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白翼のハルピュイア  作者: 依空 まつり
八章 境界の魔女
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【32】人も魔物もみんなクソ


 霜で硬くなった土を、サクリ、サクリと踏む音が静かな森に響く。

〈水晶領域〉から少し離れ、境界の森と呼ばれる暗い森を一人の男が歩いていた。

 年齢は二十代半ばぐらい。怪我をしているのか、いたるところに包帯を巻いている。

 身につけているのは小綺麗な服で、鮮やかな金髪の上につば付き帽子。帽子には真紅の薔薇を模した装飾が飾られていた。

 男は森の途中、木々の密度が増した辺りで足を止め、帽子を胸元に当てる。


「ただいま、魔女様」


 男がそう口にすると、森の奥から蔓薔薇が蛇のようにスルスルと伸びてきた。

 男はその蔓薔薇に導かれるように、森の奥へと進んでいく。

 境界の森は、人と魔物の領域の境界。故に、魔力濃度の濃い土地と薄い土地が混ざり合っている。

 中でも一際魔力濃度の濃い土地を進んでいくと、やがて庭園に囲まれた屋敷が見えてきた。

 四季の歪んだ庭を持つ魔女──彼女は、一部の者の間で境界の魔女と呼ばれている。彼女は屋敷の周囲に魔術を仕込み、人も魔物も近づくことができないようにしているのだ。

 屋敷に辿り着くことができるのは、魔女の許しを得た者のみ。


 ──それが、彼だった。


 庭園を歩いていた彼は、ささやかな違和感を覚えた。洗濯に使う桶の位置が違う気がする。

 更に屋敷に足を踏み入れ、また違和感。燭台のロウソクが短くなっている。ここを出る時、新しい物に取り替えたはずなのに。


(ティアが来たのか?)


 この屋敷に辿り着けるのは本来カイだけだが、もしティアが来たのなら、魔女が彼女を招き入れてもおかしくはない。

 何故ならティアはハルピュイア──魔女がハルピュイアに思い入れがあることを、カイは知っている。

 だが、厨房を覗いた彼は、明確な異変に戦慄した。

 湯を沸かした痕跡、捨てられた茶葉。

 ティアに茶を淹れる習慣はない──人の文化を教える時に飲ませたが、「葉っぱのお湯」呼ばわりだ。

 人の真似事をする魔物の中には、茶を飲む者もいるだろう。だが、基本的に茶を淹れるのは人間だ。ここに人間が来たのだ。人間が、人間が、人間が!!


(どういうことだ、魔女様が人間をここに招き入れるなんてあり得ない)


 彼は早足で、魔女の部屋に向かった。


「魔女様!」


 勢いよく扉を開ける。

 天井からガラス球がぶら下がった部屋。床に積み上げられた本。いつもそこに腰掛けている魔女がいない。


「魔女様! 姿を見せてくれ!」


 彼は帽子の薔薇に手を触れた。

 そうして意識を集中し、魔女を探す──見つけた。カイは早足で廊下を歩いて、魔女のもとに向かう。

 魔女は書斎の奥、書き物机の上に座って、本を読んでいた。

 その姿にカイは胸を撫で下ろす。


「魔女様……あぁ、良かった。貴女に何事もなくて」


 魔女は何も言わない。おかえりの一言もなく、無言で本のページを捲っている。

 それでもカイは魔女を愛していた。

 世界から受け入れられないカイにとって、彼女だけが居場所で、救いなのだ。


「もしかして、俺の留守中に誰か来た?」


「…………」


「それは人間?」


「…………」


 魔女は滅多に口を開かないし、必要最低限しか語らない。彼女はずっとそうだった。カイが幼い頃から、ずっと、ずっと。

 だからカイは、すっかり独り言が癖になってしまった。


「……悪い奴らに、魔女様を連れて行かれなくて良かった」


 この屋敷も、ここに座る魔女も、全て古代魔導具〈彩色庭園〉の力で作り出した物だ。

 いわば仮初の作り物だが、古代魔導具〈彩色庭園〉の意識は現在、この魔女のヒトガタに移っている。

 彼女のことが大事なら、何故そんなことをするのか。古代魔導具の形のまま、肌身離さず身につけていれば良いではないか──そう思う者もいるだろう。

 だが、それはカイと魔女の望みに反するのだ。

 カイはそばにいてくれる人が欲しかった。家が欲しかった。だから作った。

 魔女は人の体を欲した。庭園を欲した。だから作った。

 ただそれだけのことなのだ。


「ちょっと、旅の汚れを落としてくるよ」


 そう言ってカイは書斎を出ると、寝室に移動する。やはり使った跡がある。おそらく誰かがこのベッドで眠ったのだ。

 カイは薬箱や包帯を取り出すと、服を脱ぎ、全身の包帯を解く。

 鬱血し、赤黒くなった打撲痕、絞めつけられた痕、鋭い爪で切り裂かれた裂傷──魔物(クソ)どもにやられた傷だ。忌々しい。

 カイは運び込んだ湯で体の汚れを拭い、黙々と薬を塗って、包帯を巻き直す。

 ここは魔力濃度の濃い土地で、故にここに滞在している時、ハルピュイアのティアは傷の治りが異常に早かった──否、異常ではない。魔物にとっては普通のことなのだ。


(羨ましい話だ。化け物ども)


 包帯を巻き終え、服を着替えたら、大事な帽子を被り直す。

 寝室、キッチン、洗い場、至る所に誰かがいた痕跡がある。それはおそらく、ティアではない。ティアは人の道具を正しく使い、洗って片付けることが得意ではないのだ。

 この屋敷に出入りしたのはおそらく、それなりに几帳面な性格の人間だ。

 その事実に、カイは腑が煮え繰り返る思いだった。


(この屋敷に出入りした人間(クソ)め……見つけ出して、八つ裂きにして、魔物の餌にしてやる)


 勿論、やるなら魔女に見つからないように、だ。

 この近くにはランゲの里がある。そちらで情報収集をした方が良いかもしれない。その段取りを考えつつ、彼は再び書斎に赴いた。

 魔女は、やはり先ほどと同じ姿勢で本を読んでいる。


「魔女様、俺はまた、しばらく留守にするよ。少し忙しくなりそうなんだ」


「…………」


「次に戻ってきたら、その時は……」


 言葉を切り、彼はうっとりと笑う。

 もうすぐだ。もうすぐ彼の願いが叶う。

 魔女がカイに語らぬことがあるように、カイもまた、魔女に語っていないことがある。


 ──もうすぐ彼の復讐が叶うことも。

 ──彼が宰相を名乗り、魔物達を動かしていることも。


(魔女様、きっともうすぐだ。俺達は壁の外へ出て、自由になれる。どこにだって行ける)


 カイは机のそばにしゃがむと、母親の気を惹きたがる幼子のように、魔女の服を摘んだ。


「その時は、魔女様も一緒に旅をしよう。貴女に広い世界を見せたいんだ」

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