第二章 嘆きの帝国 Ch2. L'Empire de Souffrance
まだ夜も明けていない真夜中、ブランシュ・クラリヴァントは長年にわたり自身を匿ってくれた屋敷を放棄した。正門を出た直後、すぐに振り返って従者のシリルへ同意を求める。
「最後になるから、お祖父様へ出立の報告と祈りを捧げましょう? ランタンを貸してちょうだい」
声を掛けられた彼の無愛想な表情が、僅かに綻ぶ。それに釣られるように、無意識に主人も微笑みを返すことになった。
「ありがとうございます。ぜひご一緒させて下さい。先代より託されたこの形見に懸けて、何があろうとお嬢様をお守り通すと、改めて誓わねばなりませんから」
従者から紫色に光るランタンを受け取ると、彼は空いた右手で堂々と形見の長剣を抜いてみせた。柄も含めれば主人の身長に匹敵する長さを誇るその武器に、今は畏怖と信頼という相反する気持ちを彼女は抱いた。
それから二人は屋敷の裏手に回り、亡き先代当主の墓前に祈りを捧げる。シリルは最強の剣豪でもあった師に剣を掲げて祈りを捧げており、先ほど語った通り、主人を守り抜くことを誓ってくれていることだろう。そしてブランシュは――嘘をつくことを選ばなかった。
ただただ平穏に生きることだけを望んでくれた祖父に、空席である帝国の玉座にクラリヴァント家が再び座してみせるという、生き地獄へと続く苛烈な覇道へ突き進む決断を下したことを、心の底から深く詫びた。
「……さぁ、行きましょ」
「御意に。ランタンをこちらへ。……ありがとうございました」
穏やかな時間は終わり、修羅が潜む山道を二人は歩み始めた。シリルは巨大な鞄を背負った上に、左手にも手提げ鞄を提げていて、彼が一歩踏み締める度に土が深く沈んだ。主人は自らも役に立つべく、無敵と信じる従者へ積極的に質問をしていった。
「ねぇシリル。あの賊達との距離がどれくらいになったら、伝えればいいの?」
「そうですね。自分も既に粘りつくような殺気をはるか遠くに感じますが……一キロメートルと百メートル、二段階で教えて頂ければ有難いです」
「分かったわ。あなたの指示に従うから、何でも聞いてちょうだいね? 他には――」
「御意」
「……んっ……」
ブランシュは待ち伏せる敵についての会話をシリルと続けようとする。されども、返ってきたのは淡白な肯定の言葉のみであり、軍議はそれ以上深まることなく幕を閉じる。彼からすれば、もうこれ以上何もしなくていいらしい。
しかし、前を歩く彼の背中が突然、彼女の右眼に映る視界にだけ淡く橙色に輝き始めた。どうやら従者は今、この傲慢な主人が大人しく指示に従うと約束したことに、内心驚いているらしい。安堵、喜び、そして勝利への確信。熟した柑橘色のように温かい感情が、彼の背中から静かに広がっていく。
他者の心と思考の色を強制的に暴き出してしまう《クラリヴァントの魔眼》。背信や醜悪な欲望を嫌というほど見せつけられてきたその右眼の視界において、彼の背中から広がる歓喜の色は、あまりにも純粋で、恐ろしいほどに揺るぎなかった。
これまでの人生で彼女自身が吐き続けてきた数多の嘘を、彼は一体どれほど飲み込んできたというのか。それでもなお、一切の濁りなく己を信じ続けるその愚直なまでの素直さに触れるたび、ブランシュはひどい罪悪感と切なさに胸を締め付けられるのだ。
細い山道を黙々と進む中、背後を歩く主人は、先を行く従者に一度目の約束を果たす。
「シリル、あと一キロメートルくらいよ。数はやっぱり、確実に三十人だと思う」
