「リボンの子」
あの日、わたしは死にかけた。
五年経った今でも、たまに見る夢。
「リボンよし、短剣よし。行ってきまーす!」
大きな白いリボンを揺らし、腰に短剣を差して、十一歳のリリアは家を飛び出した。
向かった先は、町外れの森。
大人たちが使う山菜道を進めば、子供でも入口までは行ける場所だった。
ただし、リリアは地図を最後まで見ない。
文字も、人の説明も、だいたい途中で分かった気になる。
そして今日は、その地図すら家に置いてきていた。
「かわいい狐さんだ!まってよー」
偶然会った狐が道案内をしてくれているようにリリアは見えた。
狐は少し先まで行くと振り返り、リリアが近づくとスタスタと走っていく。
それを何度か繰り返していた。
「狐さーん、こっちで合ってるの?」
全く合っていなかった。
リリアが進んできた道は、もう山菜道ではない。
人が踏み鳴らした道ではなく、細い獣道だった。
狐は、いつの間にかいなくなっていた。
「……あれ?」
リリアは足を止める。
さっきまで聞こえていた鳥の声も、草むらを走る小さな音も、気づけばほとんど消えていた。
森が、変に静かだった。
「狐さーん?」
返事はない。
代わりに、頭上の枝がかすかに揺れた。
その時、リリアの足元を、白っぽい小さな影が横切った。
「えっ、ネム?」
屋根裏に居ついている、あの子猫だった。
子猫はリリアを見もしない。低い姿勢で草の間を抜け、黒い糸の張った枝をひょいひょいとかわしていく。
「ちょ、ちょっと待って! なんでここにいるの!?」
追いかけようとした瞬間、背後で、かさり、と音がした。
ひどく乾いた音だった。
枯れ葉を踏む音ではない。
何本もの細い足が、木の皮をこするような音。
振り返ってはいけない。
そう思ったのに、リリアは振り返ってしまった。
黒い蜘蛛が、木の幹に張りついていた。
子供のリリアより、ずっと大きい。
「っ……!」
声にならない悲鳴を飲み込んで、リリアは走った。
子猫が抜けた方へ。
そこが安全な道なのかどうかなんて、考えている余裕はなかった。
枝をくぐり、木の根につまずき、息を殺して太い木の陰に滑り込む。
心臓が、耳の奥でばくばく鳴っていた。
(こわい、食べられる。……ど、どどどうしよう)
追ってきていないか確かめようと、リリアはそっと横を見た。
暗がりに、青い目が二つ浮かんでいた。
「きゃあっ!!」
「にゃーーっ!?」
少女と猫が同時に飛び跳ねて、叫んだ。
(……あれ?)
でもリリアはすぐに気づいた。
いつの間にか家に居ついていたあの子だと。
「……なにしてるの?こんなところで」
子猫は答えなかった。
視線はリリアの上を見ていた。
一歩、二歩とゆっくり後ろへ下がる。
「……え?」
リリアが振り返る前に、黒い足が動いた。
そこは、すでに黒い蜘蛛の巣の内側だった。
迷い込んだリリアも、獲物の一つになってしまった。
子猫の小さな体に、淡い光が灯りかける。
けれど、光はリリアに触れる前にほどけた。
頼りない瞬きだけが、森の奥へ小さく漏れる。
振り返った少女の視界いっぱいに、黒い影が覆いかぶさる。
その瞬間——
その真下に、青年がいた。
いつ来たのか、リリアには分からなかった。
ただ、黒い旅装の裾が、ふわりと揺れている。
その後に見えたのは黒い大剣だった。
青年は大剣を片手で握り、地面すれすれから振り上げた。
黒い刀身が、夕闇に半月を描く。
音はない。
ただ、遅れて風が走った。
リリアはリボンが飛ばされないように必死に頭を押さえていた。
それでも、視線は青年からは逸らさなかった。
空中の蜘蛛が、その半月に沿って裂けた。
