【32】人も魔物もみんなクソ
霜で硬くなった土を、サクリ、サクリと踏む音が静かな森に響く。
〈水晶領域〉から少し離れ、境界の森と呼ばれる暗い森を一人の男が歩いていた。
年齢は二十代半ばぐらい。怪我をしているのか、いたるところに包帯を巻いている。
身につけているのは小綺麗な服で、鮮やかな金髪の上につば付き帽子。帽子には真紅の薔薇を模した装飾が飾られていた。
男は森の途中、木々の密度が増した辺りで足を止め、帽子を胸元に当てる。
「ただいま、魔女様」
男がそう口にすると、森の奥から蔓薔薇が蛇のようにスルスルと伸びてきた。
男はその蔓薔薇に導かれるように、森の奥へと進んでいく。
境界の森は、人と魔物の領域の境界。故に、魔力濃度の濃い土地と薄い土地が混ざり合っている。
中でも一際魔力濃度の濃い土地を進んでいくと、やがて庭園に囲まれた屋敷が見えてきた。
四季の歪んだ庭を持つ魔女──彼女は、一部の者の間で境界の魔女と呼ばれている。彼女は屋敷の周囲に魔術を仕込み、人も魔物も近づくことができないようにしているのだ。
屋敷に辿り着くことができるのは、魔女の許しを得た者のみ。
──それが、彼だった。
庭園を歩いていた彼は、ささやかな違和感を覚えた。洗濯に使う桶の位置が違う気がする。
更に屋敷に足を踏み入れ、また違和感。燭台のロウソクが短くなっている。ここを出る時、新しい物に取り替えたはずなのに。
(ティアが来たのか?)
この屋敷に辿り着けるのは本来カイだけだが、もしティアが来たのなら、魔女が彼女を招き入れてもおかしくはない。
何故ならティアはハルピュイア──魔女がハルピュイアに思い入れがあることを、カイは知っている。
だが、厨房を覗いた彼は、明確な異変に戦慄した。
湯を沸かした痕跡、捨てられた茶葉。
ティアに茶を淹れる習慣はない──人の文化を教える時に飲ませたが、「葉っぱのお湯」呼ばわりだ。
人の真似事をする魔物の中には、茶を飲む者もいるだろう。だが、基本的に茶を淹れるのは人間だ。ここに人間が来たのだ。人間が、人間が、人間が!!
(どういうことだ、魔女様が人間をここに招き入れるなんてあり得ない)
彼は早足で、魔女の部屋に向かった。
「魔女様!」
勢いよく扉を開ける。
天井からガラス球がぶら下がった部屋。床に積み上げられた本。いつもそこに腰掛けている魔女がいない。
「魔女様! 姿を見せてくれ!」
彼は帽子の薔薇に手を触れた。
そうして意識を集中し、魔女を探す──見つけた。カイは早足で廊下を歩いて、魔女のもとに向かう。
魔女は書斎の奥、書き物机の上に座って、本を読んでいた。
その姿にカイは胸を撫で下ろす。
「魔女様……あぁ、良かった。貴女に何事もなくて」
魔女は何も言わない。おかえりの一言もなく、無言で本のページを捲っている。
それでもカイは魔女を愛していた。
世界から受け入れられないカイにとって、彼女だけが居場所で、救いなのだ。
「もしかして、俺の留守中に誰か来た?」
「…………」
「それは人間?」
「…………」
魔女は滅多に口を開かないし、必要最低限しか語らない。彼女はずっとそうだった。カイが幼い頃から、ずっと、ずっと。
だからカイは、すっかり独り言が癖になってしまった。
「……悪い奴らに、魔女様を連れて行かれなくて良かった」
この屋敷も、ここに座る魔女も、全て古代魔導具〈彩色庭園〉の力で作り出した物だ。
いわば仮初の作り物だが、古代魔導具〈彩色庭園〉の意識は現在、この魔女のヒトガタに移っている。
彼女のことが大事なら、何故そんなことをするのか。古代魔導具の形のまま、肌身離さず身につけていれば良いではないか──そう思う者もいるだろう。
だが、それはカイと魔女の望みに反するのだ。
カイはそばにいてくれる人が欲しかった。家が欲しかった。だから作った。
魔女は人の体を欲した。庭園を欲した。だから作った。
ただそれだけのことなのだ。
「ちょっと、旅の汚れを落としてくるよ」
そう言ってカイは書斎を出ると、寝室に移動する。やはり使った跡がある。おそらく誰かがこのベッドで眠ったのだ。
カイは薬箱や包帯を取り出すと、服を脱ぎ、全身の包帯を解く。
鬱血し、赤黒くなった打撲痕、絞めつけられた痕、鋭い爪で切り裂かれた裂傷──魔物どもにやられた傷だ。忌々しい。
カイは運び込んだ湯で体の汚れを拭い、黙々と薬を塗って、包帯を巻き直す。
ここは魔力濃度の濃い土地で、故にここに滞在している時、ハルピュイアのティアは傷の治りが異常に早かった──否、異常ではない。魔物にとっては普通のことなのだ。
(羨ましい話だ。化け物ども)
包帯を巻き終え、服を着替えたら、大事な帽子を被り直す。
寝室、キッチン、洗い場、至る所に誰かがいた痕跡がある。それはおそらく、ティアではない。ティアは人の道具を正しく使い、洗って片付けることが得意ではないのだ。
この屋敷に出入りしたのはおそらく、それなりに几帳面な性格の人間だ。
その事実に、カイは腑が煮え繰り返る思いだった。
(この屋敷に出入りした人間め……見つけ出して、八つ裂きにして、魔物の餌にしてやる)
勿論、やるなら魔女に見つからないように、だ。
この近くにはランゲの里がある。そちらで情報収集をした方が良いかもしれない。その段取りを考えつつ、彼は再び書斎に赴いた。
魔女は、やはり先ほどと同じ姿勢で本を読んでいる。
「魔女様、俺はまた、しばらく留守にするよ。少し忙しくなりそうなんだ」
「…………」
「次に戻ってきたら、その時は……」
言葉を切り、彼はうっとりと笑う。
もうすぐだ。もうすぐ彼の願いが叶う。
魔女がカイに語らぬことがあるように、カイもまた、魔女に語っていないことがある。
──もうすぐ彼の復讐が叶うことも。
──彼が宰相を名乗り、魔物達を動かしていることも。
(魔女様、きっともうすぐだ。俺達は壁の外へ出て、自由になれる。どこにだって行ける)
カイは机のそばにしゃがむと、母親の気を惹きたがる幼子のように、魔女の服を摘んだ。
「その時は、魔女様も一緒に旅をしよう。貴女に広い世界を見せたいんだ」




