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番外編スペシャル「気づいてほしかった中学時代の初恋が、いまも胸で輝いてる」

ツバサは転校初日のざわつきをどこかに置き忘れたように、玄関の扉をそっと閉めた。

家の匂いがふっと鼻をかすめる。それは、外の世界ではまったく思い出すことのなかった、妙に静かで、どこか懐かしい匂いだった。


自室に入り、灯りを落とす。

暗闇がゆっくりと床を満たし、部屋の輪郭を曖昧にしていく。ツバサはその中を手探りで進んでベッドに身体を沈めた。背中から、じんわりと日中の疲れが染み出すみたいだった。


天井をぼんやりと眺めながら、スマートフォンを取り出し、無意識のように画面をタップする。

アルバムの奥底に眠っていた一枚の写真が、ふと浮かび上がる。


それは――ヤヤと並んで写ったツーショット。


「……あの頃と、かわらなかったなぁ……ヤヤ。

ふふっ……やっと会えたね」


ツバサは声にならない笑いをこぼす。

写真の中の自分は少し幼くて、あの頃よりも不器用な笑い方をしている気がした。

でもヤヤは、変わらない。

変わらないという事実が、どういうわけか胸の奥で小さく波紋をつくる。


部屋の暗さと画面の光だけが、ツバサの感情をそっと照らしていた。

外は静かで、夜の気配だけが確かにそこにあった。




==========4年前===========


ここは北海道旭川市。

時は中学二年の6月。


夏の兆しを感じる空気に、教室には微かなチョークの匂いが混じっていた。

星川ツバサは、教室へ入ると

お決まりの“視線の洪水”に包まれた。


「ツバサちゃん! 昨日のライブみたよ~!」


「お疲れ様~!でもすごいよね!アイドル活動で忙しいはずなのに勉強もできて!」


「ほんとにかわいい! 」


女子たちが一気に押し寄せ、机の周りが花畑みたいになった。

ツバサは慣れた笑顔を浮かべ、表情をやわらかく作る。


——うん、仕事顔、オン。


地方アイドル《鳳ツバサ》としての顔は、

本名の星川ツバサとはどこか違う。


「ねぇ、髪染めたの? すごい似合う!」


「今日のアクセ、雑誌と同じじゃない?」


「サインもらっていい?」


わいわいと騒がれ、質問攻めにされながらも、

ツバサは慣れたように受け答えしていく。


「ふふ、ありがと〜。」


そう言うだけで、教室中の温度がほんの少し上がる気がした。

中二にしてアイドル。

そしてこの中学校の“顔”。

それが星川ツバサという存在だった。


……ただし。

その輪の外。

教室の入口から入ってきた二人の男子だけは例外だった。

ひとりは黒髪で、やや背が高く、涼しい目つきをしたこの上なく整った顔立ち。

表情の変化が少なく、まるで人間の皮を被った幽霊みたいに静かな雰囲気のその少年。


——月野ヤヤ


もう一人は茶髪の短髪で、落ち着いた雰囲気。

背丈は平均より少し高いくらいといったところか。

「親友の面倒は俺がみる」系の真面目さと優しさが滲む。


——遊佐アキト


小学生からの親友らしい。

二人だけで話している時は、不思議と空気が柔らかくなる。


しかし——ツバサはすぐに気づく。


(あ、コイツら……また私を見てない)


どれだけ周囲が騒いでいても、

ヤヤとアキトはツバサを見ようとしない。

いや、興味がないのだろう。


「席替えしたんだろ?昨日……なあ、アキト、席どこだ?」


「あ、そっか。ヤヤは昨日風邪で休んでたよね、学校。後ろのほうだよ。僕はその隣だ」


アキトが向こうだと指さしながら歩く。

その声は落ち着いていて、真面目で、どこか大人びている。


(……ああ、ムカつく)


ツバサの胸が、ちりっと熱くなる。


そして事件は起きた。

机にバッグを置くなり、ヤヤがツバサと目が合う。

それからぽつりと言う。


「……転校生か?初めて見る顔だな」


ツバサの思考が一瞬止まる。


「……はい?」


近くの女子たちが固まった。


「いや……まてよ。見たことがあるかもしれないが名前が思い出せん……」


アキトが苦笑いして補足するように言う。


「悪い、本気で名前覚えられないんだよヤヤって。ああ一応僕は少し知ってるよ。えーと、たしかアイドルのツバキだっけ?」


 ——は?!


ツバサは心の中で叫んだ。


「ありえないんだけど!もう同じクラスになって2か月だよ?!名前はツバサだし!」


机をドンと叩き、ツバサは立ち上がる。


「それに私のことを知らない男子なんて、この学校にいたの!?」


女子たちがひそひそと囁く。


「信じられない……ツバサを知らない……?」


「この二人、どんな生活してんの?」


「で、でもヤヤ君って超かっこよくない……?彼女いるのかな~……」


男子たちは男子たちで言い合う。


「ヤバいな……」


「ツバサちゃん怒らせるとか……怖すぎ」


「あいつら命知らずかよ」


しかし当のヤヤは首をかしげる。


「……いや、本当に知らないだけ。悪い」


「なぁっ!!悪気がないから余計にムカつく!!」


ツバサの怒声が教室中に響き渡る。

アキトが仲裁するように、少し困ったような笑顔を見せた。


「まあまあ、ツバメ……いやツバサ。ヤヤはほんとに悪気ないんだって」


「ア、アンタわざと名前間違えてるでしょっ?!」


「ご、ごめん……」


胸がざわざわした。

見られたくない、その奥の感情。

自分がちやほやされて当然だと思っている、その傲慢さ。

バレたくない部分を突かれた気がして。


——忘れられている。

——“アイドルの私”を。

——それが、こんなに悔しいなんて。


「覚えておきなさいよ……アンタら」


「……なにを?」


「私、星川ツバサ!アイドルやってるの!

 全国ネットには出てないけど、この町じゃ有名なんだから!!」


ヤヤは無表情で答えた。


「へぇ……そうなんだ。よくわからんががんばれよ。それよりアキト。今日の部活だけどさ……」


「無視すんなぁぁぁぁぁ!」


クラス中が大爆笑に包まれた。


ツバサの顔は真っ赤になり、

涙腺が危うく緩みそうになる。


(絶対に……アイツらを見返してやる……!)


