひんやりし、気持ちのいい風が吹いている。通路の先を少し行くと、脇に階段があり、階段を下りると裏庭に出て、その先には、テニスコートがある。
一波は、通太の手首を引っ張って階段まで移動すると、そこから下り始め、階段の中ぐらいで停止した。
「座ろう」
始めて一波綾乃が振り返り、通太に喋りかけてきた。
彼女は通太の手首を離し前を向くと、先に階段に座り込んだ。
「どうしたの、一波さん?」
通太は、彼女の後頭部に上から声をかけた。
「稀川通太、座ってくれ」
と、一波綾乃は、ポンポンと、手のひらで自分の左横の空いたスペースを軽く叩いた。
(真横?)
通太はドギマギした。
女の子と二人っきりでいるということ自体初めてなのに、もし今、一波綾乃が指示する場所に通太が座れば、彼女とかなり接近することになる。
(無理だよ)
通太は、たじろいで、足を踏み出せないでいる。
通太の尻込みを背中で察した一波は、
「いいから座ってくれ」
と横に座るよう催促した。
「はあぁ」
返事なのかため息なのか、どちらとも判断つきかねない大きな息を吐いた通太は、一波の横に移動すると、その場に腰を下ろした。
ドックン、ドックン――
通太の激しく波打つ心臓。
何か言うかするかしないと、居ても立ってもいられなくなった通太は、
「い、一波さん、どうしたのっ?」
と言いながら、素早く彼女の方に顔を向けた。
「うっ!」
顔をむけた通太であったが、反射的に上半身をのけぞらせた。
一波が、真横を向いて、通太の方をじぃと見つめているからであった。
「一波さん、ほんと、どうしたの?」
体をのけぞった分、彼女との顔の距離が保たれ、少し気持ちに余裕のできた通太は、一語一語噛みしめながら一波に尋ねた。
「わからないか?」
「えっ、何が?」
「おれのことがわからないか?」
「おれのことがわからないかって、一波さんでしょ……。――ん、おれ? えっ、おれって? 一波さんが、おれ? ……自分のことをおれ?」
一波綾乃は、無表情のまま通太を見つめている。
「稀川通太」
「はい!」
「おれだ」
「だから、おれって言われても……。うん? まれかわつうた? フルネームで呼ばれるこの感覚……」
通太は、空を仰ぎ、考えた。そして、何かに気付き一波綾乃に顔を近づけた。
「つ、つくえさん?」
「そうだ」
「ほ、ほんとうにつくえさん?」
「そうだ」
「ええぇ!」
仰天した通太は、思わず立ち上がってしまった。
が、その時、左の足の裏が真横を向いてしまい、踏ん張りが効かず、体勢がよろめく。
「あっあ!」
彼は咄嗟に階段の手すりを掴もうとするが、虚しく空を握っていた。
通太の奇妙な体勢に気付いた一波綾乃のなりをしたつくえが、彼を支えようと指先を伸ばすが、指先はわずかにシャツをかすめただけであった。
「がっ、あぁぁぁ」
大絶叫と共に通太は、頭から階段の一番下まで背中で滑るように落ちていった。
通太は階段下で、仰向け状態で倒れている。
「おいっ、大丈夫かっ?」
すかさず、つくえが階段の下まで駆け寄ってきた。
「痛、いたたぁ……」
通太は、うめきながら顔を上げた。
目の前に一波綾乃の太股がスカートの中から伸びていて、それを見た通太は、一瞬痛みを忘れ、顔を赤くした。
「大丈夫か、稀川通太?」
一波綾乃のなりをしたつくえは、かがみこみ通太の体を抱き起した。
「いたっ!」
どこかにいっていた痛みが再び現れた。
どうやら最初の転倒で階段の角に背中を強打したらしい。その部分をつくえが――外見は一波綾乃のつくえが、彼を抱き起す時に触れたのだ。
「くうっ……」
通太は、つくえに支えられつつ、足を震えさせながら立ち上がった。