「一キロメートル、でございますか……? 御意に。もっと近くに濁るような気配を感じるのですが……自分もまだまだ、ということか……? 人数は同感です。では、さらに距離を詰めましょう」
深い森に差し込む月明かりを遮るように、粘りつくどす黒い闇の霞が立ち昇り、ブランシュの魔眼の視界を確実に覆ってきている。その黒き巨大な入道雲は、もうすぐそこまで迫っていた。
やがて、その時がやってきた。シリルは無言のまま急に立ち止まり、ランタンを持つ右手で背後に向かって制止の合図をした。左手の手提げ鞄と背中の巨大な荷物をすぐに下ろし、光源を反対の手に持ち替え、甲高い金属音が周囲に響くことも躊躇わず、即座に業物を鞘から引き抜いた。
後ろに控えるブランシュもまた、漆黒のドレスの裾を大きくたくし上げ太ももを露わにし、双子短剣を両のホルダーから抜き放ったと同時。前方にその者共は姿を現した。
「野郎ども、起きやがれぇ! へへっ、ついに旦那様が現れなすったぞ!」
隘路を塞ぐように、泥に塗れた薄汚い身なりの男らが、足音を荒立ててこちらへ詰め寄ってくる。魔眼で見た感情の色は全員が悍ましく真っ黒で、それを直視した帝室令嬢は眉間に深く皺を寄せ、口を結んで歯をくいしばる。
「ぐぅっ……うぅ……!」
唾を強引に飲み込んで胃からせり上がるものを抑え込むが、額に脂汗が浮かんで、表情は怒りで満ちていく。
「こっちは三十人だ! 武器を捨てなぁ! そうすりゃあ、命だけは助けてやらぁ」
裕福な商人などの被害者から奪ったのだろう。頭目と思われる男は、唯一まともな服装をしていた。野蛮な輩を束ねる男は、魔眼の視界にどす黒い闇とは別に嘘の色も撒き散らしながら、シリルの武装解除を要求してきた。
「……ガキを連れてるとはちょうどいい、幼い娘を殺されたくねえだろ?言われたとおりに――」
「お、おい、ボス! よく見ろって! ガキなんかじゃねえ、ちゃんとした女だ! 貴族の女っぽいぞ? しかも、とんでもねぇ美人だ! やった!」
しかし統制すら取れないようで、愚かな部下が横やりを入れた。
「あぁ?…… おいおいまじかよ……! いや、興奮してんじゃねえよ馬鹿野郎! このデカブツの武器を捨てさせられなくなっちまっただろうがっ!」
「すっ、すいやせん!」
誇り高い仮面など一切纏わず、帝室末裔は激怒を顔に出していた。それにも関わらず、獲物の肉質を値踏みするかのように全身を這いずり回る醜悪な視線に、微かに手が震え始める。戦力どころか、尊厳を持つ人間としても見られていない。
「しっかし、でっけぇ剣だな……! こりゃ何人か死んじまうか……でもまぁ取り分も増えるし、もういいか! はははっ!」
ブランシュの読み通り、ほとんど何も知らないただの山賊らしく、帝国から送られた刺客などではなかった。魔眼の視界に映る巨漢の従者は、背中越しに激情の深紅をマントのように羽織っており、その怒りの矛先には恐らく、接敵する距離を偽った主人に向けたものも含まれているのだろう。
「最初の一人は早い者勝ちだ! ほら頑張れよっ、ははっ! そんで、その次は俺! あとは……いつも通り、死ぬまで好きにしていいぞ」
頭目の下劣な言を聞いた帝室令嬢は、右眼の片眼鏡を強く押さえつけながら、半目に伏せた翠眼をさらに鋭く細めた。やはりシリルに全て任せてしまえばよかった。一度は決断したが、そんな後悔まで込み上げてくる。
「……なんて……情けないのよ……!」
鎧など何も装備していない、ただ醜悪なだけの輩を恐れている不甲斐ない己を叱咤するように言葉を吐く。帝国兵や凶悪な暗殺者などでは無い以上、従者が負ける可能性は皆無であり、必ず助けに来てくれる。そう信じ、ついに彼の傍を離れる決心を固めた。
