【34】父親と他人
もし、サティと娘が生きていたら……うだつの上がらない門番、ルッツ・オットーは、娘と妻が生きている未来を、何度か想像したことがある。
きっと、ミリアムは教育方針にうるさく口を挟み、耳の痛い正論を唱えたあとで、事あるごとにオットーの若き日の失敗を語るだろう。そして口下手なクラウスが、ボソボソとフォローになっていないフォローをするのだ。それを聞いたルッツが怒り、サティが笑う。
娘は何に興味を持つだろう。サティのように歌に興味を持つだろうか? それともルッツのように剣を振り回したがるだろうか?
サティと自分の娘なんだから、きっと魔術の才能があるはずだ。だが、魔術師にならなくても良い。
ルッツもサティも既に両親は亡くなっており、帰る故郷のない身だ。だから、今まで〈楔の塔〉を出ることを考えたことがなかったけれど、娘に魔術以外の勉強をさせるため、でかい街に引っ越したって良い……ミリアムはきっと荒れるだろうけれど。
その時はクラウス、お前がなんとかしてくれ。頼むよ一生のお願いだ。あの女、絶対サティについてくる。
……なんて、かつての友に懇願する未来もあっただろうか?
だが、サティは死に、クラウスとミリアムはルッツを裏切って、娘を古代魔導具に捧げた。
ミリアムは憎悪を一身に引き受けてこの世を去り、クラウスは利き腕を失って、今も生死の境を彷徨っている。
真実を知った時、「自分は娘を奪われた被害者だ。あいつらに騙されていたんだ。仲間だと信じていたのに!」──と腹が立った。
同時に、こうも思った。
俺が諦めの悪い人間だったら、あいつらは真実を俺に伝えたんじゃないか、と。
(全部、俺にとって都合の良い妄想だ)
ルッツが頑張ることをやめて、門番として温く生きている間、娘のフィーネは命を削って平和を守っていた。クラウスは首座塔主でありながら、率先して魔物討伐をしていた。
ルッツだけが何も知らないまま、のうのうと生きていた。
──自分は、その罰が欲しいのだ。
〈楔の塔〉の一員として、奪還作戦に参加した彼は、エーベル塔主がフィーネの命を狙っていることに気づいていた。だから、エーベル塔主がフィーネを手にかける前に、自分が娘を救い出すのだと決めたのだ。
だが、敷地内の魔力濃度は変動し続けており、なかなか奥まで進めない。
そんな時、魔力を吸い上げる茨の蔓を見て閃いた。
魔力濃度の濃い土地だと、人間は魔力中毒になってしまう。ならば、この蔓の棘を手に刺して魔力を吸わせ続ければ、魔力中毒にならず奥まで進めるのではないか?
危険な賭けなのは承知の上で、彼は茨の蔓を握りしめて駆け抜け、そして、一人の少女を見つけた。
白いドレス、真っ直ぐな黒い髪、可憐な顔立ちにはサティの面影がある──あぁ、どうりでミリアムが傾倒するわけだ。
フィーネはきっと、父親のことを何も知らないだろう。だから言わなくては。自分が、この口で。
* * *
「俺はっ、お前の父親だ……っ!」
オットーの必死の叫びに、フィーネの表情は変わらない。
慈悲深い笑みを実の父に向け、娘は問う。
「その事実に、何の意味があるのかしら」
怒りも憎悪も敵意もない声。
オットーはフィーネの中に、一欠片でも父親を望む心があることを期待した。もし、フィーネが自分を見捨てた父を恨むなら、その全てを受け止める覚悟だった。
だが、違うのだ。フィーネの中に父親なんてものは存在しない。生物学上の父がいることは知っているが、その父に対して思うことが何もないのだ。
愕然とするオットーに、フィーネは「あぁ」と何かに気づいたような口調で付け足す。
「メビウスを恨まないであげて。メビウスはミリアムの目を盗んで、貴方のことを教えてくれたの。『お前の父親は生きている。〈楔の塔〉の魔術師ルッツ・オットー。魔物を全て滅ぼしたら、きっと会わせてやる』」
それをフィーネに伝えたメビウスの表情と口調がありありと想像できる。
