第一章 ランス帝国 Ch1. L'Empire de la Lance
――いいでしょう。ランス帝国のその、錆び付いた皇帝の帝冠を、妾が戴くと致しましょう――
誰もいない豪華な部屋でただ独り、ブランシュ・クラリヴァントはオペラのアリアを歌い上げるように鏡に向かって上奏し――己の透き通った純白の心と対面していた。
沈黙し数秒後。鏡の向こうで跪く彼女は小さく息を吐き、華奢な肩を力なく竦める。
「ふふっ。見た目と声だけなら、まるでオペラの主演歌手ね……。こんな遠い未来の……嘘の練習をしていられるほど、今の私に余裕なんて残されていないわ」
偽りの女帝は鏡に映る己の姿へ自嘲気味に告げると立ち上がり、黒薔薇を咲かせたアンティークドレスを優雅に翻す。漆黒の絹が、夜気を孕んで重々しく衣擦れの音を立てる。その小柄な肢体は、蕾がほころぶような年頃の華奢な貴族の令嬢にしか見えない。
その際、窓の外へ一瞬だけ、半目に伏せた翠眼を向ける。屋敷へと続く隘路に待ち伏せる、ヘドロのように真っ黒な何者かを視認するや否や、口を固く結び、込み上げる吐き気から逃げるように窓へ背を向けた。
「少ししか見なかったのに、吐き気がするわ……。どんな悪行をすれば、あんな黒くて汚い色を出せるのよ……」
未だ居座りを続ける招かれざる客人の存在に、首筋からは冷や汗が流れて肌着が濡れる。その不快感に苛立ち、腰まで伸びる銀白色の長髪を、八つ当たり気味に右手で鬱陶しそうに払い退ける。その髪が、窓から差し込む銀盤の月光を浴びて艶やかに輝いた。
流れるような足運びで掴んだ小さな肩掛け鞄には、既に淑女の必需品が隙間なく詰め込まれていた。高貴な令嬢が隣町へ出掛けるのにちょうどいいほどの大きさしかないが、鞄を持ち上げた彼女はその重さに不快な表情を浮かべる。すぐさま一度閉じた金具を開いて、重たすぎる極上の香水硝子瓶の数々を、ベッドの上へ無造作に放り投げてしまう。
「跳べなくなりそうね……あの堅物は持ってくれるかしら……? これも私の武器なのだけれど……」
手に付いた残り香を楽しんだ後、軽くなった鞄を肩に掛け、その軽さに満足したのか仄かに口角を上げるが、その重い硝子瓶を旅に連れて行くことを諦めるつもりは毛頭無い。旅を共にするもう一人に押し付けるつもりだが、他者に委ねられぬものばかりが増えていく己の人生において、この程度の我儘は許されるはずだ。
そのまま白い首元に添えられた黒蝶真珠のネックレスに、今度は愛おしげに白魚のような指で触れ、一人の偉大な祖先が眠る帝都の大聖堂へと遥拝を捧げる。
「命の危機が迫っているというのに、虚勢だけは既に女帝ね。明日を生き延びられるのかしら……?」
先祖はもう家族も含め誰一人として生きてはおらず、彼らが遺してくれた遺産は底が見え始め、受け継いだ美貌と力がすべてだ。そして、それすらも失おうとしている。
俯いて、床に金属で鋳込まれた、時計の歩度を調整するための日時計線にふと、視線を落とす。月光に切り取られた己の影に、消え入りそうな声を零すと、コルセットで執拗なまでに締め上げられた腰を細い両腕で浅く抱き竦める。その儚げな手の平と凍えたような指先が、微細な戦慄きに支配され始めた。一度宿った震えは止まることを知らずに増幅し、ついに彼女の気高き仮面さえも瓦解せんとした、その時。
静寂だった部屋の扉がリズミカルに三回ノックされ、ブランシュの肩は一瞬跳ね上がり、ドレスの裾に右手を伸ばしかける。
「!」
しかし、戸口から響いた規則正しいノック音は優しく耳に届き、身体の震えは収まっていった。
