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大阪を歩く犬3  作者: ぽちでわん
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恩智街道

そして恩智街道を歩きに行った。前にも行きかけて、人身事故に遭遇して中止していた。

もう11月も終わり。散歩には気温が「ザ快適」の目盛りより少々低くなっていく頃だった。けれど夏に比べたら天国だ。まだまだ「快適」の範疇だった。

スムーズにJR八尾駅にたどり着いた。考えたこともなかったけれど、ありがたいことだった。

それからてくてく歩いたのだけれど、恩智駅からでもよかったかな、と思った。八尾から恩智までは距離がある割には見所に乏しくて、恩智駅(近鉄大阪線)スタートにして、もう少しゆっくりしたかったかな。

八尾駅は北口から出て線路沿いを東に進み、1つ目の踏切のところを左折していくようだった。最終的には東に向かい、恩智あたりで東高野街道に至る。

駅近くでは古そうな大日本倉庫の現役のレンガ塀などが見られた。大日本倉庫は昭和初期の設立で、かつては八尾駅から自社用の鉄道も引いていたのだって。大大阪時代、近代工業の波が大阪からはみ出して、八尾にも広がっていたんだな。

最初八尾までやってきたときは、遠く八尾くんだりまでやって来た、という感じだった。でも電車でいろいろ行っているうちに、八尾は大阪市のすぐお隣さんだと分かってきた。そんな八尾にも大大阪の余波がやって来て、それでこの先、見所もたいして残っていないのかもしれなかった。


踏切の反対側すぐは、植松町の渋川神社や安中新田会所跡(旧植田家住宅)だった。神社は、駅の2階の窓からもすぐ近くに見えていた。古い植松町の家々も。

こんなに古い町が、こんな駅近に残っているなんて奇跡のようだと思う。

せっかく八尾から歩くからには、南口から出て渋川神社経由で進むのが理想的かな。わたしたちもせっかくだから久しぶりの渋川神社へ。神社には茅の輪くぐりが設置されていた。

祭神はニギハヤヒとアメノオシホミミ。渋川神社は物部守屋の屋敷の跡地とも言われていて、このあたりは物部氏の本拠地だった。

物部氏の祖神がニギハヤヒで、アメノオシホミミはニニギの父。アマテラスの子で、世界を治めに行きなさいと母から言われたけれど、子のニニギを行かせてくださいと言った人。

どうしてアメノオシホミミが祀られているのかはよく分からないけれど。


神社を出ると踏切に向かうまでに安中新田会所跡(旧植田家住宅)。内部を有料で公開している。

踏切を過ぎると、小さな長瀬川を渡った。

かつては大和川の本流だったという、今は柏原で大和川から分かれて放出のほうに流れていく長瀬川。

大昔、八尾駅のあたりで大和川は長瀬川と平野川に分かれ、その間は橘島と呼ばれる島になっていたそうだ。そこが後に物部氏の本拠地、龍華になったそうだ。

渡った橋は天神橋。渋川天神がかつて渋川神社に合祀されていたそうだから、そこに至る橋で天神橋と名付けられたのかな?

小学校の少し手前で右折して、ファミマを左手に見ながら東へ道なりに進んでいった。

自転車の人が多いなあと思った。しばらく散歩していたのが勾配の激しい地帯だったものだから、自転車をあまり見かけなくて、自転車の行き交う光景が新鮮に思えた。ここは大阪平野なんだなと実感した。

旧家や墓地もあったけれど、見どころに乏しい道だった。右手に大きな公園が現れた頃、左手に大きな、存在感のある上田家住宅が現れた。植田家と上田家、なにか関わりがあるのかな。

そこを過ぎれば、安中診療所前交差点で、古い家もほぼなかった。全部田んぼだったので、古いものは残っていませんという地帯なのかな。ここは八尾街道歩きでも通ったところ。八尾街道と恩智街道の交差点。というか、恩智街道は元々は八尾街道から分岐していたのかも。それが明治時代に八尾駅ができて、八尾駅スタートみたいになったのかもしれない。

八尾木西交差点を過ぎて、田舎の感じになってきた。

八尾グランドホテルがあった。けっこう人が入ってきていて、大衆演芸もやっているみたい。「八尾天然温泉 言い伝えの・・」と書いてあった。この時は知らなかったのだけれど、すぐ北に由義神社があって、このあたりは由義宮の比定地であるらしかった。

聖武天皇と光明皇后との間の娘は、称徳天皇。道教なるお坊さんを重用し、「道鏡を愛しすぎた」とか言われている。失敗はしたけれど、道鏡を自分の次の天皇にしようとさえしていた。

道鏡は地元の弓削ゆげに都を造ることを夢見ていたみたい。弓削氏もまた物部一族で、龍華が本拠地だった。

天皇と道鏡がこの地に宿泊したことがあったそうだ。そしてこの地に西の京を造ることを命じたのだって。「言い伝えの」というのは、二人がその時、湧いていた温泉につかったとか言われているのかな?と思った。

