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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
22/45

枚岡・額田・石切

筋肉痛のおかあさんと翌日に行ったのは、また丘陵地帯だった。

東高野街道を歩いて、スルーしたものの気になるところがいくつかあった。

1.枚岡神社の出雲井と神津嶽(もともと天種子さんが神武天皇即位3年前に先祖を祀ったところ)

2.額田寺周辺

3.石切神社の上之宮(石切神社の元の鎮座地)


枚岡、額田、石切と電車の駅(近鉄奈良線)も並んでいるくらいだから近くて、全部まとめて行ってみることにした。紅葉の季節、山沿いを歩くし、素敵だろうなと思って。正解だった。11月末で、一番きれいな時だったんじゃないかな。

山はいろんな絵の具を使って絵に描いたみたいに、信じらんないくらい多彩に色づいていた。

おかあさんは足腰を痛めてもいたけれど、「痛みは歩いて治すのがいちばん」って。


まずは近鉄奈良線で枚岡駅に。

近鉄電車について、やっと分かってきた。大阪線は南東に走り、恩智、柏原、二上山(生駒山地の南)あたりを通って、奈良は桜井あたりを通り、まだまだどんどん進む。奈良線は布施で大阪線から分かれ、生駒山地の北側を走って奈良駅まで。南大阪線は阿倍野発。南東に走り、藤井寺、古市、二上山あたりを通って、どんどん進む。

大阪線は大阪難波駅を出発したら瓢箪山で生駒山地につきあたるまで東に進み、生駒山地の西麓を北上。枚岡、額田、石切と進んでから、生駒山地を東にトンネルで抜ける。

道中、元は河内湾だったところに、ぎっしりと家々がどこまでも建ち並んでいるのが見えた。おなじみになってきている枚岡は、駅を降りてすぐにもう自然でいっぱいのところだ。駅を出るとすぐに枚岡神社があって、いろんなハイキング道のスタート地点になっている。

一体どこから自然豊かな田舎になるんだろう、と思って、ずっと窓の外を見ていた。そうしたらどこまでも家々は建ち並んだままで、びっくりした。

瓢箪山駅あたりから、電車は生駒の山裾、上り坂になっているあたりを走る。けれどその既に山が始まっている坂道にまで、ぎっしりと家々が建ち並んでいた。枚岡駅に至るまでそれは変わらなかった。

枚岡ってそれほど田舎でもないみたい。枚岡神社とその周辺の枚岡公園あたりが自然を残しているだけみたい。

この頃、こんな田舎に、と思うようなところにも集落があることにびっくりする。かつてはどこも等しく農地で、人口密度も収穫物にほぼ比例して、それぞれの農地に散らばって暮らしていたからなのだろうな。けれど今や人々は農地を捨てても生きていけるから、地面が見えないくらいに家々が密集している。

よくもまあこんなに家々があるもんだ、とあきれた。

日本は少子化だ少子化だといっている。けれど、当たり前じゃないかな。

ずっと同じくらいの人口をキープしていたらしいのに、人口密度と収穫物が関係しなくなって、人口が爆発的に増えてしまった。密集した家々を見ていると、異常な増え方だなあと思うから、これから正常値に戻っていくのじゃないかな。それまでに超高齢化社会を一時期迎えるのは当たり前だ、と犬としては思う。

後で知ったことには、枚岡は地場産業として、伸線業が盛んだったのだって。

豊浦谷には伸線業(針金なんかを作るのかな?)のために水車が回っていたそうだ。そのうちに電気が引かれ、軍需拡大もされ、町中に工場ができていったんだって。それで人々が集まってきた。

けれど時代が変わり、工場は次々閉鎖。そこに今度はマンションなどが次々に建てられていったんだそうだ。


電車からバッグに入ったまま枚岡神社へ。拝殿へ向かう上り坂の両側には紅葉した木々が並んでいて、それはもうきれいだった。

鳥居の注連縄は妙な形に結われて、垂れていた。何か意味があるのだろうな。

出雲井を探したのだけれど、園内マップもほぼなくて、分かりにくかった。鯉の泳いでいる池を「これかなあ?」って。

結局、違っていたみたいで(そりゃあ井戸と池は違うよな)、出雲井は見ないまま。けれど、自然の素敵さで十分だと思った。出雲井って、ニギハヤヒがやってくるより前にここにいた出雲族の井戸だったんじゃないの?と思って、その井戸を見てみたかったのだけれど、こんな素敵なところには、ニギハヤヒよりずっとずっと前から、人は住んでいたことだろうと思った。それが出雲族だったということも充分ありえただろう。