その瞬間、ツバサの胸の底で、小さな火種が灯った。


——それが、彼女の人生を変える炎になることを

まだ誰も知らなかった。


***


帰りのホームルームが終わると、廊下に流れ出す生徒たちの喧騒に混ざって、ツバサはそっと息を吐いた。


(忘れられてるとか……ありえない。絶対ムリ!)


教室でのあの事件から、ツバサの胸にはずっとモヤモヤが残っていた。

見てくれなかったことが悔しい——

それだけじゃない。


(なんか……敗北感? いやいや、そんなバカな……!)


自分に言い訳するように首を振る。

そのとき、前を歩いていた女子たちの会話が耳に入った。


「ねえ、ヤヤ先輩とアキト先輩の話きいた?」


「今月末、全国大会でるんでしょ?すごいよね」


「二人とも、棒高跳びだっけ」


「そう!しかも札幌であるらしいよ!大会!私見に行こうかな」


ツバサの足が、そこでぴたりと止まる。


(……棒高跳び?)


興味がぐぐっと引かれるのを自覚した。


***


外は涼しかった。

旭川の初夏は、まだ春を引きずっていた。


ツバサは校舎裏を回り、グラウンドへ向かう。


砂の匂い、風にそよぐ白線の粉。

夕焼けに染まる広い空。


(アイドルの私が、こんなとこ来るなんて……)


誰にも見つからないようにフェンス越しにのぞくと——。

そこには想像を超える光景があった。


ヤヤが棒を持って走り出す。

しなるポール。

ふわりと宙に浮く身体。

まるで重力が彼だけを許しているみたいに、するりとバーを越えた。


ツバサは息を止めた。


(……なに、これ……)


教室での無愛想で気だるげな雰囲気とは、別人だった。

跳んでいるときだけ、彼の表情が生きている。


その横では、アキトがメモを取りながら声をかける。


「ヤヤ、さっきより踏み切りが少し手前になってる。二歩分詰めてみて」


「了解」


声は静かだが、集中しているのが伝わってくる。

二人とも“夢中”だった。


(……そっか)


(だから私を見なかったんだ)


胸の奥がちくりと痛む。

ちやほやされるためにアイドルを始めた自分とは違う。

誰かに見られなくても、評価されなくても、

夢中になれるものがある。

それが、悔しい。


アキトがふとこちらに気づき、目を丸くした。


「……え? ツバサ?」


「えっ」


ツバサは飛び上がった。

しまった——隠れるつもりだったのに完全に見つかった。


「な、なんでいるの?」


「べ、別に! 散歩だよ! “アイドルの”散歩!」


「アイドルの散歩って何だよ……」


アキトが苦笑する。

そこへポールを担いだヤヤが歩いてきた。


「……なにしてんの?何?ストーカー?」


「はぁ!? ちがっ……!見てたわけじゃないし!!」


ツバサは地団駄を踏む。


「アンタらさぁ、なんであんなに真剣なの? 趣味でしょ? 部活でしょ? そんなに夢中になっちゃって……」


少しの沈黙。

その質問に答えたのは意外にもヤヤだった。

いつも不愛想で何を考えているのかわからない彼が無邪気な笑顔でツバサに言う。


「好きだからだよ」


「えっ?///」


ヤヤのその言葉にツバサは一瞬ドキッとする。

彼は話を続ける。


「棒高跳びがな。俺は誰よりも高く飛びたいんだ」


「……」


ヤヤの心からの気持ちを感じ取り、ツバサは下を向きポツリとつぶやく。


「……いいなぁ」


アキトが少し驚いたようにツバサを見る。


「何かに夢中になれるって……ズルい」


「ツバサもアイドルがんばってるんじゃないの?」


アキトは不思議そうな顔で、そうツバサに尋ねる。

ツバサは悲しそうに微笑む。


「だって……私なんて、人に可愛いって言われたくてアイドル始めただけだし……!」


言ってしまってから、「あ」と口を押さえる。


(なんでこんなこと言ってるの、私!?)


ヤヤは無表情のままツバサを見て、一言だけつぶやく。


「……ふーん」


それが妙に刺さる。


「興味ないって顔ね!!」


「女ってよくわからないな。めんどくさ……」


「はぁぁ?!ムカつく!! ほんっとムカつく!!!」


アキトが慌てて二人の間に手を伸ばす。


「まあまあ!! 落ち着いて!!」


そんな騒がしいやり取りの中。

ツバサは、自分がこの二人と同じ場所に立っていることに驚いた。

そして胸の奥に小さな火がともるのを感じた。


(……負けたままじゃ終われない)


(私も同じ場所に立ってやる)


(アイツらが無視できないくらいに)


その決意が、彼女を次の行動へと駆り立てることになる。


***


翌日の放課後。

ツバサは陸上部の部室前で腕を組んでいた。


(来ちゃった……いや、“来てやった”のほうがしっくりくるよね)


よく分からない対抗心に押されて、気づけばここに立っていた。

部室のドアを開けた瞬間、汗と砂の匂いが鼻を直撃する。


(くっさ……いや、これが青春? そういうやつ?)


