第81話「アイドルの笑顔に隠された“絶対零度の殺意”―― 隣で笑う資格があるのは私だけでしょ?」
――夕方。
最後のチャイムが鳴り、校舎が少しずつ静まっていく。
教室には、ヤヤひとりだけが残っていた。
日直の仕事で、黒板を雑巾で拭き、チョークの粉が舞う中を丁寧に掃いていく。
傾いた西日のオレンジが窓から差し込み、教室の床に長い影を落としていた。
ガラッ。
静寂を破るように、教室のドアが開く。
「……おーい、ヤヤぁ?」
やってきたのはカイト。
髪はいつもより乱れていて、まだ昨日のショックを引きずっているような顔だ。
「ん?カイトか。どうしたんだよ?」
「どうした、じゃねぇよ……お前、まだ残ってたのか……?」
カイトは周囲を見渡し、眉をひそめた。
「ユウヒは? もう帰ったのか?」
ヤヤはぞんざいに雑巾を絞りながら答えた。
「さっき、ツバサを校内案内するって言ってどっか行ったよ。一緒に行くか?って聞こうと思ったけど……女子しか入れない場所もあるしな」
その言葉を聞いた瞬間、
カイトの顔から血の気がサァッと引いた。
「……ま、マジか……?」
「なんでそんな顔してんだよ」
「いや、お前……アイツ、ツバサに何するかわかんねぇぞ……?」
カイトの声は低く、いつになく真剣だった。
ヤヤは雑巾を置いて、眉を片方だけ上げる。
「何って……普通に案内してるだけだろ。今日だって普通っ……」
「いやいやいやいやっ……!!」
カイトが机に両手をつき、声を潜めて詰め寄った。
「お前、昨日ケイにアイドルがこんな夜遅く1人は危ないからって言われてツバサを駅まで送っただろ?」
「……ん?あ、ああ……」
「俺はレインとユウヒと途中まで一緒に帰ったんだけどな?」
言葉が妙に重い。
「……あいつら、殺意むき出しだったぞ?あの女、殺してやる、みたいな」
教室の空気が、ひやりと冷えた。
ヤヤは一瞬だけ目を細めた。
冗談かと思ったが、カイトの真顔がそれを否定している。
「い、いや……意味がわからん。今さら現役アイドルと何かあるわけないだろ?」
「ま、まぁ……普通に考えればな。
だが少なくとも、あの二人は
ヤバいぞ。マジで」
カイトは額を押さえ、呼吸を整えるように深呼吸。
「ヤヤ、掃除はもういいから行け。
ツバサとユウヒ、二人きりはまずい。
絶対にまずい」
ヤヤは雑巾とモップを元の場所に戻し、
軽く息を吐いた。
「……そんなに言うなら、わかったよ。探してくる」
「ああ、頼んだぞ……!」
カイトの声が背中に刺さる。
薄暗くなり始めた廊下へ、ヤヤは一歩踏み出した。
――放課後の校舎は広くて、静かで。
どこかのドアが、ゆっくりと閉まる音がした。
ただの風か。
それとも、人か。
ヤヤは無言で周囲を見渡しながら、校内へ歩み出す。
そして胸の奥で、嫌な予感がゆっくりと形を持ちはじめていた。
***
階段を上った先、最後の鉄扉がゆっくりと開く。
――屋上。
学校の屋上は高いフェンスに囲まれ、視界は一気に開けていた。
オレンジ色の夕焼けが校舎の影を長く伸ばし、遠くビル群の隙間から、柔らかな光が差し込んでいる。
「わぁ~……綺麗!!」
ツバサはフェンス越しに景色を見て、素直な感嘆の声を上げた。
夕焼けの光が彼女の横顔を照らし、アイドルらしい華やかさがさらに際立つ。
「でしょ~? 屋上、穴場なんだよ~」
隣でユウヒは、柔らかい笑みを浮かべていた。
無邪気だけど、どこか奥に影を感じる、掴みどころのない声色。
「こういうとこ来るとねぇ……なんか物語のヒロインになった気分にならない?」
「確かに……舞台みたいで素敵だね!!」
そのまましばし沈黙。
風が髪を揺らし、シャツの裾を軽くふわりと浮かせる。
ユウヒはフェンスにもたれながら、ふと声のトーンを落とした。
「――ところでさ、ちょっと聞いていい?」