次の目的地は神津嶽かみつだけ。枚岡神社の元宮があったところなんだとか。神社というか、祭祀の場所だったところ。

神社の右手(南側)にある梅園の方からハイキングコースを通って行けばいいみたいだった。

梅園らしきところは、伐採されてなにもなかった。梅に病気が流行ったかなにかで、根こそぎみんな伐採してしまったと、冬明けくらいに聞いた記憶があった。

「ハケ・ブラシ顕彰碑」なんてものを越え、なるかわ方面への道を進んだ。電車がゴトゴト(各停かな)、ビュウウウー(急行かな)となっていた。けれど、別世界だった。それ以外はしんとした、美しい秋の山。

それにしても人気ひとけがなくて、誰にも会わなかった。秋には人でいっぱいかと思ったのに。

何カ所か、「路肩養生中」と書かれているところがあった。路肩が崩れて、ロープを張っているところも。

そして「七曲」ってところに出たのだけれど、わたしたちが歩いてきた道に向かって、「通行止め」とロープがはられていた。どうやら通行止めの道を歩いていたみたい。・・・それで誰にも会わなかったのか。ここまで来ると、ちらほら登山者がいた。散歩姿のわたしたちとは違って、登山姿だった。


それから展望台まで、けっこう登っていった。

大阪の街が一望できる展望台からは、モヤがかかっていたけれど、通天閣らしきものもなんとなく見えた。。

そこから神津嶽はすぐだった。けれど、本当にここ?と思った。きれいすぎた。

もっと原始的なままだと思っていたそこは、きれいに整備され、「藤原裔」であるらしい尼僧さんの名で新しい(平成5年)祠がツクラレていた。

こういっちゃあなんだけど、神様のいる気配もなにも感じられなくて、呆然とした。

ここではないところに本物があるんじゃあ?と疑ってもみたけれど、一番高い位置にあるし、神津嶽はここなんだろう。

しかし、これでいいのか?と思った。「出雲井」という名前からして、元々は出雲族が住んでいたのかもしれない。そこにニギハヤヒがやって来て、ナガスネヒコ(出雲族かも)の義弟となり、ナガスネヒコを裏切って神武天皇についた。

そんなニギハヤヒを祀ったのが石切神社で、神武天皇が自分の祖先ニニギとコノハナサクヤヒメを祀ったのが梶無神社で、その忠臣の天種子が自分の祖先アメノコヤネを祀ったのが枚岡神社だった。

けれどその前にこの地にいた神様だっていただろう。そんなことをみんな無いことにして、「藤原裔」(つまりはアメノコヤネの末裔なのだろう)がアメノコヤネをここでの唯一の神みたいにきれいに祀るなんて・・・。

歴史が抹殺されている現場を見た感じがした。繰り返されてきたことなのだろうけれど、こんなに生々しいのは初めてだった。

枚岡神社での目的地2つはなんだか達成感がないまま、下っていくことにした。

ついでなので、豊浦橋経由で額田に行こうと思っていた。何度も行っている豊浦橋は、この秋にも一度やってきたけれど、まだ紅葉には早すぎた。今ならきれいだろうなあ。


ところが豊浦橋方面に向かう道も通行止めになっていた。台風の影響で崩落箇所があるらしい。それならそうと早く知らせてよ~と思ったけれど、調査不足。こんなことは山ではあるあるなのだ。

だから紅葉の季節にしては行楽客が少なかったのか。一番の見所じゃないかと思うくらがね橋から豊浦橋への間も通行止めで、通れなかった。

仕方ないからくらがね橋に向かい、そこから北の額田駅を目指した。

重願寺の前をつきあたりまで進み、左に行けば額田駅だった。

右の道は山に向かっていく上り坂で、横には小川が流れていて、雰囲気があって素敵だった。「長尾滝・雙龍庵跡・慈光寺」への道標があった。この道は、額田川の流れる長尾渓ってところを通る、古くからの修験道であるらしい。今もお寺がいっぱいあるんだって。

