信貴山へ
東高野街道沿いに鳥居がある恩智神社だけれど、参道は長く、もっとずっと山側に東に進んだところにあった。参道の途中には、神灯台がいくつかの町内の名で立てられていた。来恩寺などもあり、雰囲気のある一帯だった。
上り坂を上っていく途中、右側の細い路地に惹かれて歩いてみた。古い家の密集する、すごい古さのところで、時代は変わっていくのに、こんなままでいいのか?とさえ思った。水路といい、いったいいつの時代からのものなんだろう・・・。どうやらこの先に、東高野街道歩きで行った恩智左近の墓や恩智城趾公園なんかがあったみたい。現代化を避けて、恩智を守って生きている人々なのかもと思った。
長い参道の後、恩智神社は、更に長い階段を登っていった先にあった。階段の下にライオンみたいな狛犬がいて、ここでも左の狛犬に角があった。
拝殿の前にはうさぎと龍が狛犬の代わりのようにいた。ここではうさぎと龍が神の使いなんだって。神兎がいるなんて住吉大社みたい・・・と思ったら、なにかと住吉大社と縁のある神社なんだって。
前に行った玉祖神社は、山口からやって来て、最初は住吉大社を訪れたけれど恩智神を頼るように言われて、八尾の神立に鎮座したという話だったな。
恩智神社は雄略天皇の時、アメノタヂカラオを祭神として創建され、後の奈良時代、藤原氏が再建して、アメノコヤネを祀ったんだって。アメノタヂカラオは天照大神の岩戸隠れの時、岩戸からアマテラスを引っ張り出した力持ち。
恩智神は雄略天皇より前の神功皇后の三韓征伐のときには、住吉大神と共に海路、陸路を無事に案内したんだとか。アメノタヂカラオとどうつながるのかはよく分からないけれど。
恩智神社の元の鎮座地は恩智川や玉串川にも近く、大昔には河内湾だったようなところ。住吉大社と同じく船や海に詳しかったのかも。三韓にも。
境内に「船戸大神」と大きく掘られた石碑があった。よく分からないけれど、船戸講があるとかなんとか・・・。住吉大神と船戸大神は兄弟神であるらしい。
イザナギとイザナミの子、つまりアマテラスの兄弟には、ヒルコ、スサノオ、カグツチ(この子を産んでイザナミは亡くなった)らの他、大山祇命(ニニギの妻コノハナサクヤヒメの父)、熊野速玉大神、タケミカヅチ、住吉大神(住吉三神)、船戸大神(衝立船戸大神)らがいるらしい。船戸大神は、猿田彦ではないかとも言われているそうだ。
とにかく恩智神社についても船戸についても古すぎて、よく分かっていないのかな。
神社の階段の下まで戻って、神社に向かって右手の道に進んでいった。いきなり山中のようだった。コンクリ道ではあったけれど、水の音がして、山の中に入っていく。
神社の裏手を階段で登っていった。これがなかなかに長い階段で、131段の階段の上にあるらしい恩智神社よりも高く上がっていった。
道が左右に分かれていて、ここで左に行けばよかったのだ。人気のハイキングコースらしい恩智越道を行くには。それをわたしたちは右に行ってしまった。たぶん、これは中信貴街道と呼ばれる道だったのだと思う。
池があった。「つり禁止」と書かれていない珍しい池で、地元民らしいおじさんたちが釣りを楽しんでいた。
わたしたちはてくてく池を通り越して進んだ。人気のハイキング道のはずなのに、人はいないなあ、しかも橋が壊れてる!なんて思いつつ、壊れた小さな橋をまたぎ越して進んだ。ハイキング道として紹介されている割にはこの放置感はどうなってるんだ、と、道標のひとつもなくて思った。
そしててくてく進み、山の斜面を、おかあさんと手をついて(斜面が急で、お母さんも手をついてたの)歩きながら、おかしくない?と、初めて思った。これって、道というか、ただの山の斜面。道なんかなくなり、ただ石がいっぱい露出した急斜面にいつの間にかなっている・・・。
「遭難」という言葉が頭をよぎった。けれど、「山で迷ったときは、上に行け」。上に進み続けたら、道が現れた。単に道を見失って変なところに迷い込んでいたのかな?