軽く覚悟を決めて中へ踏みこむと、ちょうどグラウンドから戻ってきたアキトと目が合った。


「えっ……また来たの?ツバサ」


「“また”は余計!!」


続いてヤヤがタオルを首にかけながら顔を出す。


「……なんの用?」


「……入部届!!」


ツバサは机にバンッと書類を置いた。

アキトは目を丸くする。


「入部?アイドルさんが?」


「そうだよ。アイドルだって運動くらいできるし!」


「いや、できるできないじゃなくて……なんで?」


「アンタたちを見返してやりたくてね!」


「………意味が分からん。冷やかしに来たなら帰れよ……」


「う、うるさい!ヤヤのくせに!」


アキトが苦笑しながら書類を手に取る。


「まあ、陸部は僕たち以外いないから多分入部はできるとは思うけど」


「そうなの?」


「ああ。三年生は予選で負けて引退、一年生は二人いたにはいたが、退部したからな」


ツバサの疑問にヤヤは水を飲みながら答える。

さらに話を続ける。


「というか本気でやんのか?アイドルやってて忙しいだろ?」


「本気。本気中の本気。私、絶対アンタらより結果出して、認めさせるんだから!」


ツバサの目を見て、アキトは本気であることを察する。


「そっか。わかった。じゃあこの紙、今顧問に出してくる。よろしくね。ツバサ」


「よ、よろしく」


それからツバサがヤヤにぐわっと詰め寄る。


「で、ヤヤ。私に勝てる自信は?」


「……あるけど?というか初心者だろ?お前」


「ああ言えばこう言う!!アンタなんて三日で越えてみせるから!」


アキトは二人に慣れたように肩をすくめた。


「まあまあ、はいはい。ケンカは後。ツバサ。僕が戻ってくるまで着替えてきなよ。この後さっそく練習するから」


「はーい」


ツバサは着替えにいくと言い、部室をあとにする。

この瞬間から、彼女の人生は少しだけ軌道を変え始めた。


***


夕日がグラウンドをオレンジ色に染める中、ツバサはひとりで息を切らしていた。


「ぜぇ……っ、はぁ……っ」


「おつかれ。まだウォーミングアップだけど」


「ウ、ウォーミング……!?」


アキトの言葉にツバサは半泣きになる。


「ウソでしょ……今日だけで人生分走ったんだけど……?」


「人生なめるな」


ヤヤが平然とストレッチしながら言う。


「アイドルって体力ないの?」


「う、うるさいっ!! 本気出せばできるし!」


「じゃ、立って。ストレッチ続けるから」


「ツバサの血色やばいな。静脈が死んだ魚みたいになってる」


「なってない!!」


口では反発しながらも、ヤヤは姿勢を丁寧に整えてくれる。

距離が近い。

ツバサの心臓が、ほんの少し跳ねた。


(……なにこの近さ!てかヤヤって無駄に顔だけはいいよね?!)

(優しいようでムカつくってどういう感情!?)


彼の指先は繊細で、触れたか触れないかの絶妙な力加減。


「痛い?」


「べ、別に……?(めちゃ痛いけど)」


「無理すんな」


言い方はぶっきらぼうなのに、なぜか優しい。

そのギャップがツバサの感情をさらにかき乱す。


(なんか……調子狂うんだけど)


***


日が経つにつれ、ツバサは二人と衝突しつつも馴染んでいった。

ヤヤとは毎日ケンカ。

アキトは毎日仲裁。

でも、その騒がしい空気が不思議と心地よくなっていく。


「ツバサ、そこ踏み切り位置ちがうよー!」


「うるさいアキト! できないものはできないの!」


「いや……僕悪くなくない?」


「悪い。なんか悪い。雰囲気が悪い!」


「理不尽すぎるよ……」


ヤヤが冷たい目を向けてくる。


「声でけぇ」


「アンタが冷たいからよ!」


「俺、関係ないだろ」


「あるの!!」


アキトは頭を抱える。


「頼むから仲良くしてくれ……胃が死ぬ……」


(アキトって本当に面倒見いいな)

(ヤヤは冷たいけど……なんか嫌じゃなくなってきた)


ふと、ツバサは気づいた。


(……楽しい)


アイドル“鳳ツバサ”じゃなく、

一人の“星川ツバサ”として扱われている。

それが、嬉しかった。


***


大会一週間前。

夕方、ヤヤだけが部活の規定時間が終わった後も自主練を続けていた。


ツバサはそっと近づき、物陰から見守る。

走り、跳び、フォームを確認するその横顔。

その横顔は、いつもの無愛想な少年ではなかった。

努力とか、悔しさとか、意地とか、全部を飲み込んで、ただひたすら前だけを見ている人間の顔だった。


(本気で好きだよね……陸上)

(こんな表情、教室では絶対見せないのに)


ヤヤがふとツバサに気づく。


「……帰らないの?」


「帰ろうと思ったけど……見てた」


「趣味悪」


「うるさいっての!」


ツバサは笑ってしまう。


「それより……いよいよ今週だね。大会……頑張ってね」


ぽろっと本音がこぼれた。

ヤヤは一瞬だけ目を見開き、照れたようにヤヤはそっぽを向く。


「……ありがと」


ただ一言。

だけど、その声の奥に“いつもの無関心”とは違う温度が混じっている気がした。


(え、何その反応……ずるくない?)


ツバサの胸が、じんわり熱くなる。

グラウンドを染める夕陽の色のせいか、それとも自分の心のせいか。

ヤヤの横顔が、さっきより少しだけ大人びて見える。


(やば……好きとかじゃないけど……好きじゃないけど……いや好きじゃないけど!)


吐き気がするほど悔しい。

なのに同時に、胸の奥をぎゅっと掴まれるような感覚があった。


「……じゃ、先に帰る」


ヤヤは背中だけ残して歩き出す。

その歩幅は一定で、迷いがなくて、ツバサとは違って大人びていて——

それが妙にムカつく。いや、羨ましい。

ツバサは、気づけば思わず叫んでいた。


「ねぇヤヤ!」


ヤヤの足が止まる。

夕陽の赤が二人の影を長く伸ばした。


「なに?」


その声はいつも通りの無関心……のはずなのに、少しだけ振り返った顔が赤く見えるのは気のせいだろうか。

ツバサは一歩、近づいた。


「明日も……その……見てていい?

ほら……私も上手くなりたいし」


言った瞬間、顔から火が出そうになった。

何言ってんだ私!?


(いや、でも聞かずにはいられなくて!)


数秒。

ヤヤは本当に数秒だけ、固まった。

そして——


「最初は入部して三日でやめると思ってた。

……でも意外と負けず嫌いで努力家なんだな。

ツバサって。……いいと思う。そういうとこ」


ぶっきらぼうな返事だけ残して、また歩き出す。

けれど。

さっきより歩くスピードが、ほんの少し遅くなっているような気がした。


(え、なにそれ……なにその“優しさこっそり混ぜました”みたいなの!!)