「大丈夫か? 無理するな」
一波綾乃に扮したつくえの表情も、さっきまでの無表情とは違い、眉間にしわを寄せ、表情を作っていた。それは何だかぎこちないものであったが。
「とにかく腰を下ろそう」
通太は、つくえに体を支えてもらいながら、ゆっくり、すぐ後ろにある階段に座った。
「それにしても、おまえはリアクションが大げさだな」
「誰でもああなりますよっ――いたぁ!」
大声を出したせいか、通太の背中にまた激痛が走った。
「もう僕、訳がわからないです。机が喋ったことだけでも、考えられないのに、次はその机が一波さんになって……、違う! 一波さんが机になって……もう、どうなってるんですかっ! ――痛っ!」
「落ち着け、稀川通太。大声を出すとおまえは痛がる」
「わかってます。わかってますけど、自然に大声が出てしまうんですっ」
通太は、苦痛に顔をしかめながら、机の当たり前すぎる忠告に対して怒鳴ってしまった。
「そうか」
一波の外観を纏ったつくえは、寂しさを漂わせながらポツリと一言呟いた。
その様子を見た通太は、一気に冷静になっていき、
「あっ! すみません、大声出してしまって」
とつくえに謝った。
「いや、俺が驚かしてしまったのがいけない。驚かすつもりは、なかったのだが」
「わかってます。ほんと僕の動きが大げさなせいでこうなってしまったのです」
「確かにそれは言える」
「ええぇ!」
結局、通太のリアクションでこうなったんだとつくえが真顔で認めたので、通太はそのことに対して驚き、そしてたじろいた。
「どうした?」
「い、いえ何でもありません」
通太は気を取りなおし、なぜつくえが一波綾乃の体に存在するのか尋ねた。
「説明しよう」
つくえがいきさつを語り始めた。
「昨日、俺はおまえから笹山露子の話を聞き、いても立ってもいられなくなってしまったのだ。はやく彼女に逢いたい、話したい、そんな想いを、誰もいなくなった薄暗い教室で悶々と考えていたのだ。その想いは段々強くなっていって、俺は苦しんだ。ここから、机から離れることができ、自由自在に動くことができれば、明日にでも彼女に逢いに行けるのに。そんなことを延々と考えていて、ふと気が付くと、薄暗い教室は完全な闇と化し、さらに時間が経ち、やがて教室に朝日が差し始めた。その間、俺は彼女のことばかり考えていた。驚いたよ、彼女のことだけ集中して考えている自分に。そんな俺だったが、異変に気付いたのは、生徒たちがぽつぽつ登校してきた時だった」
「異変?」
「そうだ。異変だ。いつもと生徒たちの見え方が違うということに気付いたんだよ」
「どういうことですか?」
「いつもなら俺のいる机の面の上空を通る生徒の顔しか判らないはずなのに、今日は、全員の顔が、というより、全員の姿がまとめて見えるんだ。俯瞰というのか、そういう風に見えたんだ」
通太は、無言で大きく頷いた。
「俺は、周囲をよく見て気付いた。俺は浮いていたんだ。いつの間にか、机を離れて、宙を漂っていたんだ。俺の強い願いが、衝動が、動けない机から跳び出ていたんだ。しかもただ跳び出ただけでなく、動きも自在にコントロールできたんだ。右に行くと思えば行ける。左にと思えばそちらへ行ける。俺は歓喜したね。奇跡が起きたと思った。これで、これで笹山露子に逢いに行ける! 興奮した俺は、早速笹山露子のいる三年六組に行くべく、教室の開け放たれた扉に向かった。今考えると、教室から出たことのない俺が、どうやって三年六組を見つけられるのか? という疑問が湧くが、その時は本当に舞い上がっていたんだと思う。だが、俺の喜びは、急速に萎んでいく。意識が朦朧としてくるというか、意識が薄まるというか、とてつもない不安にかられたんだ。