「うん?」
「アイドルってやっぱり恋愛禁止なんでしょ?」
「……へっ?」
唐突すぎて、ツバサは目を瞬かせた。
ユウヒは楽しげに笑いながら続ける。
「思春期女子にはあまりにも辛いルールだよね~。でもまあ、それも仕事なのかな~?大変だ~」
その口調は柔らかいが、どこか探るような色が滲んでいた。
ツバサの睫毛が一瞬だけ震える。
「……まぁ、ね。詳しくは言えないけど、そういう決まり、あるよ?」
「やっぱりそうなんだ~」
ユウヒは軽く頷き、今度は夕焼けを見上げながら言った。
「じゃあ、私にはアイドル無理だなぁ~。
大好きな人いるから」
「え?!」
ツバサは小さく息を呑む。
「ほら、ツバサちゃんの隣の席の人」
その言葉に、ツバサの表情がほんの一瞬だけ固まる。
けれどすぐ、アイドルとしての完璧な笑顔に戻してみせた。
「そっか……ヤヤのこと、好きなんだ?」
「うん」
ユウヒは迷いのない声で答えた。
笑顔のまま、どこまでも穏やかに。
しかしその瞳は――底の見えない暗さを湛えている。
「だからね、ツバサちゃん」
ユウヒはゆっくりとツバサを振り返る。
夕焼けの光がユウヒの瞳に反射し、赤く揺れた。
「応援してくれる?」
その問いは、甘い声で、優しい響きで。
でも、逃げ道を許さない圧があった。
ツバサは思わず息を止める。
しかし――ほんの半拍置いて、笑顔を貼り直した。
「……私なんかで、力になれるかなぁ?」
「なれるよ」
ユウヒの笑顔は変わらない。
だがその裏にある本当の感情は、夕焼けに溶けて見えない。
その時――
「おーい!」
屋上へ続く鉄扉が開き、ヤヤが顔を出した。
夕焼けを背にして現れたヤヤに、ツバサがパッと笑顔を向ける。
「あっ!ヤヤ!ちょうど来てくれた!」
ヤヤは息を整えながら、ホッとした様子で二人を見渡した。
「よかった……探したぞ。二人とも、随分遅かったから心配で」
「ごめ~ん、屋上まで案内してたら時間かかっちゃってさぁ」
ユウヒが軽く手を振る。
「ふぅん……まぁ、仲良くなったみたいで安心したよ」
そんなヤヤの反応の後、ツバサはユウヒの手を取って、明るく言った。
「ユウヒちゃん、ほんと色んな場所案内してくれてありがとう!そろそろ戻ろっか?帰り遅くなっちゃうし!」
ツバサの明るさに、ヤヤも肩の力を抜く。
「じゃあ降りるか。鍵閉められたら面倒だし」
「うん!」
三人は並んで屋上の扉へ向かう。
夕焼けの風が背中を押すように吹き抜け――
鉄扉がゆっくりと閉まるその一瞬、
ツバサがちらりと夕焼けを振り返った。
その瞳には、笑顔とは違う色が宿っていた。
――これはまだ、嵐の前触れ。
そう感じさせるほどに、静かで、冷たい光だった。
***
夜。
すっかり日が沈み、薄い星が滲むように浮かんでいる。
制服のリボンをゆるく解きながら、ツバサはゆったりと歩いていた。
誰もいない住宅街。
足音が控えめに反響し、夜風が髪を冷たく揺らす。
――ついてきてる。
背後から一定の距離を保ちながら、
靴底がアスファルトを踏む気配。
だがツバサは振り返らない。
速度も変えない。
そのまま、退屈そうに鼻歌すら口ずさんでいる。
(……あえて気づかないフリしておこ♡)
ほんの少し、口元だけが笑った。
ツバサはあえて街灯の切れた細い路地へスッと入った。
湿ったコンクリートの匂いがかすかに漂う。
「やっと……二人きりになれた」
背後で男の声がした。
振り返る前に、男が姿を見せる。
フードを目深にかぶり、呼吸を荒げ、手には紙袋。
袋の中から覗くのは大量の写真。ツバサの笑顔。ライブの切り抜き。
ツバサは何も驚かない。
むしろ――どこか嬉しそうに眉をひらいた。
「あー……やっぱ、あれを見たファンかぁ。
“アイドルのくせに男と絡んでんじゃねぇ”とか?」
男の目が憎悪に濁る。
「……あのヤロウ……!