ツバサは両手で頬を覆う。

頬はカッカと熱く、心臓はばくばくしてる。

胸の奥が、苦しい。

でもその苦しさは嫌じゃなくて、むしろ心地よい。


「わ、私は……アイドルなんだから……」


否定したいのに、視線はヤヤの背中を追いかけてしまう。

胸の高鳴りなんて、ぜったい認めない。

……認めない、けど。

今日の帰り道だけは、ちょっとだけ隣を歩きたい――そんな気がした。


***


全国大会を明日に控えた金曜日。

昼休みの教室は、いつもより妙にざわついていた。ざわざわとした空気の真ん中で、俺——月野ヤヤと、星川ツバサは、例によって例のごとく言い争っていた。


「ねぇちょっとヤヤ。なんであの子と話してたの?」


ツバサが、プリントを丸めて俺の頭をぺちぺち叩いてくる。

彼女特有の、わざとらしく明るい声。その裏に嫉妬が濃く沈んでいるのは、誰が聞いても分かるはずだ。


「あの子って誰だよ」


「ほら! あの他クラスの、ポニーテールで八重歯の女! ヤヤのこと下の名前で呼んでたでしょ! ヤヤくんって! 何その距離感。意味わかんない」


「向こうが勝手に呼んでるだけだろ」


「へ〜〜〜? “勝手に”ねぇ?」


ツバサがじろりと俺を睨む。

まるで、どこかのラーメン屋の店主がスープの濃度を確認しているみたいに真剣だ。


「それに、別に仲よくしてるわけじゃ——」


「まぁいいわよ。どうせ明日負けるんだし」


「なんでそうなるんだよ」


理不尽な矛先に思わず眉をひそめる。

そしてツバサは机の上に置いた弁当箱のフタをパタンと閉め、ふんすと鼻を鳴らした。


「私はアキトだけを応援するから! あなたなんて知らない!」


「……」


「……」


二秒の沈黙。

そのあと、教室中の視線が「何か面白いことが始まった」とでも言うように、俺たちに注がれた。まるで昼のワイドショーだ。


と、そこに。


「ちょっと二人とも……まじで頼むから静かにしてくれ」


やれやれと肩を落としながら、遊佐アキトが弁当を持ってやってきた。

茶髪の短髪。面倒見が良くて、クラスでいちばん“常識人枠”の男。


「明日大会なんだぞ? 気持ち切らしてどうすんだよ」


「だってアキト聞いてよ! このヤヤが……!」


「いや、そっちが勝手に……!」


アキトは深く息を吐き、二人を見比べ、そして言った。


「……お前ら、いつの間にそんな仲よくなったんだ?」


「仲よくない!」


「仲よくねぇよ!」


俺とツバサの声が重なる。

教室のどこかから「いや仲良いだろ……」「痴話げんかじゃん……」と小声が漏れる。

ツバサのファンの女子たちも、なんとなく距離を取ってこちらを伺っている。


アキトは苦笑して首を振り、弁当の箸を動かしながら言った。


「……ホント、明日大丈夫かよ」


その声はどこか優しくて、俺もツバサも一瞬だけ黙りこむ。

でも次の瞬間にはまた、くだらない文句の応酬が始まった。


***


 放課後。

 大会前の最後の練習を終えて、校舎裏の坂道をツバサと歩いていた。


「だから! あんたが変に愛想よくするから誤解されるの!」


「愛想よくしてねぇって」


「じゃあなんで笑ってたの!?あの子に!」


「笑ってねぇよ。あれは……風で目がしみただけだ」


「言い訳が苦しい!」


ツバサはぷりぷり怒っている。

練習後でジャージ姿のまま、頬が少し赤くて、それがまた余計に子どもっぽい。


アキトは用事があるとかで先に帰った。

だから今こうして、二人きりの帰り道だ。


もちろん、空気は最悪だ。


「ていうかお前さ、明日オレを応援しないって本気で——」


「知らない。私はアキトだけ応援するし」


「……はぁ」


風が冷たい。

北海道の夕方は、夏でも肌を刺すような冷気が混じる。

ツバサはその冷気のなか、怒っているのにどこか寂しげな表情をしていた。


そのときだ。

ツバサのスマホが震えた。


「……ん? 学校からだ」


彼女は画面を見た瞬間、表情を変えた。

光が吸い取られるみたいに色がなくなる。


「……ヤヤ……」


「なんだよ」


「アキトが……事故にあったって……!」


心臓が一度、大きく跳ねた。

 ふざけている場合じゃない、と頭の奥で誰かが叫ぶ。

 ツバサの手が震えている。


「意識が……ないって……! 救急車で運ばれて……今……旭川医大の救急にいるって……!」


一気に血の気が引いた。


「行くぞ!」


気づけば俺も声を荒げていた。

ツバサと二人、全速力で走り出す。


夕方の空が、不気味なくらい赤かった。

まるでこれから起こるすべてを、すでに知っているみたいな色だった。


***


病院に着いたとき、空はもう暗くなりはじめていた。

旭川医大の救急入口には、人の気配が少なく、張りつめた空気が漂う。

消毒液の匂いが、鼻の奥をつんと刺した。


受付で名前を告げると、看護師がすぐに奥の面会室へ案内してくれた。

そこには、小柄な女子が椅子に座っていた。

肩までの髪を揺らしながら、両手で目を押さえて、必死に泣くのをこらえている。


「……カオリ」


ツバサがそっと声をかけた。

少女——遊佐カオリは、涙に濡れた目をあげる。


「ヤヤ先輩……ツ、ツバサさん……」


声が震えている。

その震えが、状況の深刻さを何よりも物語っていた。


「アキトは……?」


ヤヤは喉が焼けるような感覚で問う。

返事をする前に、カオリの目から大粒の涙が溢れた。


「……意識が……戻らないの……。病院の人が……“この設備じゃ難しい”って……もっと大きな病院じゃないと……!」


カオリは言葉を詰まらせた。

その細い肩が小刻みに震えるたび、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。


ツバサが隣で黙りこみ、唇を噛みしめているのが分かった。

彼女の目も赤く滲んでいる。


そのとき、救急室のドアが開き、白衣の医師が出てきた。


「ご家族の方ですね。……お姉さんとお友達、でよろしいですか?」


カオリが小さく頷いた。