つくられた西の京が由義ゆげ宮なのだろうな。東弓削では由義寺の遺構と思われるものも見つかったそうだ。

地名は八尾木だった。八尾木は元々は「よおぎ」と読んだそうだ。ヨオギからユゲになったか、ユゲからヨオギになったかかも。


どんどん山に近づいていき、旧家が増えてきた。

八尾木交差点も過ぎて、そのまま道なりに柏村橋交差点まで進んでもいいようだったけれど、御劔みつるぎ神社経由で歩いてみた。

左手に刑部小学校が見えたら、小学校の方向に進んでいった。小学校の手前で右折して行くと、古い集落だったのだろう一帯に入っていった。旧家ばかりになって、左手に鳥居が現れたら、そこが御劔神社。

19代允恭天皇の皇后、忍坂おしさか大中姫の名代として定めた部民に忍坂部おさかべさんがいたそうだ。名代って、皇族の直属の集団みたいなものかな。世話をしたり、護衛をしたり、その人の土地を耕したり。その人が亡くなると、集団は解散するのではなく、集団名はそのままに他の部署に異動していったりしていたみたい。

忍坂部の人たちは、忍坂大中姫亡き後は、司法担当の刑部うたえになったみたい。それで「刑部」と書いて「おさかべ」等と読むようになった。

ニギハヤヒの子のウマシマジは、後には神武天皇周辺の警護に当たったらしい。その子孫が刑部をここに置いて、この地を統治していたという話もあるようだった。そして刑部に仕える部民が形成した村が刑部村となっていったんだって。

物部氏ではなく、物部氏に仕える刑部の人々の神さまだったからかな。御劔神社の祭神はニギハヤヒではなく、スサノオとアメノホヒ。

アメノホヒって、アメノオシホミミの弟だって。オオクニヌシ国譲りを迫るために最初に遣わされたけれど、オオクニヌシに心服して帰ってこなかった人。

アメノホヒの子孫が忍坂部となり、忍坂大中姫のお世話をしていたのかな。後には刑部に配置替えとなって、この地に住むようになったのかな。ここに刑部を置いた物部氏が弓削氏だったのかも。


刑部小学校の南側の道を東に向かって行った。

府道15号八尾茨木線に出た。横を玉串川が流れていた。玉串川は長瀬川から二俣で分かれる川。下町な感じの道を南下して行った。

すぐ柏村稲荷があった。小さいながらに厳格で、よその人間を拒んでいるような雰囲気があるような感じがした。犬はもちろんNG。

このあたりは大和川の流路だったのが、大和川の付替で埋めたてられ、新田となったところだそうだ。開拓したのが柏原さんで、そこから柏村新田となり、その鎮守として稲荷神社が勧請されたらしい。地名も柏村かしむらだった。

柏村交差点には柏村橋が残っていて、大きな木と、妙な顔の地蔵3体がたっていた。

それから玉串川橋。柏村橋と玉串川橋のところだけに、農村だった感じが残っていた。けれど今や大きな通り。

柏村交差点では外環と交差。恩智駅も見えていた。

柏村交差点を過ぎて、次を左折。近鉄大阪線の高架の下を過ぎた。恩智駅には一応小さな商店街などもあったけれど、かなりさびれている感があった。大正時代創業の仕出し屋さんなんかがあった。


それからすぐ恩智川を母木橋で渡った。

すると雰囲気が変わった。御神灯が現れて、「天王の森」へ。森といっても段差のあるところにある小さな公園風で、木もほとんどなかった。

ここにかつて恩智神社があったのだって。「かつては山上にあったけれど、今は山麓にある」というのはよくあるけれど、これは初めてのパターンだった。

南北朝時代の初め頃、恩智左近によって恩智城が築かれ、山城だったので、ここにあった恩智神社を見下ろす形になったそうだ。前に恩智城跡の公園にのぼっていったけれど、確かにたいていのところは見下ろす高台だった。

神社を見下ろすのは不敬だと、恩智左近は神社を高いところに移したんだって。その後にか、ここには牛頭天王が祀られ、今は「天王の森」と呼ばれているらしい。


一帯では石器時代から弥生時代にかけての遺跡も見つかっているらしく、弥生時代には大集落があったらしい。石鏃、縄文式土器、弥生式土器などが見つかっているんだって。

天王の森の左側の道を進んでいった。

大きな古い屋敷が現れて、天理教中河大教会だった。

散歩していると、よく目にする天理教。江戸時代の終わりに生まれて、「おたすけ」(病気などからの救済)で信者が増えていき、「講」を母体にして教会も増えていき、ここ中河大教会も明治にできたそうだ。

鳥居が現れ、最近通った東高野街道と交差した。

ここまでが恩智街道みたい。八尾街道と東高野街道をつなぐのが恩智街道って感じかな。

この先は恩智越。山越えの道であるらしい。

信貴山に朝護孫子寺ちょうごそんしじが開かれてから、あちこちから朝護孫子寺に至る道が開かれ、信貴山越の道となったらしい。そのうちの1つが恩智越らしかった。

清滝街道、中垣内越(古堤街道)、辻子峠越、暗越奈良街道、十三街道(玉祖道)、立石越、信貴山越(恩智越など)、竜田越奈良街道。人々はいろんな道で河内と大和を行き来していたんだな。

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