「お許しください、遅れを取ってしまいました。お嬢様はお下がりを――」
振り返りもせずに、欺いた主人を下がらせようとする彼の背中へ、ブランシュは即座に《己の命》を懸けた命令を叩きつけた。
「飛ばしてっシリル! 前方! 四、十五!」
「!」
その主人からの絶対かつ無謀な命令に対し、従者は一切の躊躇や疑問を挟むことなく、一瞬で身体を反応させてみせた。
「御意にっ!」
後方にいたブランシュが一気に加速し、シリルの背中へ向かって猛ダッシュする。対するシリルは長剣を刹那で地面へと突き刺し、前方を凄まじい眼力で牽制しながら、敵から視線を一切外すことなく半身に構えた。迫り来る主人の足音だけでその動きに完璧に同調し、深く沈み込んだ腰の横で、両手を組んで強靭な《発射台》を作り上げる。そこに彼女が右足を踏み込んだ刹那――
巨漢の従者は半身の姿勢から捻り出す腰の回転と全身のバネを爆発させ、華奢な令嬢を前方空中高くへと射出した。
「ふんっ‼」
内臓が浮き上がるような圧倒的な加速と風圧。
月明かりの山道を裂くように、賊共の頭上を遥かに凌駕する美しい放物線が夜空に描かれた。高さ四メートル、飛距離十五メートルに及ぶ主従の阿吽が、人類の限界に近い連携大跳躍となって戦場を飛び越えていく。
「んなぁっ⁉」
呆気にとられる下衆共を見下ろしながら、ブランシュは眼下の獲物たちを一瞥し、冷酷に口角を上げた。敵を動揺させ、従者の負担を和らげることに完璧に成功した。既に後方の地上からは、容赦なく肉を断ち、命を刈り取る凄惨な、しかし希望の音が響き始めている。
放物線の頂点を過ぎ、重力が彼女の身体を地上へと引き戻し始めた時。背後で血飛沫が夜風を切り裂く気配を感じながらも、ブランシュはドレスの裾を大きく傘のように広げて落下速度を殺し、十二年の鍛錬で培った身のこなしで着地の衝撃を完璧に吸収した。漆黒のドレスを波打たせ、音も立てないほど優雅に隘路へ再び降り立った彼女は、双子短剣を後ろ手に隠して彼らへ向かって振り返る。
己の身を守ってくれるはずだった巨漢の盾は、もう近くにいない。最後の帝室末裔でありながら、自ら跳び上がって傍を離れたのだ。高貴な命と一人の女という尊厳を天秤に賭けて、勝利という奇跡を恐怖に怯え震える手で手繰り寄せる。
――奇跡とは願うものではない、命を懸けて手に入れるものなのだ――
「ふうっ。こっちなら、少しはましな男がいたりするのかしら。どうやらいつも通り、早い者勝ちらしいわよ?」
首筋には冷や汗が伝い、激烈な吐き気も込み上げる。それでもブランシュは鏡の前で練習し続けた、精一杯の妖艶な笑みを浮かべ、小首を傾げて下劣な輩共を女として誘う。
――盤面は、整った。
「へへへっ! 人生で最高の一日にしてやるよ、貴族の嬢ちゃん!」
すると劣情を催した男達は武器を収め、我先にと素手を伸ばし迫ってきた。
「へぇ? ありがと。でも私、受けた恩はちゃんと返す女なのよっ!」
強張りかけた表情を虚勢で覆い隠し、強気を偽る帝室令嬢。その姿に欲情を爆発させ、彼女の柔肌に触れようと、下衆な男が武器を捨てて不用意に両腕を大きく広げ、抱きつこうと突進してくる。ブランシュは極めて冷静だった。その間合いを完璧に見極めると、吸い込まれるような鮮やかなバックステップで身を躱す。
翻るドレスが夜の闇を裂き、後ろ手に隠していたツインダガーが、空を切って伸びきった男の両腕を下から交差するように斬り上げた。夜風に響いた悲鳴と共に、一瞬にして数本の指が宙を舞う。着地した彼女が即座に魔眼を向ければ、そこには下劣な欲望に代わって、痛みと底知れぬ恐怖に塗り潰された感情の色が広がっていた。