彼女は浅く抱き寄せていた両腕を不遜に組み直すと、淑女らしからぬ歩幅で足を開く。自身の家系が失ったかつての地位に相応しい、傲慢かつ尊大な表情を作り、その者と視線が交差するであろう高き虚空を鋭く見据えてから、凛とした声を放った。
「……シリルね? 入ってもいいわよ、どうぞ」
「失礼します、お嬢様」
入室の許可とともに扉を開け、紫色に揺らめくランタンを持って静かに部屋へ入ってきたのは、この豪奢な部屋には不釣り合いなほどの巨漢だった。短く整えられた黒灰色の髪の下で、黄金色の瞳が鋭く室内の安全を確認している。ただそこに立つだけで、いかなる揉め事も暴力で制圧できると悟らせるほどの、圧倒的な質量と威圧感を漂わせた。
彼はまるで当然の権利かのように、彼女の細い肩に触れそうな距離まで即座に歩み寄る。令嬢は先ほどまで支配されていた身体の震えを悟られないか不安だったが、シリルは見下ろす位置から、威風堂々と腕を組む嫋やかなブランシュを一瞥し、義務的で平坦な祝辞を淡々と紡ぎ出した。
「お嬢様、日付を跨ぎました。二十歳の誕生日、おめでとうございます」
どこか訛りのある発音でそう告げられた主人は、部屋に設置されている振り子式柱時計に目線を送ると、確かに零時を示している。この部屋以外に時計は一つも無い。恐ろしいほど正確な彼の体内時計に密かに呆れるが、その不愛想な面持ちから発せられた、ひどく優しさが不足気味な従者の無機質な声を聞き、悟られずに済んだと胸を撫で下ろしヒールを打ち鳴らして脚を閉じる。
「あら、ありがと。……準備はどう? もう積み込むべき荷物は、私の部屋には何も――」
「せっかくの記念日なのです。どうでしょうか、本日はワインなどでも嗜まれては?」
「……はぁ?」
礼もそこそこに出発の段取りを質そうとした主人の言葉は、不敬な、しかし優しさを装った遮りによって途絶えた。突拍子もない提案に驚き、彼女は柱時計からシリルへと視線を移す。見上げるその不愛想な顔は、三十代前半という若さながら幾多の死線を潜り抜けてきた凄みがあり、今は珍しく、ぎこちない笑顔を取り繕っている。令嬢の右眼を誤魔化そうとしても無駄であり、間違いなく、裏で何かを企んでいる。
彼は言葉を待つ間、ベッドに放り投げられていた、香水の硝子瓶を無言で拾い上げて鞄に仕舞っていく。今日は旅立ちを控えて執事服ではなく実戦用の軽装鎧に身を包んでおり、動くたびに鋼のプレートで補強された革の胸当てが微かに厳めしい音を立てる。鎧の上からでも岩石のような筋骨隆々の体躯が窺えたが、動きやすさを重視した籠手に守られたその手つきは、驚くほど洗練されていた。
日付は既に変わっており、もしも今飲酒をすれば成人の儀以来、人生で二度目になる。そして痴態を晒した可能性があるその日の記憶は――残念ながら一欠片も残っていなかった。
このような危機的状況にも関わらず彼女は体温が急上昇し、顔が火照るのを感じつつも、彼が己を酔い潰そうとしていることに違和感も覚えた。従者の左腰に差し込まれた、幾多の死線を共にしたであろう深黒炭素鋼の特注長剣が、勇ましく月光を反射した。その鈍くも眩い輝きを見た主人は全てを察し、肩が跳ね上がってしまう。
従者が裏に隠すあまりの強さに、一時の恥の感情など冷や水を浴びせられたように鎮まる。それでも気圧されないよう、ブランシュは背筋を精一杯伸ばして、威勢よく声を放った。
「……ワインですって? あなたね、引き延ばすのは今日までにするって、何日も前に決めていたはずでしょ? 今さら何を怖気づいたというのかしら?」