俺がいくらツバサに貢いだと思って……!
あいつを殺す前に……お前をもう俺のものにしてやる……!」
ツバサはゆっくりと目を細め、ため息をつく。
「そっか」
男は気味の悪い笑みを浮かべながら近づく。
ツバサの背中に壁はなく、逃げ道はある。
だがツバサは微動だにしない。
「……あの女……ウザかったなぁ」
唐突に、ツバサはぼそりと呟いた。
男が戸惑う。
「な、何……?」
ツバサの表情は無機質で、冷め切っている。
だがその奥には、妙な愉悦が滲んでいた。
「浜中ユウヒ……だっけ?
最初から嫉妬バレバレ。応援してくれる?って言うけどさぁ……要するにあれ、私の男に手を出すなってことでしょ?ははっ!」
「……はぁ?誰だよ!知らねぇよ!!」
男の思考が追いつかない。
男はナイフを抜き、ツバサに飛びかかった。
「いいから俺のものになれやぁぁ!」
だが次の瞬間。
ツバサの右手に、白い霧のような冷気が渦巻きはじめる。
空気が凍りつく音がした。
キィィィ……。
白い光が一瞬、路地を照らす。
男は目を見開き、足を止める。
「……な、なんだそれ……!?」
ツバサの手には、澄んだ氷でできた銃が顕現していた。滑らかで美しく、冷気が絶えず溢れている。
それから何かに気づく。
軽く首を傾げ、男を見つめた。
「あ、今気づいたけどお兄さん、指名手配犯の人だよね?……ってことは殺していいのか~。
やっぱり今日私、運がいいなぁ……」
男の呼吸が荒くなる。
「ば、バカな……アイドルがなに言って……」
ツバサは小さく笑い、引き金に指をかける。
「この世の悪は、私たち〈ガーディアン〉が駆逐しなきゃ」
その声はまるで、舞台の台詞のように綺麗だった。
「――絶対零度」
氷の弾丸が放たれた瞬間、
路地裏の空気が裂け、白い衝撃波が男の胸を貫いた。
一滴の血も流れない。
ただ、男の体が青白く光りながら――
ガガガガガッ……!
瞬く間に、全身が氷の彫像へと変わる。
街灯の光が、氷像の中の恐怖に歪んだ顔を淡く照らす。
ツバサは無表情のまま、指先で氷を軽く叩く。
コン……。
その音がやけに響いた。
氷の銃は霧のように消える。
それからツバサは制服のポケットから当然のようにタバコを取り出し、口にくわえる。
慣れた手つきで、カチッ、とライターを向け火をつける。
煙草の先端が夕闇に沈む。
彼女は氷像のすぐ前に立ち、
ゆっくりと人差し指と親指で“銃の形”をつくる。
そして、首を傾げながら甘い声で囁く。
「――ねぇねぇ。
私の“男”に嫉妬した結果がこれ?」
指で作った銃口を氷像に向け、
ツバサは引き金を引く真似だけをして、
「ばぁん♡」
と言った。
その瞬間――
氷像にヒビが走り、
音もなく、粉雪のように崩れ落ちた。
ツバサは崩れ落ちた氷を踏みながら歩き出す。
夜風が髪を揺らし、タバコの煙が揺らめく。
ふと、ツバサは微笑んだ。
その妖艶で危険な雰囲気を含む笑みは
昼間のアイドルの顔とは別人だった。
「……あのスキャンダルね、私が自分でマスコミに流したんだよ……君がほしくてね。ヤヤ……」
夜の闇に溶けていく声。
その背中は軽やかで、そして――底なしに狂っていた。