男の一人を無力化し、自らの命と尊厳を守り抜いたことに安堵した帝室末裔は、すぐさま次なる標的へと鋭い視線を向けた。しかし、あとに残った男たちの顔は、瞬く間に深い恐怖の色に支配されていく。
たった一人を戦闘不能に追い込んだだけで、これほどまで彼らが動揺するとは予想外であった。困惑を覚えつつも、双子短剣を低く構えた戦闘態勢のまま、その場に静止して敵の出方を窺った。
この下衆共の主たる戦略というのは、多勢で脅しをかけ、戦意を喪失させた獲物を嬲るだけの、自らの手を一切汚さない卑劣な騙し討ちばかりだったのだろう。目の前の小心者達は、儚げな女を前にしてついに武器を手に取り始めた。先ほどまで卑しい笑みとともに溢れさせていた下劣な欲望は霧散し、彼らの内面では愉悦への執着が消え失せ、代わりに殺害という冷酷な決意が膨れ上がっている。
「ちっ……」
たとえ狭い山道であろうと、この圧倒的な人数差で刃物を振るわれれば、彼女程度の体格では無傷で済むはずもない。下手をすれば、怪我どころか命を落とす危険さえある。獲物に少々手を噛まれたくらいで、予想だにしないほどの軟弱さを見せる愚かな男共に、心中で毒づきながら次の策を練る。彼女は大声で暴れ散らしながら叱咤罵倒したい本音を喉の奥に抑え、戦況を鋭く読み取る。胃の腑から込み上げる激しい嫌悪感に堪えながらも、自らが有する《最凶の切り札》を突き付ける決意を固めた。
弱冠二十歳の帝室令嬢は、背筋を伸ばしながらまたも小首を傾げ、半目の翠眼をますます細めて、肩を竦めて挑発した。
「あら、もう諦めちゃったの? 私、声にも自信あるのよ? 生きたままの方が、きっとお互いに楽しいと思うのだけれど……怖いなら仕方ないわねぇ。それともあなた達は……これでもう一度やる気が出るのかしら? んっ……」
煽情的に言い放ったブランシュは、黒薔薇のアンティークドレスを大胆にたくし上げ、露わになった真っ白な玉の肌の太ももを惜しげもなく男たちへ晒した。成熟した大人の豊潤さこそないものの、若き未熟な令嬢が放つ特有の危うい色香が、月明かりの下で艶やかに揺らめく。漆黒を彩る絹の衣と対比し、妖しく白く浮かび上がるその柔肌の眩しさは、賊共の理性を容易く蹂躙した。
先ほどまで生じていたわずかな警戒心の藍色は、凄惨な加虐心と凌辱という渇望の土色へと瞬く間に塗り潰され、彼らの瞳に再び悍ましい劣情という闇のボロ布を着させた。
「こっ、こんのクソガキャア……!」「啼かせてやるよ……やってやらぁ……!」
「ふふっ、強い男は好きよ? ……まぁどうせ一騎打ちなんて男らしいこと、できないんでしょうけど、ねっ!」
山賊らに再び武器を仕舞わせることに成功したブランシュは、背中に大量の冷や汗を流していたが、一瞬の油断により命を奪われる可能性が無くなったことで肢体の震えは一時収まった。賊共は下劣な感情を剝き出しにして、一輪の黒薔薇を手折ろうと素手を広げて迫ってくる。しかし、半目に伏せられた翠眼で冷徹に見極め躱し、一気呵成に戦況を有利に運んでいった。傲慢で高貴な花を泥で汚す期待に酔い、武器を抜くという判断すら放棄した下卑た畜生共。帝室末裔はその隙を突き、指や手首を正確に斬り刻みながらバックステップを繰り返す。そうして完璧な遅滞戦術を展開して舞闘を続け、彼らの意識を完全に自分一人へと釘付けにしてみせたのだ。
四人もの男を斬り付け戦意を失わせると、魔眼に映る視界の中のどす黒い感情はすべて、灰色の苦痛で塗り潰した。後はもうシリルが全員斬り伏せるのを待つだけであり、ブランシュは表情から妖艶な笑みを消して、取り繕うのをやめた焦燥感漂う顔つきを――露わにしてしまった。