俺はどうなるんだ、消えるのかと、混乱した俺はとにかく何も考えずに、高速で出入口に飛んで行った。飛んで行って、とりあえず教室から出ようとした時、突然俺の前に一波綾乃の顔が出現し、次の瞬間、とてつもない衝撃を受けた。俺の記憶はそこで一旦停止している。次に意識を取り戻した時は、もう俺は、一波の体に居た。俺の周囲には一年五組の生徒たちが集まっていて、どうしたの? 大丈夫? と声をかけてくる者もいた。あの瞬間何があったのか俺にもよくわからないが、一緒に一波綾乃と登校してきた友達が、扉付近で何が起きたのか、俺に、そして周囲の人間に状況を説明していた。それによると、一波綾乃が教室に入ろうとした時、彼女が急に教室の出入り口付近に倒れ込んだらしい。驚いた友達は、一波綾乃を抱き起すと、ううんううんと唸っていたようだ。とりあえず友達は他の子の力を借りて、一波を彼女の席に連れて行き座らせ、様子を見ることにしたのだ」
「つくえさんの意識と、一波さんが衝突して、つくえさんの意識が一波さんに入り込んだようですね」
通太は、つくえからいきさつを聞き自分なりに推察してみた。
「うん、それは意識不明から目覚めた時すぐに判った。俺は、一波綾乃の中にいるんだということは。彼女もまたここにいるからな」
「ここにいる?」
「そうだ。彼女もここにいる。どう言ったらいいのか……、うん、そうだ、彼女は寝ている、そういう感覚と思えばいい」
「寝ている感覚……」
「ああ。俺の意識だけが、今は顕在していてる」
「ケンザイ? 存在のことですか?」
通太は顕在の意味が判らなかった。
「まぁそんな意味だ。ちなみに反対語は、潜在だ」
「へぇ」
通太は、単純に感心した。
「この知識は、彼女から借りたものだ。俺は、一波綾乃の知識や記憶も使用できるみたいだ。彼女の趣味嗜好も何でも判る。この体育館の裏に来れたのも、一波綾乃の情報のおかげだ」
「な、何でも判るんですか? 何でも」
「そうだ、何でも判るぞ。いいだろう、教えてやろう。一波綾乃の住んでいる家の住所はM県港南市舞峰町二‐三。自宅の電話番号〇五九六‐一二一‐五五五四、携帯電話の番号は、〇六六〇‐三三二三‐六五〇二だ。携帯番号の覚え方は、〇六六〇ミミニイサンムコオニだ。好物はチョコレート、それと――」
「ああ、もういいです!」
通太は、つくえの発言を止めた。延々と彼は一波の事を喋り続けそうだったからである。
「つくえさん、一波さんから抜け出せないのですか?」
「無理のようだ。意識を取り戻してから真っ先にそれを試みたが、出来なかった。そこでどうしたものかと、おまえに相談するため、ここまで来たのだ」
「どうしようかかぁ……うぅん、とにかく、つくえさんには、このまま一波さんを演じてもらうしかありません。幸い、一波さんの記憶なども使えるみたいなので、周囲には不審がられたりしないとは思うんですが、ただ……」
「ただ、なんだ?」
一波の外見をしているつくえは、無表情で通太に尋ねた。
「はぁ、それです、顔の表情です。余りにも表情がギコチないので、なるべく意識して表情を作った方がいいと思います。あと、動作もです」
「どうすればいいのだ?」
「う~ん、どうすればって言われても……」
通太は、下を向き考えた。その時、ちらりと、自分の腕時計が目に入った。
時計は、八時四十分をさしており、通太が、あっと思った瞬間一時限目の始まりを知らせるチャイムが鳴った。
「えっ、授業が始まった! ホームルームのチャイムはもう鳴っていたのっ?」
通太の言うホームルームのチャイムというのは、八時半に鳴る朝一番のチャイムで、担任の先生がここで生徒の出欠をとる。もちろんこの時間以降に登校してくる生徒は遅刻扱いとなる。