医師は短く息をつき、表情を硬くした。


「正直に申し上げます。脳に強い衝撃があり、出血も確認されています。この病院でも処置は試みていますが……設備の関係で、十分な手術体制が整いません」


「……そんな」


カオリの膝が崩れそうになる。

俺は思わず彼女の肩を支えていた。


「東京にある高度救命センターに転送する準備をしています。そこなら……望みがあります」


東京。

遠い。

あまりにも遠く感じた。


アキトは意識のないまま、別の場所へ運ばれていく。

いつ意識が戻るかもわからない。

俺たちはここに取り残される。


どうしてこんなことになったんだ。


医師が去ったあと、面会室には沈黙だけが残った。

ツバサは泣いているカオリを抱きしめてあげている。

ヤヤはその光景を見ながら、それでもアキトの病室へ足を動かした。


病室のドアを開ける。

酸素マスク、点滴、鳴り続ける電子音。

ベッドにはアキトがいた。

いつもと変わらない顔で、だけどあまりにも静かすぎる。

しばらく眺めていると、胸の奥があたたかいようで冷たい、奇妙な感覚に襲われた。


「……なぁアキト」


声が自然と震えた。


「お前……さ、いつも言ってたよな。『へんな無茶すんなよ』とか、『フラフラすんな』とか……」


それはツバサと言い合ってるときも、練習のときも、ずっと変わらなかった。

どんな時だってアキトは俺たちの真ん中にいて、空気を和ませてくれた。


そのアキトが、今はただ眠ったまま動かない。


「……なぁ。目ぇ開けろよ。全国大会、明日なんだぞ。」


返事はない。

電子音が淡々と同じリズムを刻むだけだ。


喉の奥が熱くなる。

何かが込み上げ、視界がぼやけた。


「アキト……」


堪えきれず、涙が零れ落ちた。

自分でも驚くほど大きな涙だった。


ヤヤはアキトの手を握りしめる。


「……お前の分まで、跳ぶから」


握った手は、冷たい。

けれど、その冷たさが逆に胸を燃やした。


「誰よりも高く。……俺、絶対に負けないから」


それは、ただの意地でも、約束でもない。

もっと深くて、重くて、痛い誓いだった。


ツバサがそっと背中に手を添えてくれる。

振り返ると、彼女も泣いていた。


泣きながら、それでも頷いてくれた。


「……ヤヤなら、できるよ……」


その声は震えているのに、不思議とまっすぐだった。

俺は涙を拭わずに、もう一度アキトの手を握りしめた。


「だから……安心してろよ。俺が、お前の分まで絶対に勝ってくる」


病室の蛍光灯がきらりと光り、俺たちの影を長く伸ばした。

その影はどこか頼りなく、でも確かに前へ伸びていた。


***


大会当日 。

翌朝の札幌は、夏の匂いを含みながらも、どこか冷たかった。

空気が透明で、呼吸すると胸の奥まで澄みきるような感覚がある。

アキトのいない大会に向かうのが、まだ現実とは思えなかった。


——けれど、前に進むしかない。


北海道総合体育センターのフィールドには、すでに各地の選手たちが集まり、ウォーミングアップを始めていた。

スパイクの音、ポールのしなる音、スタッフの声。それらが混ざり合い、独特の緊張感をつくり出している。


ツバサはスタンドで腕を組み、落ち着かない様子でフィールドを見つめていた。

昨日泣き腫らした目を隠すため、マスクとキャップを深くかぶっている。


(……絶対、勝ってよ。アンタならできるって、カオリちゃんにも言ったんだから)


彼女の視線の先——

ヤヤはただひとり、黙々と走りを繰り返していた。


他の選手の声も、歓声も、全て遠くに置いていくような静かな集中。

まるで、世界の音がひとつずつ消えていくような空間が、彼の周囲だけに広がっていた。


(……アイツ、昨日から寝てないはずなのに)


ツバサは唇を噛む。

その横で、顧問がぽつりと言った。


「……あの目は、覚悟を決めた人間の目だ」


ツバサはハッとしたように顧問を見る。


「覚悟……ですか?」


「見ればわかるさ。あいつは今日、誰にも負けない。……いや、負ける気がしない」


顧問の言葉は妙に落ち着いていて、逆に不安が和らいだ。


そのとき、ヤヤがポールを肩に乗せ、ゆっくりとこちらを向いた。

遠くからでも、目が合ったことがわかる。

風が吹き、彼の黒髪が揺れた。

そして——ヤヤはほんの少しだけ、唇の端を上げた。


「……っ」


ツバサの心臓が跳ねる。


あの無愛想で、他人のことを気にしない男が見せる、

ほんの一瞬の笑み。

それがただの笑顔じゃないと、ツバサは直感でわかった。


(——大丈夫って、言った?)

(大丈夫だから、見ててって?)


胸がぎゅっと痛くなる。


昨日までのツバサなら、素直に受け取れなかったかもしれない。

けれど今は違う。


ヤヤのその一瞬の表情には、はっきりとした“意思”が宿っていた。


「……バカ。そんな顔、するなよ……」


呟いた声は震えていたが、ツバサ自身は気づかなかった。


***


『それでは、棒高跳び競技、開始します——』


開会アナウンスが響き、会場がざわついた。

各選手がスタート地点に散っていく。


ヤヤはポールを手の中で回し、真っ直ぐ前を見る。

昨日の病室でアキトに向けて言った言葉が、胸の中で静かに燃えていた。


(——俺の跳びは、お前がいて、初めて完成するんだよ)


踏み切り地点を見つめ、ヤヤは深く息を吸った。


風が吹き抜ける。

観客席のざわめきが遠のき、代わりにアキトの声が蘇る。


『ヤヤ、きょうは二歩手前だって言ったろ。焦るな。落ち着け』


言っていない。

でも確かに聞こえる気がした。


(……見てろよ、アキト)


ヤヤは走り出した。


ポールを持つ手に力を込め、まっすぐレーンを駆ける。

地面を蹴る感覚が軽い。

風が身体を押すように進む。


踏み切り——

ポールがしなる。

空に向かって、身体が吸い上げられる。


——宙に浮く。


景色が一瞬、スローモーションになり、

バーの上を越える瞬間、ヤヤは目を閉じた。


(……アキト)