その時、激痛でただ立ち尽くす四人の男達の背中を蹴り飛ばし、血相を変えた一人の男がこちらへ飛び込んできた。
「お前らぁ! 女とよろしくやってる場合かぁ? 早くあの男を殺せ……な、なんだ、まさかこっちも化け物なのかぁ?」
それは、先頭にいたはずの頭目であった。初撃でシリルに斬り伏せられたとばかり思っていた男が、部下を見殺しにして生き延びでもしたのか、あろうことか彼女の眼前まで迫っている。その手には月光を鈍く反射する、厚く重い鋼のファルシオンが握られており――
その冷酷な質量を視認した帝室令嬢の表情は、瞬時に驚愕と恐怖で完全に氷結した。
「はぁっ、はぁっ……えっ? そんな……あなたはっ⁉ シ、シリルッ⁉ 早く終わらせ――」
後ずさりしながら己の従者へ助けを求め叫んだが、主人が無敵と信じ、守り抜くと誓ってくれた彼は、しかし現れてはくれなかった。
「畜生がぁっ! 死ねぇ!」
「ひっ⁉」
頭目に対し知略も色仕掛けも謀ることが出来ないまま、輩は一切の容赦なく、真剣をブランシュへ振り下ろしてきた。その卑しい身なりには不釣り合いなほど上質な一振りを、彼女は必死の思いでツインダガーの刃先を使い鋭く弾き、受け流す。
「おらおら! おうらぁっ!」
「あぅっ!…… うぅっ……!」
そこからは、正真正銘の命を賭した白刃戦の幕開けとなった。舞踏のような暗殺術など今さら通じない。双子短剣とファルシオンという、リーチも重量も、そして何より根源的な腕力の差が明らかな泥臭く勝ち目の無い争い。振り下ろされる鈍色の刃を弾くたび、火花と共に骨が悲鳴を上げ、両腕の感覚が根元から麻痺していく。まともに受ければ手首を砕かれかねない猛攻を、彼女はただひたすらに暴力を逸らし、凌ぎ続けるしかなかった。
「おっ、おぉっ⁉ こっ、この女も化け物かよっ⁉」
「くぅっ!…… ぐぅぅ……」
シリルが即座に駆けつけ、必ず助けてくれる――そんな甘い目論見で戦場を跳躍した帝室末裔にとって、これが人生で初めて経験する真剣勝負。もはや余裕など微塵もなく、頼みの魔眼は目の前を横切る黒き殺意を視界に入れてしまい、むしろ足枷になっていた。
魔眼が頭目の《どす黒い殺意の軌道》をどれほど正確に先読みしようと、華奢な彼女の筋力では、その重い一撃を躱すことも完全に弾き返すことも叶わない。切り札であるはずの魔眼はもはや、己の死が迫る秒読みを可視化するだけの絶望の鏡と化していた。誇りも、策略も、玉座奪還の野心も、暴力的な質量の塊を前にしては何の意味も持たなかった。
「くそがぁぁっ! こんな化けもん共にっ! 手ぇ出すんじゃなかったぁ! うおらぁっ!」
「ひっ、ひぃっ⁉ いやっ……! 死にたくないっ……!」
武器は丈夫なれど、ブランシュの肢体と頭脳は限界を迎えた。数多の剣戟で握力は限界に達し、どす黒い闇の霞が濁る感情は脳髄を焼き焦がす。激烈な頭痛によって思考は鈍くなっていき――ついに右手のダガーを地面に弾き落されてしまう。
「きゃあっ⁉」
「うらぁ! 死ねやぁ!」
「あっ――」
死を確信し、意識が遠のきかけたその刹那。
「うおおおおおおおおおおぉぉ‼」
空を裂く咆哮と共に黒鋼剣の横一閃が奔り、闇を纏い迫っていた頭目の胴体は無惨にも両断され、物言わぬ肉塊となって地面へ転がった。返り血を浴びる間もなく、従者が切迫した声を上げる。
「ご無事ですか、お嬢様!」
シリルが目の前に現れると、魔眼の視界が夕焼け一色に染まり、ブランシュは思わず膝から崩れ落ちる。漆黒の美麗なドレスが泥を被る寸前、長剣を放り出しすぐさま片膝をついた従者は、彼女の嫋やかな腰を両手で掴み、華奢な身体を巨躯をもって支えた。