親友を生かすために、親友の娘を犠牲にせざるをえなかった男の苦悩──それを聞いたフィーネは何を思ったのだろう。まだ見ぬ父親に思いを馳せたのだろうか、それとも恨んだのだろうか。
「わたしは、それを聞いて思ったの」
フィーネの目から、ポロリと一粒の雫が流れ落ちた。
透明で、清らかで、穢れを知らぬ無垢な涙をこぼし、少女は告げる。
「『あぁ、この人には救済が必要なのね』」
その時、オットーの胸に生じたのは強烈な違和感。
甘い菓子だと思って食べたら塩辛かったような、想定していたものと全く違う味を、舌を通して脳髄に叩き込まれたような感覚。
いつか父に会わせてやると言われた少女の心が、何故、救済に結びついてしまうのだ。
「メビウスはずっと苦しんでいた。その苦しみの理由が分かった時に思ったの、救ってあげなくちゃって」
フィーネにとってオットーは、血の繋がった他人──その他大勢とさして変わらぬ存在なのだ。
会いたかったお父さんではない。にっくき父親ですらない。ただ、そこにいるだけの人。
言葉を失い立ち尽くすオットーに、フィーネは柔らかく目を細める。
「苦しんでいるのね。大丈夫、みんな救ってあげるから」
慈悲深いのにどこか他人事なのは、彼女が救われる側ではないからだ。彼女は救いを望んでいないからだ。
フィーネの隣に立つ魔物の王が、何も言わずオットーを見据える。
(怖い、怖い、怖い怖い怖いなんで俺はこんなに、なんで、こんな、ここまできたのに怖い何もできないまま死ぬ怖い怖い怖い)
恐怖に当てられ、手の力が緩んだ。握った茨の蔓が地面に落ち、高濃度の魔力がオットーを蝕む。
呼吸がままならず膝をつくオットーに、フィーネは両手を差し伸べた。
「大丈夫、〈深淵の泉〉は全てを受け入れてくれる。真の安寧はここにある」
恐怖に麻痺した頭に、不思議とフィーネの言葉は沁み込んでくる。乾いた砂に水が染み込むかのように、その慈悲がしみてくる。
──あの深淵の泉に飛び込めば、恐怖から解放される。そこに安寧がある。
オットーの足が〈深淵の泉〉目指して歩き出したその時。
「それは、人のためのものなのか?」
空から、声がした。
オットーはギチギチに固くなった首を必死に動かし、空を見上げる。
飛行用魔導具の翼を広げ、空を舞っているのは、ヒュッター教室の白髪の少女……。
「ティア!」
その時初めて、フィーネの声が弾んだ。
フィーネは年相応の少女らしい笑みで、空を見上げる。
「嬉しいわ、やっぱり来てくれたのね」
嬉しそうなフィーネと対照的に、ティアは冷たい目をしていた。
オットーの知るティアは、いつも元気に歌を歌っている無邪気な少女だ。
そんなティアが、怒りに満ちた声で吠える。
「深淵は魔物が生まれてくる泉だ。人間が生まれる場所でも、還る場所でもない!」
ビリビリと震える声は、無邪気な少女のそれではない。フィーネの神聖に真っ向からぶつかる気迫がある。
そこに静かな声が割って入る。魔物の王だ。
「神は、人も魔物も救うと言った」
その一言で、オットーは背骨が震えるような恐怖を覚えた。
ティアにもこの恐怖は届いているのだろう。ティアは真っ青な顔で唇を噛んでいる。
フィーネは第三の塔〈水泡〉の表面を覆う黒いもの──〈深淵の泉〉に手をかざした。
「深淵は人の負の感情から生まれたものよ。人の心から生まれた人の一部。だから……人間ととても相性が良いの。人も受け入れてくれる」
フィーネの右手が、トプンと深淵に沈む──最初は、真っ黒な水に右手を沈めているのかと思った。だが、違う。
フィーネの白い手が溶け、深淵と同化しているのだ。
己の娘の信じられない行動に、オットーはやめろと叫びたかった。なのに、喉がカラカラに乾いて声が出ない。
フィーネはもう、オットーに見向きもしなかった。その目はうっとりとティアを見つめている。
「ティア、貴方は神の使いとして、深淵を祝福する歌い手になるの」