無意識に、その名前が心の中で響いた。

着地マットに静かに落ちたとき、会場がどよめいた。


「……すげぇ……!」


「最初からこの高さクリアかよ……!」


割れるような拍手。

吹き上がる歓声。


ツバサは思わず立ち上がった。


「ヤヤ……!」


その声は、雑踏に紛れて消えたかもしれない。

けれどヤヤは振り返り、観客席の方を一瞬見上げた。


その表情は、まるで言っているかのようだった。


——まだまだ、ここからだ。


***


会場の空気が、徐々に重く張りつめていく。


跳ぶたびに選手が減り、残ったのはわずか三人。

その中に、ヤヤの姿があること自体が、観客にざわめきを生んでいた。


「旭川から来た中学生らしいぞ」


「すげぇな……中三でこの高さ?」


「いや、中二だってよ!」


どよめきが広がるたび、ツバサは胸を押さえた。

心臓が、跳ぶたびに忙しく騒ぎ立てる。


(……緊張しすぎでしょ、わたし)


けれど、目を離せなかった。

ヤヤが走り出す瞬間、呼吸をするのを忘れるほどに。


ポールを握る彼の指先は、少し白い。

肩で息をしながら、それでもヤヤは真正面を見つめていた。


(アキトの声が、聞こえてるのかな……)


ふと、そんな考えが浮かぶ。


***


最後まで残ったのは、ヤヤと全国常連校のエース、

高身長の三年生だった。


その選手は長い脚でレーンを駆け抜け、圧倒的なスピードで棒をしならせる。

軽々とバーを越え、着地した瞬間、会場が割れるような拍手をあげた。


「さすがだな……」


ヤヤは小さく呟いた。

だが、その瞳に迷いはなかった。


「……面白いじゃん」


静かに、息を吸う。


(負けない……アキトが見てんだ)


ヤヤは自分の内側を支えるものを、ひとつひとつ拾い直していた。


アキトと走った放課後。

何度も失敗し、泥だらけになった日々。

笑い合い、時に言い合い、互いを支え合ってきた。


その全部が、“今”につながっている。


***


高さは更に上がった。

もう、誰がクリアしてもおかしくないレベル。


篠原が挑む——

しかし、ポールがわずかにブレ、バーに触れて落ちた。


「……っ、惜しい!」


歓声と、悔しさの混じるため息が広がる。


次はヤヤだ。

スタジアム中の視線が、彼ひとりに注がれる。


ツバサは唇を噛みしめる。


(ヤヤ……頑張って……!)


ヤヤはポールを握り、踏み切り地点をじっと見つめた。

数秒、空気が止まる。


そのとき、

風のように、記憶の中の声が聞こえた。


『ヤヤ、いける。おまえなら絶対いける。大丈夫だ。』


耳ではなく、心で聞こえる声。


(アキト……)


ヤヤの口元が、かすかに震えた。


(見てろよ。俺が——お前の“分まで”跳ぶ)


地面を蹴る。

加速する。

世界が直線になる。


踏み切り——

ポールが軋み、しなり、弾けるようにヤヤを空へ押し上げる。


バーが近づく。

触れる距離。

息が止まる。


(届け……!)


そして——

ヤヤの身体は、しなやかに、静かに、バーの上を越えた。


観客席に、時間差で歓声が広がる。


「い、いった……!」


「越えたぁぁぁぁーー!!」


ツバサは思わず涙をこぼした。


「……バカ……ほんとに、バカ……すごすぎ……」


涙が止まらない。

勝手に流れる。


***


マットに落ちた瞬間、ヤヤは少しだけ空を見上げた。

視界の中で、蛍光灯がゆらゆら揺れる。

その光の向こう側で——

アキトが笑った気がした。


『おつかれ。やると思ったよ』


聞こえた気がしただけ。

姿なんてない。

でも——確かにそこにいた。


ヤヤは目を閉じた。


(……アキト、ありがとう)


***


アナウンスが響く。


『優勝は——旭川・月野ヤヤ選手!!』


歓声が爆発した。

ヤヤが立ち上がった瞬間、ツバサはスタンドから叫んだ。


「ヤヤーーー!!!!!」


ヤヤは顔を上げ、観客席のツバサを見つける。

そして、ほんの一瞬だけ微笑んだ。


その笑みは、昨日の病院で涙ながらに誓った言葉が、

本物になった瞬間の笑顔だった。


(アキト……聞こえたよな。俺、勝ったぞ)


胸の奥で、静かに、確かに。

何かがほどけていく。


***


ヤヤが観客席に姿を見せると、ツバサはほとんど反射で走り出していた。

階段を踏み外しそうになりながら、それでも迷わず一直線に。


「ヤヤぁぁあああ……っ!」


叫び声と同時に、ツバサは勢いよく飛び込んだ。

胸に顔をうずめ、子どもみたいに泣いて、肩を震わせながら。


「お、おい……落ち着けって」


ヤヤは困ったように言う。

でも、その声は不思議なほど優しかった。

まるで、泣く場所を先に作っておいてやったみたいに。


ツバサは声にならない声を漏らしながら、ヤヤのユニフォームをぎゅっと掴む。

涙がポタポタと落ちて、胸元に暗い色のしみを作っていく。


「……な、なんで泣いてんだよ」


「ひっく……だって……ヤヤ……すごすぎ……っ、ヤヤが……っ」


言葉がまとまらない。

けれど、涙の出口がどこにも見つからないみたいに、次から次へあふれてくる。


会場のざわめきが遠くに感じた。

自分とヤヤだけ、世界から切り離されたみたいに。


──ツバサはその時、ちゃんと気づいてしまった。


胸の奥がずっと痛かった理由を。

自分がヤヤに嫉妬して、拗ねて、わざと怒らせた理由を。

ヤヤが別の女子と話しただけで、心のバランスが崩れた理由を。


全部、全部、ひとつの言葉で説明できた。


(……あぁ、好き、なんだ)


認めた瞬間、世界の色が少し変わった。

悔しいほど簡単な答えだった。


ツバサは泣きながら顔をあげ、真っ赤な目でヤヤを見つめた。


「感動した。ヤヤのこと……すごいって思った……。

 すごすぎて……胸が、苦しくなった……」


「……そうかよ」


ヤヤは視線をそらしてポリポリと頬をかく。

耳の先がうっすら赤い。


この男はいつも通りクールで、無愛想で、だけどどこか不器用なほど優しい。

そんな彼を見て、ツバサの胸の奥で何かが確信に変わっていった。


(……やっぱり、好きだ)