「はっ……! はぁっ、はぁっ……! お……遅いっ! 遅すぎるわ!」
しかし彼の献身を受けた主人は労いなどではなく、激烈な叱咤で応じた。
「は、はいっ! 申し訳ございません!」
自らの無謀な策で死地を招いた彼女を救うべく、文字通り死力を尽くした従者に対し、あまりに理不尽な罵倒を投げつけてしまう。だが、生まれて初めて肌で感じた死の恐怖は、彼女の理性を焼き切り、もはやその口は止まることを知らない。
「あ……あなたを騙したし、跳躍も命令した……! でも、人質に取られたりしていないから、あなたの戦いの邪魔、してないわよねっ⁉」
「はい……。お嬢様の仰る通り、全く邪魔などではありませんでした。それどころか、あの鮮やかな跳躍によって敵を挟み撃つ形となり、戦況を極めて有利に運ぶことができました……」
だが、またしても一線を越える発言をしてしまう。
「自分で立てた策に自ら溺れた、自業自得なのも分かってる……! でも、どうして頭目を取り逃がしたのっ⁉ お陰で最後の帝室末裔であるこの私が、命を落とすところだったのよ⁉ あなたって本当は弱いのね!」
「むう……あの男は臆病者で、最初から傍観に徹していまして……しかしこれらは言い訳に過ぎません。高貴な帝室出身であるお嬢様の身体を危険に晒したことは、一生の不覚でございます」
「あっ……! ち、ちがっ……!」
もう何度目か分からない、心臓が締め付けられるこの感覚。このままでは没落して滅亡しかけている、クラリヴァント家というひっくり返した袋の中の、端っこの方に最後に残った、たった一人の理解者を失ってしまう。
ブランシュは嘘で欺き押し通そうとすることをやめ、本音を伝える決心をする。拒絶され捨てられる恐怖を押し殺しながら、帝室の仮面を外し、等身大の己を曝け出していく。
「はぁ……。本当は、こんなのじゃなくて……あなたが私を責められるような、叱ることができる状況を作りたかったのよ……」
「自分がお嬢様を……責めるですと? 恐れながらそのような非礼なこと、とてもではございませんが――」
「それ。もうやめてちょうだい……」
「む……それ……で、ございますか」
シリルを右の魔眼で見た感情の色が一瞬、希望の灯台のように明るく輝く。その反応を見て、彼も本当は《それ》を嫌っている、そう判断したブランシュはその千載一遇の好機を逃さず、一気呵成に烈火の如き炎を本心に灯した。
「お祖父様が去年亡くなって、私はそれから帝位を目指し始めたじゃない? 私が皇帝なんて壮大すぎるドレスを纏い始めたら、あなたは合わせるように、平民の鎧を着こなした……そしてそんな素振り今まで見せたこともなかったのに、急に身分の差を気にし出したりして……」
「うっ……しかしながら、スラムで泥水を啜っていた孤児の自分と、帝室の血を引く高貴なお方……さらには、先代やお父上であられる八七代目ですらお持ちでなかった、世界を見通す魔眼を持っていらっしゃるお嬢様の隣に立つなど、到底……」
「だからそれなのよ。赤子の時から二十年も育ててくれたじゃない? 物心ついたあの頃だなんて我儘はさすがに言わないわ。せめて……せめて、帝位を目指す前、一年前くらいのあなたに戻ってよ……」
「むむ……そう申されましても簡単に割り切れるものでは……なにせよりによって皇帝ですから……」
まだ足りない、当然だ。それでもシリルの輝きは揺らぎつつも、ますます強くなっており、突破口は必ず近くにある。