そして左手の下の方にいっぱいの墓が現れ、分岐点でどっちに進むか迷いつつ山道を抜けたら、車道にでた。歩道のない道で、カーブしていてどこに続くかも、どっちに進めばいいかも皆目わからないし、とりあえず見えていた墓地(高安山霊園)に失礼ながらお邪魔した。
霊園案内図によると、広大な段々畑みたいな墓地を下っていくとハイキング道に出られるところがあるようで、そこから出ていった。
ここからしばらくは中信貴街道と恩智越は同じ道を行くみたい。そしてここから先はちゃんと恩智越の道を歩いた・・・はず。
「スズメバチの巣があります。注意!」という柏原市のお知らせがあり、木の上に大きな巣があった。高級な壺みたいな色と形とサイズだった。
スズメバチの姿はなくてよかったけれど、ブ~ンと近くで羽音がしていて、しばらくするとふいに消えたから、テリトリーを出るまで偵察されていたのかな。
そのままてくてく歩いていくと、右手にお稲荷さん。ぼろぼろで小さな祠だったけれど、新鮮なお揚げがお供えされていた。そして地蔵があって、すぐに「ようこそ信貴山へ」。
信貴山のどか村だった。「ようこそ」の文字につられて入っていきそうになったけれど、違う違う、と左折。
後で知ったことには、中信貴街道はこのまま、信貴山のどか村にちょっと入っていって右手に現れる旧道に出て、王寺まで行くみたい。雁多尾畑を通って竜田から王寺へ。
右手に池が現れて、信貴山への丁石がたっていた。
「百二十五丁信貴山」と書かれている気がした。百なんて初めて見た。
そして久しぶりの人家。恩智神社裏の池から、山と墓地とほんの少しの車しか見ていなかったからな。
石灯篭があり、今度は「女五丁信貴山」と書かれてある気がした。
地名は三郷町信貴南畑。ごみステーションは、きっちりとした箱だった。匂いももれなそうなくらいの。田舎では、ゴミ捨て場の管理が甘いことで、イノシシが出没し始めると聞くものな。
禅入寺なる寺への上りの矢印があり、その川向こうの紅葉が、「なんだ、これ」とおかあさんが呟いたほどの見事さだった。
この日のハイライトだったかな。
そのまま歩き続けると、途中、下に見える集落が素敵だった。ちょっと久安寺の集落にも似た感じだな、と、降りて行ってみた。
鉢状になった町で、その底部に「とっくり湖」なる湖がある感じかな? 古い家がいっぱいで、軒下にはのきなみ干し柿が吊るされていた。紅葉も綺麗だった。
こんな田舎の集落に、道がいっぱいあるのが不思議だった。信貴山に朝護孫子寺ができてから、朝護孫子寺に至る道がいっぱい開かれたそうだから、朝護孫子寺に近いこのあたりも、けっこう賑わっていたのかな。
朝護孫子寺がいつできたかはよく分かっていないらしい。平安時代にはあったのは確からしいのだけれど。聖徳太子の創建で、「信ずべし、貴ふべし」と言ったから信貴山になった、という話はちょっとわたしは信じていない。
そして醍醐天皇が「朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所」として朝護孫子寺と名付けたというけれど、本当なのかなあ? 「チョゴスン(あれは)シジ(嫁ぎ先)」という朝鮮語から「ちょうごそんしじ」となった(わたしの即興のでっちあげ説)というのと同じくらい、なんだか嘘っぽいけど・・・。
おかあさんが前に韓国ドラマをみていたから、「ちょごすん」くらいは分かるのだ。
初めてカンガルーを見た人が「あれはなんだ?」と問うと、現地の人が「カンガルー」(知らない)と言った。それでカンガルーはカンガルーと呼ばれるようになった。それと同じように「あれはなんだ?」「チョゴスンシジ」「ほう~! 朝護孫子寺!」ってなったのかも!?