通太は動転した。いくら机と話し込んでいたとはいえ、チャイムを聞き逃すことなんてありえなかったからである。
しかし、なぜ通太が聞き逃したか、理由を机が説明してくれた。
「おまえが、さっき階段から滑り落ちた瞬間、朝一のチャイムは鳴り始めていたんだ」
「えぇっ、そうだったんですか」
通太は、背中をさすりながら納得した。
しかしここで、ゆっくり納得している暇などない。
通太は、とにかく一刻も早く教室に戻らなくてはと、背中の痛みを堪えながら立ち上がった。
「ぐう、つ、つくえさん、これ以上、ここにいては、駄目だと思います。先生に叱られます」
「そうだな、そのようだな」
つくえも通太に続き、立ち上がった。
通太は苦痛に顔をしかめながら善後策を考えた。しかし考える時間はあまりない。
「僕たちが一緒に教室を出ているところは、クラスの殆どの人に見られています。もうこれはどうしようもない。だから一緒に教室に帰りましょう。バラバラに帰る手もあると思いますが――いや、いやいや、どうしよう? バラバラに帰った方がいいか……」
通太の考えはまとまらない。ひんやりとした朝の風が流れている体育館裏の階段の下ではあるが、その空間の中で通太の頭だけ、異常に熱気を帯びていた。
「どうしたらいい? ええと……、あっそうだ。今日の一時間目は、数学だ。数学担当の川下先生は、無口で、遅れて教室に入ったとしても、いちいち遅れた理由を聞いてくるということはきっとしません」
通太の表情が段々と晴れてくる。
「つくえさんは、一波さんの友達に、どうしたのって尋ねられたら、稀川に文句があったから呼んだのと言っておいて下さい」
「文句?」
「そうです。昨日の放課後、僕が一波さんにぶつかって、謝りもせずに帰って行ったから腹が立った、それでいいと思います。そして、まず、つくえさんが教室に入って下さい。僕は、二、三分後に教室に入ります。それでばっちりです。とにかくこの一時間目を乗り切れば大丈夫です。僕たちの担任の先生の授業も今日はありません。僕には誰も何も聞いてこないからバッチリです」
通太は微笑んだ。
「昨日、一波とぶつかったのか? 一波綾乃の記憶ではそんなこと――」
「そんなことはありませんでしたが、そう言って下さい。さぁ、教室へ戻りましょう」
通太は意気揚々と階段を上りかけようとした。
そこへ、つくえが通太の手首を掴まえ、
「稀川」
と呼び止めた。
「はい?」
通太は、つくえの方に振り返る。
「今日、笹山露子に逢いに行ってもいいか?」
「え?」
「なあ、いいか?」
つくえは、通太の手首を自分の方に寄せて顔を近づけてきた。
その瞬間、通太は、一波の体から漂う、いい香りを鼻で嗅いだ。
通太は、目を瞑り、その匂いを堪能しようとした。もちろん無意識にだ。
だがすぐに我に返った。
「あひょ! ああ、すみません! ああ、ごめんなさい!」
「何がだ? 何で謝る? 何に対して謝る?」
「いいえ、なんでもありません! ええと、笹山さんですね、逢う、逢う? ああっと今日は駄目です! 明日逢えます。だから今日は、我慢して下さい。できるだけ今日は目立った行動は避けましょう」
「目立たず行動する。放課後逢いに行く」
つくえは一段と通太に詰め寄る。それに伴い、通太の手の甲が、一波の胸に軽く触れた。
通太は目玉が飛び出んぐらいに仰天し、つくえから自分の手首を強引に振りほどくと、
「とにかく、今日は自重して下さい!」
と叫んだ。
「今日は無理なのか?」
「はい!」
「止めておくのか?」
「そうして下さい!」
「そうなのか?」
「つくえさんっ! ――痛っ」