【31】温かい靴下、ハッピーエンドの物語
その日、最年少の見習い魔術師フィンは、蔵書室を目指していた。
最近は長い文章をよく読めるようになった、とユリウスが褒めてくれたので、何か本を借りてみようと思ったのだ。
褒められると嬉しい。だって、フィンはいつも家族から褒めてもらえなかったから。
フィンの親も兄姉も、ことあるごとに「そんなものは見て覚えろ」という。だけどフィンは馬鹿だから、見て覚えることができなかった。
一度訊いたことを二度訊こうものなら、どうしてお前はそんなに覚えが悪いのかと罵られる。
だからフィンは、ユリウスに勉強を教わる時、分からないところが訊けず、黙り込んでしまうことが何度かあった。
──どうしよう、分からない。前にも同じところでつまずいて、ユリウスに質問をした気がする。それなのにまた同じことを訊いたら、ユリウスが気を悪くするのではないか。
そうして訊くことができず、かといって自力で問題を解くこともできず、黙り込んでしまうフィンに、ユリウスはいつも静かな声で「何が分からない」と訊く。
フィンがボソボソと「前に教わったとこ……」と答えると、ユリウスはクククと笑って、「なるほど、そこが苦手なのか」と繰り返し教えてくれた。
『オイラが馬鹿で、ごめんね……』
『クハハ、おかしなことを言う。真の愚者は思考を放棄した者だ。選択に悩む者は馬鹿ではない』
その言葉が、フィンはとても嬉しかったのだ。
それからコツコツと学び続けて、だいぶ文字を読めるようになってきた。これなら、本を一冊、最初から最後まで自力で読めるかもしれない。
本を一冊読み終えたら、ユリウスに報告するのだ。ユリウスのおかげで、本が読めたよ、と。
(オイラが本を読めるようになったら……兄ちゃん達、すごく驚くだろうな……へへ)
本を読める。それはとてもすごいことだ。本が読める者なんて、フィンの故郷では数えるほどしかいなかった。
兄達の驚く顔を、ユリウスの満足そうな顔を想像したら、なんだか心がホカホカしてきた。
フィンは第三の塔〈水泡〉に足を踏み入れた。
第三の塔〈水泡〉は増設を繰り返した建物で、蔵書室は増設前からある塔の半分ぐらいを占めている。
一階奥が第一図書室、二階が第二図書室、三階が第三図書室、それと地下蔵書室という構成になっており、見習いが使えるのは第一図書室のみである。
稀少な本や、危険な魔導書等は、上の階か或いは地下に収蔵しているらしい。人間は大事なものほど、高いところか地下にしまいたがる。
(どうしよう、緊張してきた……)
第一蔵書室の扉の前で、フィンは今更になって怖気付く。
今までろくに文字も読めなかった、見習いの中の落ちこぼれが蔵書室なんて、分不相応だと思われないだろうか。
やっぱりやめようか、と臆病な心に負けそうになった時、すぐ後ろで「フィン」と名を呼ぶ声があった。
フワフワしたオレンジ色の髪を二つ結びにした、とんがり帽子の少女、ロスヴィータだ。
「良かった、探したのよ。あんたにあげようと思ったものがあって」
「オイラに?」
ロスヴィータは「はい、これ」と紙袋を差し出した。
フィンはおそるおそる受け取り、中身を確かめる。中身は靴下だ。
「嗜好品販売会で、たまにクジがあるでしょ? 品物一品プレゼントってのが当たったのよ。だけど、アタシのサイズに合わないからあげる」
「……いいの?」
おずおずと訊ねるフィンに、ロスヴィータはニヤッと笑う。いつもすましている彼女にしては珍しい、親しみのある笑い方だ。
「アタシ達、『寝る時は靴下党』でしょ。最近、また一段と冷え込むようになってきたし」
そういえば、そんな話をしたことがあった。随分前のことなのに、ロスヴィータは覚えていてくれたらしい。
フィンは胸をムズムズさせながら、ロスヴィータを見上げた。
「ロスヴィータ、ありがとう」
「どういたしまして」
就寝のスタイルについて盛り上がったのは、一体いつのことだったか。
寝る時は全裸党のセビルとティアにレンが突っ込んだり、オリヴァーの抱き枕党発言にゾフィーが自分は違うと騒いだり……あの賑やかさが懐かしい。
今は、セビル、レン、ティア、ルキエの四人がダーウォック奪還作戦に向かっている。また、見習い代表のエラが、手術のため、授業を休んでいた。
なので、ここ最近の教室は随分静かで、少し寂しい。
「ところで、フィンがここに来るなんて珍しいわね」
ロスヴィータの言葉に、フィンは「う……」と唸り、視線を泳がせた。
「……やっぱ、オイラが来るのはおかしい、よね」
「おかしいじゃなくて、珍しいって言ったのよ」
フィンは貰った紙袋を抱きしめて、視線を足下に落とした。
フィンはチビだから、そうしていると誰にも表情を見られずに済む。
「本を借りようと思ったんだけど……やっぱ、オイラじゃ場違いかなって……」
フーーーーと鼻から長い息を吐く音が上の方で聞こえた。
次の瞬間、フィンの視界にロスヴィータの顔がパッと現れる。ロスヴィータがフィンの目の前でしゃがみこんだのだ。
ロスヴィータは折り曲げた膝の上で頬杖をついて、フィンを睨んだ。