「ねぇ……シリル。あなた、一日だけ延期して私が寝静まっている間に、この賊達を一人で倒そうとしていたじゃない?」
「そう……ですね。お嬢様にいとも容易く、見抜かれてしまいましたが」
「主人として納得いかなかったけれど……温かくて優しい気持ちは、とても嬉しかったわ。……もちろん、従者としては明らかに命令違反だとも思うけどね?」
「うぐぅ」
「だから……私も主人として少しだけ、異端の道を歩むわね。……二人きりの時だけでいいから、身分の差は忘れてちょうだいな」
「なん、ですと……? それは無理な相談でござい……ま……」
ブランシュは無言で右手を伸ばし、微かに震える指先で、右眼の片眼鏡――〝魔眼の代償を和らげてくれる遺物〟――に触れた。小さな金属音が夜の森に落ちる、その瞬間。
《嘆きの帝国》の異名を持つほど闇の霞に溢れた帝国全土から、見知らぬ他者の怨嗟、絶望、そして飢えの苦しみが、網膜を媒介して暗黒の激流となって剝き出しの魔眼に雪崩れ込み、令嬢の脳髄を激烈に焼き焦がす。鼓膜を破りかねない勢いで無数の悲鳴が幻聴として脳内に直接囁かれ、その表情は苦痛に歪み、奥歯を噛み締め、胃の腑は収縮を繰り返す。それでも主人は決してその翠眼を閉じなかった。
暗き闇の奔流に焼かれる視界の中心で、彼女の悲壮な覚悟を前にしたシリルは極限まで瞳を見開き、絶句してしまっていた。しかしすぐに大きく首を横に振ると、慌てたように身振り手振りでモノクルを付けるよう催促してくる。それを魔眼で見た帝室令嬢は、これから語ろうとしている内容との激しい落差に、痛みを少しだけ忘れ、可笑しくなって苦笑いした。
「そんな簡単に死なないわよ……過保護ね、ほんと。シリル、あのね……」
全世界で唯一、ずっと味方として隣にいてくれた従者へ、灯された本心を手渡す。頬を涙で濡らすことすら、構わずに。
「もう……もうこれ以上、他人のフリをしないで……! 私を……! 一人きりにしないでぇ……‼」
「‼」
「皇帝を演じ切り、世界を騙し通してみせるだなんて馬鹿げたことを決断したのは……あなたが最後まで隣にいてくれるって、勝手に勘違いしちゃったからなのよ……!」
「……」
「必ず一緒に帝国と戦ってくれると信じて、なんの相談もせずに決めたら……あなたは、少しずつ距離を……! そうしたら、もっと強くならなきゃ見限られるって、怖くなって……! こんな、こんな無謀なことまでしちゃって……! 愚かだったわ、私……!」
「……」
「この賊達は幸いにも……私を迫害するランス帝国の執政官らとは、何も関係が無かった。だから、今ならまだ引き返せるの。あなたと他人になるくらいなら、私……帝位請求権なんかいらな――」
「ブランシュ様‼」
最後の帝室末裔である彼女が誰かに名前を呼んでもらえたのは、先代である祖父が去年亡くなってからでは久しぶりだった。そして従者が主人を名前で呼んだのは、主従を結んでからでは初めてであった。
「決して勘違いなどではございません。この命が尽きるその時まで、決してお傍を離れないことを、自分は何度もお誓いしてきました」
「シリル……」
「しかしながら……」
彼にしては珍しく、一度言葉を切った。片膝をつくシリルと直立するブランシュの目線は水平で、黄金の瞳と翡翠の双眸が視線を交差する。
「去年、皇帝などという、恐ろしい響きの言葉を聞いた時……即位された暁には、平民に過ぎない自分は捨てられるのではないか、その様に考えてしまい……。違う世界に住まわれるお方なのだと、割り切るようになってしまったのです」
「そう、なのね……ありがとう、あなたの本音を聞かせてくれて。じゃあ一旦屋敷に戻って、たくさん……それこそ、朝まで話し合いましょ? この骸達は数が多すぎるから、夜が明けてからゆっくり片付ければいいわ」