どさり、と落ちる黒い影。
青年は大剣を肩に担ぎ直し、リリアを見る。
紫の瞳が、薄暗い森の中で静かに光っていた。
「そこの、リボンの子。……無事か?」
その直後、草むらを黒い小さな影が凄い速さで走ってきた。
黒いイタチは青年の足元を回り、するりと外套を登って肩に乗る。
「固まってる」
「……無理もない」
青年はそう言って、大剣の切っ先を少しだけ下げた。
リリアは、口を半開きにしたまま青年を見上げていた。
さっきまで泣きそうなくらい怖かったのに、今は胸の奥が変に熱い。
黒い大剣。
黒い服。
黒いイタチ。
紫の瞳。
ひとつひとつが、暗い森の中で、やけに格好良く見えた。
(……かっこいい)
リリアの黄色い瞳が、暗がりの中できらきら光った。
黒いイタチが青年と普通に話している。
なんで話せるの。イタチなのに。
でも今のリリアには、それより大事なことがあった。
(……クール系だ)
その時、リリアの後ろで、小さな気配がもぞりと動いた。
子猫のネムがリリアの足の陰に隠れていた。
体を低くして、尻尾を丸めている。
それでも青い目だけは、青年の肩に乗った黒イタチをじっと見ていた。
黒イタチも、子猫を見た。
黒紫の瞳と、青い瞳が合う。
「……この子だね」
黒いイタチが静かに言った。
青年も子猫へ視線を落とす。
紫の瞳が、ほんの少しだけ細くなった。
「さっきの気配か」
「そう。でも、まだ形になってない」
「まだ幼いな」
「動こうとはしてたみたいね」
何の話をしているのか、リリアには分からなかった。
分からなかったけれど、ネムが青年と黒イタチに見られて、ますますリリアの後ろへ隠れたのは分かった。
「……どうしたのネム?」
ネムと呼ばれた子猫は返事の代わりに、リリアの足へぴたりと体を寄せた。
黒イタチはそれ以上何も言わず、青年の肩の上で尻尾を揺らした。
「そういえば、町を出る時に地図貰ってたわね?」
「あるな」
青年が背負っていた革の鞄を降ろして、開ける。
鞄に手を入れ、取り出した地図を広げた。
「走れば、町まですぐね」
「少し急ぐか」
森の上には、もう夕暮れが降り始めていた。
ぽんっ。
青年の手にしていた地図の角が、リリアの頭を軽く叩いた。
「……あぅ」
「いくぞ。日が落ちる前に」
青年はそう言うと、リリアの返事を待たずに彼女を抱き上げた。
「えっ」
次の瞬間、森が横へ流れた。
枝も、幹も、黒い糸の残る茂みも、全部が後ろへ飛んでいく。
リリアは悲鳴を上げることも忘れて、青年の外套にしがみついた。
速い。
でも、揺れない。
まるで森の方が勝手に下がっていくみたいだった。
少し遅れて、黒イタチが影のように足元を走ってくる。
ネムは、首元を咥えられて無抵抗に固まっていた。
やがて木々が薄くなり、遠くにリーベルの町の灯りが見えた。
青年は少女を地面へ降ろす。
「ここからなら、もう帰れるな」
「……たぶん、帰れます!」
咥えたネムをリリアの足元でぽとりと降ろし、黒イタチが青年の肩へ登る。
丸い顔でリリアを見た。
「町は近い。まっすぐ帰りなさい」
「はい!」
青年はもう一度だけ、紫の瞳でリリアを見た。
「気をつけろ、リボンの子」
それだけ言うと、青年は地図を片手に森の方へ戻っていった。
黒い外套が夕暮れに揺れる。
リリアはしばらく、その背中を見つめていた。
胸の奥が、まだどきどきしている。
「黒いのって、こんなにかっこ……。あーっ!」
町の灯りを見て、ようやくリリアは我に返った。
「名前を、聞いてない……!」
そして、十六歳になった今。
わたしは、ついに旅立とうとしていた。
あの日見た背中に、憧れて。
「……黒リボン、よし」