慈光寺は「髪切こぎりにある役行者開祖の寺」のことかな? 雙龍庵は慈雲尊者なる人が穏棲したところで、長尾滝の近くにあるらしい。

ここを少しだけ進んでいってみた。すぐ近くには枚岡公園の児童公園などもあるというのに、ほんの少し歩くだけでも、別世界だった。すごく古い時間が流れていた。

いきなり「神道大石教会本部」なんてところが現れて、小さな小さな大石神社があった。大きな石が祀られていて、神社というよりも滝行場のような雰囲気だった。

大石順教の名前があって、聞いたことがあるな・・・と思っていたら、あの堀江六人斬りの妻吉さんの法名ではないか。

堀江六人斬りというのは、明治時代に起きた堀江の遊郭の主による家族惨殺事件で、唯一生き残った住みこみの舞妓さんが妻吉さんだった。

この先も気になったけれど、目的を優先させることにして、引き返して道を下っていった。途中、楠木正行首塚の道標もあったようなのだけれど、行き過ぎてしまったみたい。ただ小楠公の首塚(と言われるところ)は、いろんなところにあるのだって。


額田駅を過ぎて、そのまま下っていった。相当下っても、東高野街道はまだ現れなかった。

街を見下ろす高台がつづき、このあたりの人達にとって、街は見下ろすところなんだな、と思った。

辻子さんなんておうちがあった。「辻子谷」の「辻子」って、十字路のこと(細い道のことも)らしい。

右側に一際存在感のある寺が現れて、玄清寺だった。このあたりが、前回の東高野街道歩きで探したけれどたどり着けなかったあたり。

そのまま十字路まで進み、右に行くと額田戎神社、左に行くと額田会館があって、その裏手が額田寺だった。

額田戎神社(犬NG)は真新しい感じで、素通りした。元々は江戸時代の終わりごろ、土地の人が毎夜、霊感に悩まされて勧請したんだって。けれど明治時代にか、枚岡神社に合祀。その後、復活したのだって。

額田がくでん寺周辺は、このあたり一帯が元々はこの寺の境内だったのだろうなあと思わせるものがあった。

この地の豪族、額田首の子孫であった高内さんが、東高野街道を行く弘法大師の宿泊のために建てた寺。高台にあって見晴らしがよかった。素敵な宿泊場所であったことだろうな。玄清寺を建立したのも高内さんだそうだ。織田信長に従って石山本願寺を攻めた後、その戦没者の霊を弔うために建立したのだって。


そして戎神社と寺の間の道を更に下ってすぐ、右折する道の先に公園が見えていて、そこに入っていってみた。

この公園に面白いものがいっぱいあった。地蔵堂や極楽寺、鎮宅霊符神社、櫻井藤八翁彰徳碑。

鎮宅霊符神社って、初見でよく分からなかったのだけれど、陰陽道に関わるものであるらしかった。説明に安倍晴明云々と書いてあった。鎮宅霊符神って妙見さんにも関わりがあって(どちらも北極星を神格化したものという話だった)、陰陽道の神様であるらしい。

陰陽師の安倍さん(後に土御門さん)は、京で暦読みとか、占いとかを行っていた。いろんな日取りとかも決めていたんだよね。そして各地(摂津、河内、山城など)の陰陽師たちがこれを補佐。彼らを「歴代組」というのだって。

安倍さんが、歴代組たちの地に鎮宅霊符神を勧請したんだとか。その1つがここで、額田歴代組の末裔たちによって守られているんだそうだ。

説明には「額田村住民は中務省陰陽寮歴代組と称し、応仁の乱で没落していった」云々とあった。中務省陰陽寮は、天武天皇が設置し、明治時代まであったものらしい。

額田戎神社は額田の土地の者が毎夜、霊感に悩まされて勧請したってことだったし、額田村住民って一体・・・。

櫻井藤八翁彰徳碑は、この地にあった立派な木を切り倒したのを惜しんだ桜井さんなる翁(詳細不明)が、若木を植えたのを彰徳した碑、だったかな。

他にも極楽寺前にたてられた説明板には、「高木の神」「母木」「日向ヒガラムキ」とか書かれていたけれど、わたしには初耳ばかりで意味が分からなかった。高木の神って高皇産霊神タカミムスビのことかな? タカミムスビの娘とアメノオシホミミが結婚して、ニニギが産まれているから、ニニギのおじいちゃん。

母木もぎには覚えがあった。恩智神社あたりの橋の名前が「母木橋」だった。恩智は古い時代には「母木里」と呼ばれていたのだって。「日向」というのは、ここのあざ日向ひなむきらしくて、そのことだろうか?