恐怖を押し殺して出発の決断を下したのは己自身であるのに、今さら彼に甘やかすような真似をされては決意が揺らいでしまう。従者に悟られないよう半目に伏せた翠眼を鋭く光らせ睨みつける。しかし彼は一切怯むことなく反論してくる。
「奴らはそのあいだ、微動だにしなかったではありませんか。ここは静観し、去るのを待つのがよろしいかと。万一お嬢様に不測の事態があれば、自分は先代に合わせる顔がございません」
理性的な意見かつ理屈も通っており、常人ならば従うべきだろう。しかしブランシュは一度決断したことを撤回するような、優柔不断な人間ではなかった。むしろ彼の発言の矛盾を突いていく。
「お酒なんて飲んで寛いでいる時にこの屋敷を攻められたら、それこそ危険よ。だから――」
「では今夜だけでも構いません、延期されてはいかがでしょうか? あの大人数はさすがに厄介です、手の打ちようがありませんよ」
「……」
彼はわざとらしく大袈裟に首を振りながら、珍しく軽い口調でそう言い、譲ってくれているようで、一歩たりとも譲っていない。またも嘘をついていると確信したブランシュは、異常なほど強すぎるこの過保護な男に、味方とはいえもはや眩暈がしてしまう。それでも、従者に全てを背負わせないために一計を謀ることにした。
「……はぁ……」
巨漢のシリルを見上げる細腰の主人は、目の前でわざとらしく嘆息を漏らし胡乱な目を向け、建前を捨てて本音を吐露しているような演技をする彼へ、これ見よがしに失望したという意思を前面に押し出していく。すると、目の前にいる巨漢の男は、瞬く間に眉間へ深く皺を刻むこととなった。
「むっ……」
その不服そうな表情を見て、もはや面倒の方が勝ってしまった令嬢は乱暴に声を投げかけた。
「無駄なことをするんじゃないわよ、さっさと全部喋りなさい」
「ふむ……お察しの通り、お嬢様が寝静まった後、自分一人で片付けるつもりだったのです。負ける気などさらさらありません。お嬢様が人質に取られることを懸念しております」
たった一息だけで本音を引き出したはいいが、それでも従者は意見を変える気はなく、戦力に加えようとはしてくれない。自らも戦闘に参加することで主人としての威厳を保ちたいブランシュは、そんな裏の感情を隠しつつ、気持ちが昂ったフリをして誇りを掲げ、率先して退路を断っていく。
「十二年も私の鍛錬に付き合ってくれたじゃない。まだ足りないっていうの?」
「確かに、お嬢様の筋骨の練り込みは全盛期を迎えつつありますし、戦闘技術も申し分ございません。しかしですね――」
己の武力が不足していることなど、彼女が一番理解している。無敵と信じるシリルへ腕っぷしではなく、言葉の刃で勝負を挑む。
「なによ。その私の筋骨とやらが、ガラス細工のように脆いとでも言いたいわけ? 魔力を溜め込む主人に向かって、随分と生意気ね」
「お嬢様の魔力と魔眼も考慮しております。それを踏まえた上で今回は――」
「ランス帝国の《帝位請求権》を持つ私の決定に、逆らうっていうの?」
「……ふむ……」
不敬を咎められる形になったシリルは表情を曇らせ、手が届くほどに近かったその巨躯は、石の床に靴の金属音を鳴らしながら一歩下がっていった。
「滅相もございません。出過ぎたことを申しました……どうかお忘れください」
「あっ……」
声に出したはいいが、平民である彼の反応と動きを見て、胸が苦しくなる。後悔の意思が表情に浮き出そうになるのを抑えるため、下唇を噛んで我慢をする。身分の差を感じさせてしまったのは本意ではなかったため、どうにかして取り繕おうとするが、肝心な時に、あれほど誇った頭脳が次の言葉を紡ぎ出せない。