静かで、はっきりとした感情だった。


ヤヤは一歩だけ近づき、そっとツバサの頭に手を置いた。

ぽん、と軽く叩く。慰めというより、落ち着けの合図みたいに。


「泣きすぎ。……顔、ぐしゃぐしゃだぞ。アイドルなんだろ」


「う、うるさい……! 泣いてるんじゃなくて……その……感動したのっ」


「はいはい」


ヤヤは淡々と答えるが、その声はどこか甘かった。


ツバサはもう一度ヤヤの胸に額を押しつける。

涙が止まらないまま、小さな声でつぶやいた。


「ねぇ、ヤヤ……。

 あんなふうに……人に夢とか、勇気とか……感動を与えられる人になりたい」


「……ツバサが?」


「そうだよ……ツバサが、だよ。

 ただチヤホヤされたいからじゃなくて……

 ちゃんと、人の心を動かせる……そんなアイドルに……なりたい」


しばらく沈黙があった。

会場の喧騒から切り離されたみたいに。


ヤヤはゆっくりと、ツバサの頭に置いた手をなでる。


「──お前なら、できるさ」


 短く、迷いのない声。


「夢とか勇気とか感動とか……そういうのは、“本気のやつ”にしか与えられない。

 でもツバサが本気でやるなら……きっとできる」


ツバサは涙で濡れたまつげを震わせた。


「……本当に、そう思う?」


「思うよ。

 お前、しつこいし、うるさいし、負けず嫌いだし……。

 そういうやつがいちばん伸びる」


「ちょっと、そこ褒めてるの?」


「一応、な」


ツバサは吹き出した。

泣きながら笑って、笑いながら泣いて。


そして、心のどこかで決めた。


──今日から私は、変わる。

ヤヤみたいに、誰かの心を震わせる存在になる。

そのために“本物のアイドル”を目指す。


涙をぬぐい、ツバサはまっすぐヤヤの顔を見た。


「……ヤヤ。ありがと」


「別に何もしてねぇよ」


「してるよ。

 私の……夢のきっかけになってくれたんだから」


ヤヤは一瞬だけ目をそらす。

それから、少し照れくさそうに言った。


「……まぁ、勝手にやればいいさ。ツバサらしく」


「ふふっ……!ありがと。……ねぇ、一緒にアキトに送る写真とろ?」


ツバサは胸の中が、熱く、じんわり広がっていくのを感じた。

その熱は、恋と、夢の始まりだった。


***


大会の翌日の朝、教室はまぶしいくらいに平和だった。

昨日の熱気が嘘みたいに、光とざわめきがゆるく漂っている。


ツバサは教室に入るなり、ドキンと心臓を跳ねさせた。

ヤヤが、いつもの席に座っていたから。


「……お、おはよ、ヤヤ」


「おう。おはよ」


その声があまりにも自然で、落ち着いていて、

それが逆にツバサの胸をざわつかせた。


あんな大舞台のあと、あんな感動的な再会のあと、

どうしてこんなに普通でいられるの、この男は。


「ツバサ、今日なんか変じゃね?」

「昨日テレビで抱きついて泣いてたの見たよ〜」

「ねぇねぇ、ヤヤくんとどんな関係?」


クラスの女子が面白がって寄ってくる。

ツバサは顔を真っ赤にし、両手をぶんぶん振った。


「ち、ちがっ! 違うからっ! あれはその……勢いで! ねっ!? ヤヤ!?」


「俺に振るなよ……」


ヤヤは軽くため息をついたが、その目はなぜか優しかった。

その視線に、ツバサの胸がまたぎゅっとなる。


そのとき、ふと思い出したようにツバサは尋ねた。


「そういえば……アキトの様子、どうなの?」


ヤヤは少し目を伏せ、静かに答えた。


「……カオリから連絡あった。

 意識は取り戻したらしい。ただ……リハビリを東京で続けるってさ。

 しばらくは会えないだろうな」


「そっか……。助かっただけよかったよ……ほんとに……」


ツバサは胸を押さえ、ホッと息をこぼす。

命が助かった。それだけで十分だった。


でもヤヤの表情はどこか曇っていた。


「……ヤヤ、どうしたの?」


そして突然、ツバサの目をまっすぐに見つめて言った。


「……今日の放課後、屋上に来れるか?話があるんだ。大事な……」


その言い方が妙に真剣で、

ツバサの心臓は爆発しそうなほど跳ねた。


「え……あ、う、うん……行く……!」


(もしかして……まさか……告白……?ぜ、絶対そうだ!)


そんな期待が、胸の奥でふくらんでいく。


***


放課後・屋上


 夕焼けのオレンジが、校舎の壁を溶かすように照らしていた。

 フェンスにもたれたヤヤの影は、長く伸びて風に揺れている。


 ツバサが屋上のドアを開けた瞬間、冷たい風がふっと通り抜けた。

 胸がちくりと痛む。なぜかわからないけれど、いつもと空気が違う気がした。


「……来たか。ありがとな」


 ヤヤは振り返らずに言った。


「う、うん……」


 どうしてか、言葉が自然につまる。


 いつもなら、もっと軽く言い合って、自然に距離を詰めて。

 なのに今日は、その空気がどこにもなかった。


 ツバサは思わず尋ねた。


「……なんか、変だよ、ヤヤ」


「そうか?」


「……うん。なんか、いつもより……声が優しい」


ヤヤは苦笑するように息を吐いた。


「優しくされたくないのかよ」


「い、いやだけど……いやじゃないけど……えっと……」


しどろもどろになるツバサに、ヤヤはようやく横目を向けた。


「……いろいろあったよな、ツバサと会ってから」


「え……?」


ヤヤは夕陽を見つめたまま、少しずつ言葉を続けた。


「初めて会ったとき、お前、めちゃくちゃ偉そうだったよな。

 “アイドルと話せて光栄でしょ?”とか」


「ちょっ……そ、それはキャラ作りで……!」


ツバサが顔を真っ赤にして反論すると、ヤヤは珍しく柔らかく笑った。


「でも……あれも悪くなかったよ。

 なんか、ツバサらしくてさ」


「…………」


「ケンカもしたし、騒いだし、怒鳴りあったし」


「……ヤヤが悪いんでしょ」


「お前も大概だろ」


そんな軽口さえ、今日はなぜか胸にしみた。


 ヤヤは続ける。


「陸上の練習、見にきてわざわざ文句つけて……結局、差し入れ置いてって」


「な、なんで覚えてるの……」


「覚えてるよ。……全部」


 ヤヤの声が、異様なほど優しい。


 ツバサの胸がぎゅっと締めつけられる。


(どうしたの……? ねぇ、ヤヤ、なんでそんなに優しいの……?)