「あんた、ダマーからアタシを庇った時も、魔法戦でも勇敢だったじゃない。なんで蔵書室ぐらいで萎縮してるのよ」
勇敢。自分が。
口を半開きにするフィンの前で、ロスヴィータはすっくと立ち上がった。つられてフィンも顔を上げる。ロスヴィータは胸を張り、自信たっぷりに宣言した。
「ここは魔術師のための〈楔の塔〉で、あんたはそこの見習い魔術師なのよ。本を借りて悪いはずがないでしょ! ほら、行くわよ!」
ロスヴィータはフィンの手を引いて歩き出す。歩幅が違うので、フィンはつい早足になった。いけない。足がもつれる。
「ぎゃっ」
転ぶフィンに、ロスヴィータがさぁっと青ざめる。
「ごめん……あんた、足が悪いんだったわね」
「だ、大丈夫だよ。これぐらい」
自分は頑丈なだけが取り柄なのだ。この程度のことで、ロスヴィータに気を遣わせたくない。
ロスヴィータは眉をギュムギュムと動かし、悔しそうな顔をした。
「アタシって、つくづく配慮が足りないんだって実感するわ。エラが重い物持てないことも、たまに忘れたりするし」
エラは今、魔力放出が出来るように手術をしてもらったばかりだという。
なんでも人は掌に魔力の出口があり、エラはそこが極端に狭く、魔力放出が上手くできずにいたのだとか。
「エラも大変だねぇ」
「でも、包帯が取れたら魔術が使えるようになるかもしれないのよ。それって、すごくワクワクするじゃない」
確かに新しいことができるようになるのは、ワクワクする。その気持ちはすごくよく分かる。
魔術が得意なロスヴィータは、いつも難しい魔術書ばかり借りているのだろう。だけど彼女は、一般書の方に足を向けた。蔵書室に不慣れなフィンを案内してくれたのだ。
ロスヴィータは配慮が足りない、と落ち込むが、充分に優しいとフィンは思う。
一般書の中でも、特に娯楽書を集めた本棚の前には、見覚えのある後ろ姿があった。肩の辺りまで伸びた黒髪に、左右一房ずつ紫色の髪──呪術師のゾフィーだ。
ゾフィーは本を一冊手に取ると、真剣な顔で後ろの方のページをパラパラ捲っている。
「なんか……変な読み方してるわね」
ロスヴィータの呟きが聞こえたのか、ゾフィーがパッと顔を上げた。
ピンク色の目がぱっちりと丸くなっている。
「ロスヴィータとフィンじゃん、珍し〜。何借りに来たの?」
「オイラでも、読める本があるかなって、探しに来たんだ……」
そう答えて、フィンは気になったことをおずおず訊ねる。
「ゾフィーは、なんで後ろから読むの?」
「借りる前に、この本の終わり方がハッピーエンドか確かめてたの」
これに「はぁ?」と否定的な声をあげたのはロスヴィータだ。
ロスヴィータは眉根を寄せて、理解できないという顔をしている。
「本は最初から読むものでしょ。先にオチを知ったら勿体無いじゃない」
「あたしは安心感が欲しいの! 主人公がこれでもかってぐらい愛されて、幸せになる話じゃなきゃヤダ! 仲間が死ぬのもヤダ! 感情移入しまくったキャラクターが死んじゃったら、一ヶ月は落ち込むんだから!」
それは大変だ。読書というのはフィンが思っていた以上に、心が大変な行為であるらしい。
ゾフィーはロスヴィータに心が抉られた作品群をツラツラと語っていたが、フィンを見ると途端にお姉さんぶった態度で言う。
「そうだ、フィンが借りる本、ゾフィーちゃんが選んであげる! 約束されたハッピーエンドの話を!」
「その時点でネタバレじゃない」
すかさずロスヴィータからツッコミが入った。
ゾフィーは唇を尖らせ、本棚と向き合う。
「このぐらいは許してよぉ〜。オチは言わないからさぁ……あ、これこれ」
ゾフィーは本棚の下段にある本を手に取った。少し文字が大きめの、読みやすそうな本だ。
どうやら子ども向けの冒険譚らしい。
「これねぇ、主人公がちょっとフィンに似てるんだよぉ」
「オイラに……?」
じゃあ、臆病でグズで役立たずなんだろうな。とフィンは思った。
そんなフィンに、ゾフィーはニヒヒと笑いながら言う。
「すっごく頑張り屋の良い子で〜、仲間想いで勇気があって〜、途中ハラハラする展開になるんだけど、みんなで力を合わせて試練を乗り越えて、最後はハッピーエンドに……」
「だからネタバレしてんじゃない」
「あ」
ゾフィーが己の口に手を当てた。
フィンはゾフィーの手の中にある本をじっと見つめる。
ロスヴィータはネタバレだと言うけれど、ゾフィーの楽しそうな紹介を聞いていたら、その作り話に触れてみたくなった。
「オイラ、これ借りてみる」
「読み終わったら感想聞かせてよ。あたしねぇ、この主人公の友達君がカッコ良くて好きなんだぁ〜」
「だからネタバレ」
「あ」
ゾフィーとロスヴィータのやり取りに笑いながら、フィンは靴下の紙袋と本をギュッと抱きしめる。
今夜はこの温かい靴下をはいて、ハッピーエンドが約束された本を読むのだ。
(この本を読み終わったら、ユリウスに教えるんだ。ユリウスのおかげで、本を一冊読みきれたよ、って)
──ユリウスが反逆の罪で投獄されたと見習い達が知らされるのは、その翌日のことだった。