説明板は、木とか、日とか、そういう原始の信仰の話をしてるのかなあとは思ったのだけれど、よく分からなかった。

額田には、今はないけれど額田神社もあって、応神天皇の息子、額田大中彦皇子が祀られていたということだった。額田大中彦皇子の母が高城(高木)入姫。姉妹3人そろって応神天皇の妻になっていて、そのうちの1人が高城入姫、1人が仁徳天皇らを生んだ仲津姫。姉妹のお父さんがホムタさん。

伊勢にも額田神社があるそうだ。

なんだか謎めいた額田にお腹いっぱいになり、ついでに行くつもりだった額田墓地のことはすっかり忘れていた。行基がつくったという河内七墓の1つらしいのだけれど。

そして石切に向かって北へ。



東山町あたりは、東高野街道でも歩いたところだった。道がいりくんでいて、そこに高低差もあって、迷路のようだった。

山裾あたりを歩いて行き、途中、公園で休憩した。高台になったそこは若宮公園で、若宮賽(かな?)祚社の碑とか、若宮大神の祠とかがあった。枚岡神社に合祀されていた若宮神社がここにあったとかかな? 地名も若宮だった。

思いきり街を見下ろすところで、山はきれいで、こんなところに住むって、素敵だなと思った。

それから高級住宅地だったのだろうなあってところがあった。家々がいちいち大きくて凝っている。おお、と思ったところは、高低差を利用してか、門を入ったところが、いきなり深くて大きい池になっていた。門から玄関までは池にかけられた凝った造りの橋を渡って行く。酔っては帰れない感じ。

近鉄奈良線の東側あたりをてくてく北上。右手にはホテルセイリュウがあって、左手には線路の向こうに緑が見えていたけれど、木々の上部しか見えなかった。線路の向こうは急な下り坂になっているようだった。

上石切墓地(辻子墓地)が現れ、そのまま歩いていくと、左手に「ようこそ石切へ」の文字が見えた。

前回歩いた、石切神社から上之宮に向かっていく参道らしかった。前回、ここまでは登っていなかった。さらに登って上之宮に行くべく、右折。小さな階段を登って、その先へ進んだ。

すぐ道標が現れて、右に進めば「石切神社奥之院・弁天滝金剛寺」らしかった。少しそちらに進んでいってみた。古い参道商店街らしき道が続いていた。高低差があるところに商店があるので、道路に面した入り口は実は2階とか。下に建物が続いていて、下に1階の古いレンガの壁なんかが見えた。井戸まで見えた。

すぐに「下金剛寺・石切観音寺」だった。祠だけだったけれど。

奥の院にはさらに徒歩15分だって。でもUターン。15分坂を上っていくのを回避して、元の道に戻った。多分なのだけれど、奥の院、上之宮、現在の石切さんと、石切神社はだんだん下っていって、奥の院は今は寺になり、上之宮も一時はなくなっていたんだけれど、後に復興、って感じなのかな?


左側に、どんだけ!と言いたくなる大きな古い家があった。その家を越したところが爪切地蔵で、ここは辻子谷ハイキングコースの一部だった。

爪切地蔵は、弘法大師が一夜にして爪で刻んだという伝説があるんだって。大きな石に彫ったお地蔵さんは、実は室町初期頃のものらしい。

表側にあるのは四光地蔵で、爪切地蔵はその裏にあった。地蔵の違いなんて分からないけれど、裏を覗き込むと、ああこっちが有名なほうの地蔵だってすぐ分かる重みがあった。その四光地蔵の向かいが「一番大師堂」で、その後ろが、さっきの大きな古いお家。

それから道々、神立みたいにお地蔵さんがときどきたっていた。辻子谷ハイキングコースは昔、おかあさんが歩いたことがあるそうだ。生駒山上まで行って帰ってきたらしい。お地蔵さんがずっといて、途中、辻子谷のあたりには水車が回っていたそうだ。

辻子谷の水車は、かつて、前に行った道修町で売られる薬のためにたくさん回っていたそうだ。

そして豊浦谷や額田谷では、伸線業のための水車が一時回っていたのだって。電気がひかれる前の話なのだろうな。


石切地蔵がいて、それからすぐ右手に鳥居が現れ、参道を登っていくとすぐが上之宮だった。下の石切さんから少し上がっただけなのに、自然豊かなところで少し驚いた。瑞々しい緑。まだ自然が元気なところだった。