彼女が最も知りたかった答えは聞くことができた。一度帰還してお互いに譲歩を繰り返し、また結論を出せばいい。
「いいえ、その必要はありません。亡骸は自然の成り行きに任せましょう、もうここには戻りませんから」
主人は合理的で妥当な提案をしたつもりであったが、従者は間髪入れずに否定の言葉を返してきた。
「えっ……? それって……じゃあ!」
「はい、ブランシュ様。この騎士シリルが、貴女様を皇帝にして差し上げます。ランス帝国の頂点に君臨し、世を正す。世界で一番優しい為政者です」
泥水を啜っていた平民だと卑下していた彼が、誰に許されたわけでもなく、ただ自らのためだけに《騎士》を名乗ってくれた。シリルの感情は朝日が昇るかのように美しく輝き、そのあまりの眩しさに帝室令嬢の半目はさらに細くなる。闇の感情とは対極を成すような、心が洗われる絶景を視界に収めると、ブランシュは涙を拭って片眼鏡を右眼へ装着した。
「ありがとう……最後まで一緒よ? 私のこと、絶対に見捨てないでね。お願いよ?」
「もちろんです。ブランシュ様こそ、突然解雇したりなどしないで下さいよ」
「ふふっ、決まりね? ……じゃあ行きましょ。私達の最初の目的地、交易都市レ・アルへ。金貨さえあれば、買えないものは何も無いわ。帝国領内都市で最も自由な、最高で、そして最悪の都市よ!」
ブランシュは狭く暗い山道を、屋敷とは反対方向へと歩き出す。すると即座に、背後から不敬な言葉が飛んできた。
「御意に。もちろん《帝位請求権》も売っているのですよね? 自分も一つ欲しいです、ブランシュ様の隣に居続けるために」
そう揚げ足取りをされ、主人は急に態度がでかくなった従者へ振り返った。その表情は普段の無愛想な表情と違い自然な笑みを浮かべていて、実に楽しそうだ。
「んむぅ……」
帝室末裔はわざとらしく頬を膨らませ、不機嫌なフリをして前を向くと、淑女らしからぬ大股で早歩きをする。しかし巨漢の男は、なんなく付いてくるのが背中越しに伝わってくる。彼の足音を聞きながら、ブランシュは世界を見通すクラリヴァント家の仮面を纏い直すと、堂々と全世界に向けて言い放った。
「そんなもの、買えるわけないじゃない! でもいいのよ。私、ランス帝国の女帝になった瞬間に帝冠を投げ捨てて! そのまま退位までしちゃって! スフランス帝国なんかぶっ壊しちゃうからっ‼」
「な、なんですとっ⁉ また嘘をついたというのですか? 今日だけで、片手に収まらないではありませんか……」
呆れ果てる従者の声が背中に叩きつけられるが、彼女は朝日に照らされた顔を決して彼に見せようとはしない。
「えぇ、そうよ? 血塗られた玉座に座って、全てを冷酷に支配する絶対君主な皇帝になるだなんて……そんなの、世界を騙すための最高の嘘に決まってるじゃない!」
背中越しの従者には決して見せないよう、彼女は少しだけ涙ぐんだ目を細め――そして、この世界で最も美しく不敵な、極上の悪戯を企むかのような笑みを、昇る朝日へと向けた。
――私はねっ! みんなに愛される、やさしいやさしい、女王様になるのよ!――
漆黒のアンティークドレスを大股で蹴り上げながら、彼女は己が歩む覇道の経由地である《レ・アル》へ向かって一歩を踏みしめる。東の空に立ち昇る本物の朝日。そして、背中からは従者が掲げるもう一つの《勝利の太陽》から差し込む温かさ。
それらを確かに感じながら、ブランシュ・クラリヴァント――
世界を欺く《嘘つき女王》の新たな旅が始まった。




