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 隊列を組んだ馬の蹄が力強く大地を蹴るたびに、その音は幾重にも折り重なって増幅し、地響きとなる。

 雲ひとつない晴天は、広範囲に渡って立ちのぼる土煙で黄色く濁っていた。武装を固めた男たちの集団を率いるは、(あき)姫。白金の甲冑を纏い、濡羽色の柳髪を男のように高く結い上げて砂塵に靡かせている。


 戦うと決めてからの彼女の行動は迅速だった。

 一晩のうちに、援軍を渋る他国の将を巧みな話術で口説き落とした。何の算段もなく、真摯に訴えかけることで見事に心証を勝ち取ってみせ、その結果一万の軍勢が動いたのだ。まさしく奇跡だと、緋尾国(あかおのくに)の武士たちが涙を流すほどの番狂わせだった。


 せせらぐ大河を右手に望み、朱姫率いる軍勢は遥かな大地をゆく。やがて戦場が視界に捉えられるようになると同時、風のなかに悍ましい音が混じりだした。

 怒号、剣戟、肉を裂き貫く音、馬の嘶き、断末魔。それらが渦を巻いて地を(はし)り、まだ遠く離れている朱姫たちの鼓膜を揺さぶりにかかる。惨状を目の当たりにして怖気づいたのか、経験のない若い武士のあいだに動揺が伝播した。彼らとそう変わらぬであろう年頃の朱姫が、大声を張り上げて鋭く一喝する。


「怯むな! 〈金魚の君〉は健在である(・・・・・)! 必ずや、裏切り者の九条を討ち──父上に勝利を捧ぐのだ!」


 天に轟く喚声が上がった。恐れすら呑み込む朱姫の声で、滾つ清流の如く軍が一体となったのがわかる。

 その背中は紛れもなく将だった。

 だが八尋だけは、確かに見たのだ──びいどろの煌めきを帯びたひと筋の涙が、彼女の頬を伝うさまを。


「……お(うつく)しゅうございます。我が君」


 大地を揺るがす進軍の音に想いを忍ばせて、朱姫に並ぶ。八尋は前を見つめたまま馬上から語りかけた。


「私が斬りひらきます。貴女様のゆく道を」

「……格好つけおって。それでおっ死んでみろ、末代までの恥ずかしい語り草にしてやるわ」


 思わず微笑がこぼれた。生き残ることを前提にしていては武士など務まらない。主に救われたこの命、盾となり散り果てるなら本望であると、そう考えていたのを見透かされたわけではあるまいが。

 死ぬなと懇願されたなら仕方ない。


「──あの日、忠誠を誓いました。地獄の果てまでもお供いたしますよ」


 朱姫が笑う。わざわざ眼を向けずとも、八尋には彼女の浮かべる表情が手に取るようにわかった。

 空高く飛翔する一羽の白い鳥が鳴き、尾を引く声を響き渡らせる。舞い落ちる風切り羽根は百日紅の落花の風情に似て、束の間、赤い小袖姿で幸せそうに微笑む朱姫のまぼろしを連れてきた。


(叶うなら刃でなく花を、その手に握らせたかった)


 だが彼女はゆく。めくるめく血と怨嗟に彩られた、この修羅の道を。亡き兄の幻影を追いかけるが如く。

 であれば八尋は、影のように付き従うのみだ。

 朱姫も自身もまともな死に方はできまい。しかしそれでも構わない。いつの日か主君の命が果てる場所、そこが八尋の死地である。


「あにうえ、」


 いとけなさの残る少女の声が耳朶を打った気がしたが、きっと幻聴だった。先陣を切るように馬の速度を上げる朱姫の横顔は、眼前の敵をまっすぐに見据える凛々しさに満ちていたのだから。

 八尋も風の如く走り出す。その視界の片隅で、赤い槍が振りかざされた。天を穿つ穂先は降り注ぐ陽光を十字に反射させ、まばゆい導きの光を成す。託された槍を強く、強く握る朱姫の手の包帯に、じわりと血が滲んでいった。やわらかな真白はやがて真紅に濡れて固く乾き、二度と戻れることはないのだろう。


 少女はこの日を境に、〈金魚の君〉となるのだ。

 赤いしるしをその身に刻む、影を従えて。


 乱世駆けゆく金魚姫──後の世に名を馳せるひとりの娘の初陣が、今、幕を開ける。





〈了〉

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― 新着の感想 ―
[一言] こんにちは。 夏のいけおぢ祭りから来ました。 さて、一万文字丁度の良作。 恐らく初稿はかなりの量で、それを推敲の上、1万文字に仕上げられたと思います。 地文が説明文ぽくなく、すらすらと頭の…
[一言] 1万字とは思えないほどの濃厚な物語でした。 朱姫がとにかく魅力的で…。天真爛漫、愛嬌のある姫君で、人一倍努力家の面を垣間見せ、女としての美しさも忍ばせている…いくつもの顔に触れるたびに姫の虜…
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