滝行できるところもあって、それはちょっと無理やりって感じがしたけれど。

周りには他にもいろんな神社や宗教施設が固まってあった。宗教のテーマパークを目指したのか?というような一帯だった。

けっこう最近にきれいにされて、いろんな説明板もたてられたのじゃないかな、という感じがした。「婦道神社」の説明板とか、ちょっと偏った考え方だなと思わされるものがあって、市による説明板なんかとは明らかに違っていた。

婦道神社には神武天皇のために海に身を投げた弟橘姫命(和泉に祀られるタジハヤ姫か?と言われる人ね)が祀られているらしく、婦人の道の鏡だなんてふうに書かれてあった。市による説明だと、「時代的に」とか「一部、そのような考えがあり」とかいう文章になりそうだけれど。

弟橘姫命の父親は穂積氏の祖だそうだ。物部氏と同じニギハヤヒの子孫。元々、ニギハヤヒの直系の子孫は穂積氏で、その穂積氏から分かれたのが物部氏と思われるそうだ。石切さんの祭司は代々、木積氏が務めているらしく、この木積こづみ穂積ほづみ氏から分かれたものだそうだ。


物部氏の祖はニギハヤヒの子孫のイカガシコオ(10代崇神天皇のおじさんね)。ニギハヤヒから穂積氏が、イカガシコオの代になって物部氏がうまれたということかな。イカガシコオの子孫は肩野物部を名乗ったらしい。肩野は地名で交野、物部は「武力」に関わる職のことかな。

登美霊社なるデザイン性を感じさせるきれいな建物もあって、ここには三炊屋姫命が祀られているらしかった。

石切さんに祀られているのはニギハヤヒと、可美真手ウマシマデ命だった。可美真手命ってニギハヤヒの息子で、石切さんに神武天皇2年に父を祀ったと言われている人、つまりウマシマジ。

三炊屋姫命はその母だった。ニギハヤヒの妻で、ナガスネヒコ(トミヒコ)の妹。別名、登美夜姫(鳥見屋姫・櫛玉姫)、トミヒメ。大和あたりには「鳥見山」や「トミ神社」などが今も残っているらしい。トミヒコやトミヒメは、その一帯の有力者だったのかな。義理の弟のニギハヤヒや甥のウマシマジが和睦(?)した神武天皇によって倒されるまでは。


八王子神社かなにかもあって、ここにもちょっと私見のうかがえる説明書きがなされていた。役行者がどうのとか書かれていた。穂積さんの師が役行者だったこともあるのだって。

「役行者」ってよく出てくるけれど、何者なのかはまだ知らなかった。またおいおい。

そして、妙な建物が目立っていた。トイレのあるところ。石切夢観音であるらしい。トイレ以外は開放されておらず、ロープなんかもはられて、落ち葉が降り積もっていた。使われている感じはなかったけれど、茶室なども併設しているらしかった。

おかあさんが、来たことがある気がすると言っていた。辻子谷ハイキングコースを歩いた昔に。その時は茶室など、全館オープン中で、女の人たちが働いていて、こんなところにこんなものが・・・と驚いたような記憶があるって。そんなのが夢幻に思えるような、がらんどうの場所になっていた。そこに作り物かと思うくらいの真っ赤な紅葉があった。

宗教のテーマパークみたいなところ、でも、そんなのに甘んじないパワーが残っているような気のする一帯だった。


さあ帰ろうと、電車に向かった。参道を降りていって、シェ・アオタニでブッセを買って、新石切駅から帰ろう。

途中、日本で3番目の大きさだという石切大仏があって、その先が前にも歩いた参道だった。お寺にあって目立っている石切大仏は、漢方薬(赤まむしドリンク)で財を成した人がたてたのだって。

参道に入ってまもなく、左手に千手寺への道標が現れたので、行ってみた。すごい高台にあるお寺で、そこだけ時間の流れが違っているようだった。大袈裟に言うと、仏のてのひらに掬われて宙に浮いているみたいな。かつては山の中のお堂だったんだろうかな。

それから人でいっぱいの参道を下っていった。

石切さんを過ぎて新石切駅に向かう途中、いくらでもおしゃれになりそうな町だな、と思った。石と緑、それを上手に使ったら、どんなにおしゃれになれることだろう。

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