「気づいたら……いつも隣にいたんだよ。

 お前と一緒にいる時間が、なんか、当たり前みたいになっててさ」


ヤヤの言葉は、ゆっくりと、どこか遠くから聞こえてくるみたいだった。


「……それでさ」


ヤヤは少しだけ声を落とした。


「今まで……応援してくれてありがとう」


「っ……ちょっと待ってよ……」


 ツバサの声は震えていた。


「そんな言い方……なんか……変だよ……。

 どうしてそんな、終わりみたいな……」


ヤヤは静かに息を吸い込み、短く吐いた。

そして言った。


「──俺、今日の夜から東京に引っ越すんだ。前から親と約束しててな」


夕焼けの色が、ツバサの視界からスッと抜け落ちた。


「…………え?」


「転校する。……だから今日で最後だ」


「うそ……でしょ……?」


唇が震えて、声がかすれる。


「なんで……なんで急に……?」


ヤヤは苦しそうに目を伏せた。


「……うち、借金があるんだ。

 親父が仕事の関係で保証人になってて……逃げられた。

 その返済の関係で、東京の親戚の家に世話になるしかなくてな。

 俺も向こうでバイトして……家計支えないといけないんだ」


それはあまりにも現実的で、あまりにも残酷だった。


「……じゃあ……もう……会えないの……?」


ツバサの声は、子どものように震えていた。

涙がぽろぽろと、頬を伝う。


「やだ……やだよ……!

 そんなの……そんなの絶対やだ……!」


 ツバサはフェンスにすがりつき、必死に首を振った。

 まるで世界の終わりを否定するみたいに。


「ヤヤと……会えなくなるなんて……考えたくないよ……!

 だって……私は……私……!」


胸が痛い。

息ができない。

声が涙に押しつぶされていく。


ヤヤは一歩だけツバサのそばに近づいた。

そして、いつもよりずっと優しい声で言った。


「……ごめんな。

 でも……俺、お前と過ごせたこの一か月……ほんとに楽しかった。

 お前のこと……大事だったよ」


その一言が、刃のように胸に突き刺さった。


「や……めてよ……そんな言い方……」


「……ツバサなら、大丈夫だ。

 強いし、前に進める。

それに永遠の別れじゃないだろ?地元は一緒なんだし。

きっといつかまたどこかで……」


ヤヤはそう言って笑った。

だけど、その笑顔は泣きそうに見えて、ツバサはさらに泣いた。


「……いや……いやだよ……

行かないでよ……ヤヤ……!ヤヤぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


ツバサは崩れ落ちるように泣いた。

声を上げ、肩を震わせ、ヤヤの名前を呼び続けた。


夕焼けが、涙で滲んだ。


***


翌朝。

教室の空気は、いつもより少しだけ薄く感じられた。


ヤヤの席は、ぽっかりと穴があいたみたいに空っぽだった。

昨日までそこにあったはずの温度も、声も、気配も、全部どこかに連れ去られていた。


担任は淡々と黒板に向かいながら言った。


「月野は……家庭の都合で、東京へ転校した」


その瞬間、ツバサの思考は一拍遅れて止まり、そして一気に過熱した。

意味がわからなかった。理解しようとして、理解が追いつかなかった。

胸の奥で、誰かが急にスイッチを切ったような、変な静けさが訪れる。


次の瞬間には、椅子を倒して走り出していた。クラスメイトが驚いていたが関係ない。

呼び止める声も、背後のざわめきも、すべてが遠ざかっていく。

ツバサの心臓だけがやけに大きく響いていた。


校門を飛び出すと、スマホが震えた。

表示された名前をぼんやりと見つめたまま、通話ボタンを押す。


「……はい……」


涙でにじむ声の向こうから、事務所のマネージャーの柔らかい声が聞こえた。


『ツバサちゃん。急だけど……オーディション、受けてみない?

 “Etoile♡Beat”の追加メンバー募集。全国区の人気グループよ。

 拠点は東京。すぐ動けるなら、チャンスは大きい』


「……えっ?」


ツバサは立ち止まった。

涙で濡れた目が、ゆっくりと大きく見開かれる。


東京。

ヤヤとアキトがいる場所。

そして、自分がずっとどこかで夢見ていた場所。


胸の奥で、くすぶっていた小さな火が、急に明るく燃え上がる。

ああ、これはきっと運命というやつじゃないか、とすら思う。

少しだけ震える指先を握りしめ、彼女は深く息を吸った。


「……受けます!!」


その一言を口にした瞬間、心のどこかで何かが動き出した気がした。

止まっていた時間が、またゆっくりと流れ始めるみたいに。


電話が切れる。

ツバサは袖で涙を拭う。

風が、泣き顔の熱をそっと奪っていった。


「このグループで……夢と感動を与えられるアイドルになる。

 そして……ヤヤにもう一度会えたら……」


ツバサは胸に手を当て、ぎゅっと爪を立てるように握りしめた。

涙の奥で、燃えるような光が生まれていた。


「——今度こそ逃がさない。

 ヤヤのことは、全部、全部、私がもらう。

 世界が何を言っても、誰が邪魔しても……私は、ヤヤを選ぶから」


風が吹き抜けても、その声だけは揺れなかった。


「だからヤヤ。ちゃんと覚悟してて。

 君がどこにいても、どれだけ離れていても……

 私は必ず迎えに行く。

 だって——君はもう私のものだから。誰にも渡さないから」


東京の空気が、まだ見ぬ未来の匂いを連れてくる。

涙の味は、すでに決意の味へと変わっていた。

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