帝室令嬢は仕方なく早々に会話を切り上げようとして――
「……そう。あの賊共には十分な時間をあげたわ。だからもう、一人たりとも生きて逃がさない」
「御意。では自分が先頭に立ちますので、お嬢様も――」
素直に彼の背中へ隠れられない。帝室の末裔などという、呪縛にも等しい誇りから逃避し切れないのは他の誰でもない、《己の方》だ。
「その、あなたのこと、信じてるわよ……」
「‼」
気高い表情と勝気な態度を最後まで貫くつもりだったが、死への恐怖という本音を抑えきれず、従者が語った武勇を頼りにしていることを、彼女はついに吐露してしまった。
その言葉が巨躯を誇る男の耳に届いた瞬間、彼は大きく目を見開く。即座に表情を引き締め、左腰に提げられた長剣に右手を添えながら、不安を切り裂くように力強く宣言した。
「お任せください、お嬢様。先代当主に拾って頂いたご恩に報いるため、全身全霊をもってお守りいたします。不埒な輩共には指一本、決して触れさせません」
鋭く光る黄金の瞳と鋭利な翡翠の双眸、身分の違う二人の視線は交差する。ブランシュは従者へ情けない姿を見せたことに両の拳を握り締め、手の平に爪を食い込ませながら、信頼を受け止めてくれた彼に言葉を渡す。
「……ありがとう、シリル。あなたの強さを信じてるわ。引き続き、準備をお願いね……」
「御意に」
シリルが扉から外へ出て行くのを静かに見送る。主人は身震いをして下唇をさらに噛み締め、恐怖に負けた等身大の影を払い除けるかのように大きく首を振る。そして漆黒のアンティークドレスの裾を優雅かつ大胆に摘み上げ、真っ白な玉の肌の太ももに隠してあった革製ホルダーから、両手でそれぞれ一本ずつ短剣を抜き放つ。刃の根元に翡翠が埋め込まれた骨董品の双子短剣。明らかに儀礼用か祭典用の代物だが、帝室令嬢はこれを護身用として肌身離さず携帯していた。
手慣れた動作で二枚の刃を反転させながら、腰を低くして一気に空を斬り、そのまま流れるように後ろを振り向いて、無数に存在する弱音を吐く自分の影を切り裂いていく。明らかに対多数を意識したその戦い方は、可憐で美しい。しかしそれは、本来ならば帝室の血を引く高貴な彼女が身に着ける必要などなかったはずの、哀しい必殺の戦闘術だ。刹那すらも考えたくないが、唯一の味方を失ってもなお生きていくための、本当に最後の砦。
しばらく影と踊ったのちに再びドレスの裾を掴んだ奥へ、自身の身体を傷つけないようにしながら、元の場所へと双子短剣を眠らせる。
「はぁっ、はぁっ……! 私なら……できるに決まってるわ……!」
荒い息遣いで武器を振るって邪念を切り伏せた帝室末裔は、己を奮い立たせるためか、はたまた退路を塞ぐためなのか、誰もいない部屋で勇ましく声を放った。そして今度は窓に向かって歩き始め、月光に銀白髪をたなびかせながら外を眺めた。
「ふぅ……でも、まずは……」
深い森に囲まれた屋敷には、一本しか山道が繋がっていない。そんな細道のはるか先に、再びブランシュの右眼の視界にどす黒い闇の霞が、悍ましく蠢く。眉間に深く皺を寄せ、半目に伏せた翠眼をさらに細めて、常に右眼を覆う片眼鏡に右手を添える。こめかみを強く圧しつける指先を微かに震わせ、額に脂汗を浮かべて背中に寒気を感じつつ唾を飲み込むと、固く結ばれた唇が僅かに開かれた。
「いずれ女帝になる黒薔薇を手折ろうなんて考える、救いようのない屑共……。皇帝不在の帝国に代わって、私とシリルで掃除してあげなきゃね」