道の続きを歩いていると、「鶴澤三枝翁の碑」が少し段を上ったところにあった。明治20年頃、ここに南畑歌舞伎日出座があったらしかった。ここから巡業にも出ていたのかな。たいそうな人気で、道頓堀なんかでも興行していたんだって。鶴沢三枝さんはその座長だった人で、ここ南畑の生まれだそうだ。
そのまま進むとすぐ、寺の鐘の音が聞こえてきて、「信貴山」と大きくあちこちに書かれていた。朝護孫子寺に着いたらしい。
人がけっこう来ていた。大きな駐車場もあって、車でもここまでやって来られるんだな。バスも止まっていた。
お寺だけど狛犬がいて、ここも左側の子に角があった。意識するようになってから、角のある狛犬の方が多いくらいだ。
開運橋なる橋を渡っていった。
下は渓谷で、その深さがすごかった。渓谷なんて縁が無いわたしには、今までで文句なく一番の深さ。こわいくらい。そこに紅葉した木々が見える。
「うわ~なんだここ」とおかあさん。別天地だった。人気なのもうなずける。
少しだけお店があって、焼きたての草餅をいただいた。餡も熱々で、おいしかった。
それから大寅と小寅の横を通り、いっぱいあるお堂を回った。階段を上っていった先に、お堂はいくつもいくつもあるようだった。全体像が見えないくらい。
時間がおしていて、いくつか回って、最後に本堂に行くのでせいいっぱいだった。それで八尾駅じゃなく恩智駅からのスタートにしておけばよかったなあと思った。
本堂に上がると、すごい光景がひろがっていた。山の上の上の方にいて、そして山は見事に黄色く染まっていた。
100円払うと、更に中に入っていけるようだった。けれどわたしたちは去ったの。また絶対にやって来て、ゆっくり過ごそうと思いながら、その時にとっておいて、見事な山の一切れだけを眺めて、帰ることにした。
開運橋近くまで戻り、案内所の地図などを見て、帰り道を確かめた。バスもあるけれど、ケーブル跡ハイキングコースから帰るつもりだった。信貴生駒スカイライン通行止めのお知らせも貼られていた。台風の影響であるらしい。知らずに過ごしていたけれど、大型だった台風21号の爪痕がいまだ残っていた。
寺の出口に向かう途中、猪上神社なる小さな神社があった。
祭神は天足彦国押人命。5代孝昭天皇の長男で、ワニ氏らの祖とされている人だそうだ。母は尾張連の娘だって。
仁王門から出ていった。上を向いている狛犬がいた。天に吠えているみたいな。
左手に地蔵がずらっと何列にもなって並んでいた。「千体地蔵」だって。
「地すべり防止区域」という看板もあった。なんだか久しぶりだった。前に「地すべり防止区域」の言葉を見た雁多尾畑に近い。ここは北の久安寺と南の雁多尾畑に挟まれた一帯らしかった。
門を出ると門前町らしき道が続き、さびれた感のある門から出たわりには整備されて、きれいだった。と思ったら、バス停が現れた。
今はバスだけど、この近くにケーブルの駅もあって、参拝客の多くがこの道から仁王門に向かっていたらしかった。信貴山下駅(近鉄生駒線)からの直通のケーブル(東信貴ケーブル)が通っていたのだけれど、昭和58年に廃止されたそうだ。
信貴山口駅(近鉄信貴線)から高安山へのケーブル(西信貴ケーブル)は現役で、ただ高安山から朝護孫子寺に直結していた山上鉄道は昭和19年に廃止された(代わりにバスがある)そうだ。
かつてはよほど賑わっていたんだな。
廃止された東信貴ケーブルの跡が、今では「ケーブル跡ハイキング道」となっているんだって。
時間がおしていたので、バスで帰ることも考えつつ、ケーブル跡を探してみたら、バス停からすぐのところだった。
ずっと同じ勾配の下り坂が途中まで見えていた。その先は木々で見えなかったけれど、草は刈られていて、気持ち良い道に思えた。「イノシシ注意」「滑りやすいので気をつけて」と書かれていたけれど。どれくらいの距離があるか分からなかったけれど、登ってきた距離から考えて、そう長い道ではないだろうと、バスはパスすることにした。
勾配が急なので、ずっと走って下っていった。途中、出会った人は、手ぶらでゆっくり登ってきたおじいさん一人だけ。
走ったからか、けっこうすぐに町中まで降りていった。おかあさんは足腰が痛くなるだろうなって。二本足って、たいへんそうだな。
広い道に出て、その後も、広い公道を下り続けた。信貴山下駅から伸びる、けっこう馴染みの道だった。何度か歩いたことのある道。道幅が妙に広いのは、ここもケーブルが走っていたからかな。
確かこのあたりに城があったんだったよな、と見渡せば、高地性集落も、山城も、あったに違いないようなところだった。
坂の途中のおなじみのパン屋に寄って、久しぶりの信貴山下駅を通って、王寺駅まで歩いて、JR大和路線で帰途についた。
家に帰りつくと、おかあさんは早速、足腰がいたい~って言い出した。なのに翌日にはまた出かけて、山道を歩いていた。「なにしてんだろ」なんて言いながら。




