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10 日だまりと揺れる心(1)

 心地よい風が吹き抜けて行く。

 ふと空を見上げると、雲一つない青空が広がっていた。こういう日を絶好の行楽日和と呼ぶらしく、巷の人間はうきうきと浮かれて、あちこち出歩くものらしい。


 だが、今、庭を歩いている少年……キルシュから見れば、天気が良かろうが悪かろうが、雨が降ろうが風が吹こうが、気象で気分が左右される人間の気持ちは、不可解だ。


(いまだに人間のことは、よく分からないな)


 そんなことを考えながら歩いていると、やがてバルコニーに差し掛かる。そこで、ある光景を視界に捉え、おや、と思い足を止めた。


(……セレス?)


 そこにはテーブルと椅子、そして観葉植物が置かれている。

 ちょっとした休憩場所を兼ねたその場所ではよく、セレスが、ノエルやレアと共にティータイムを過ごしていた。しかし、今日は珍しくセレス一人の姿しか見えない。


 その元第一王女は、白い丸テーブルの上に突っ伏して、うたた寝をしていた。彼女の頭の横にある伏せられた本から察するに、読書の最中にうとうとしてしまったのだろう。

 微かに背中が上下しているのは、安らかな呼吸の証拠である。良い夢でも見ているのだろうか。


(全く……)


 いくら日差しが暖かいからといって、屋外で眠ったら風邪を引くだろうと、キルシュは苦笑しつつ、手を伸ばした。同時に、何もない空間から外套が現れる。


 彼にとって魔術というものは、呼吸をする程にたやすく行える業だった。ただ一つだけ難があるとすれば、この世界でそれを自由自在に使いこなすためには「契約」を交わす必要があるということだ。


 キルシュは宙に浮いている外套を手に取ると、セレスの背後へと近付いた。特に足音を忍ばせるわけでも気配を消すわけでもなかったが、セレスは全く鈍感で、目を覚ます様子を見せない。


 昔からは考えられない程の無防備さだとキルシュは思う。出会った当初の彼女は、自分の部屋の寝室ですら、安眠を得られていなかった。


 キルシュは軽く目を伏せ、当時の出来事に思いを馳せる。







 人間は夜、眠る生き物だ。……キルシュ自身も精霊とはいえ、基本的な体の構造は人間とほぼ同じであるので、睡眠時間は必要なのだが、だからこそ、それが不思議でならなかった。


「君はどうして眠らないんだ? 人は、睡眠を取らないと死ぬ生き物だったと思うけど」


 そう問いかければ、セレスは困ったように瞳を揺らしながら、


「物音が気になるの」


と、そう答えた。

 聞けば以前から、就寝時間になると人が潜んでいるような物音があちらこちらから聞こえてきて、心が安まらなかったらしい。寝付きが悪く、また眠りも浅い毎日が続いていたということだ。


(嫌がらせだな……)


 恐らく王が、自分の手下に命じてかけさせた魔法の一環だろう。

 流石の国王も、王城で直接、自分の娘に手をかけることができないため、そういう精神にくる地味な嫌がらせを繰り返していたに違いない。


 物理的な害はないが、不眠は人の判断力を鈍らせるという。


 ならば、契約者の安眠を守るのも、自分の勤めだろう。そう考えたキルシュは、どうしたものかと思案する。

 敵を駆逐することも大事だが、それ以前の問題が一つある。その二つを同時に解決する方法はないものか。


 ……やがてキルシュの頭に一つ閃くものがあった。


(……)


 やや荒療治になることが気にならないこともないが、この状況では致し方ない。キルシュは腕を組みながら、それを提案した。


「じゃあ、今日から窓も扉も鍵を開けっ放しで寝たら?」

「え?」


 少女はきょとんと目を丸くする。

 想像だにしなかっただろう提案に、理解が追いついていないようだ。しかし、


「鍵をかけないで眠ってみたら?」


とキルシュがもう一度繰り返すと、ようやくその意味を飲み込めたらしく、ぎぎっと音が聞こえそうなぎごちない動きで首を巡らしながら、


「……本気?」


と強張った顔で尋ねてきた。


「本気」


 答えながらキルシュが頭の中でドアと窓を開くイメージを思い浮かべると、それと全く同じ動きで、現実の扉と窓が開いた。それを見たセレスは、キルシュの本気を悟って更に顔色を変えた。


(刺客をどうするのか、とか考えているんだろうな)


 出会って数日しか経っていないため、現時点で「全幅の信頼を寄せる」ことが難しいのは理解するが、それでも彼女の反応が、どうにも面白くないキルシュは、哀しげな目……もちろん演技である……で尋ねた。


「君は、僕の力を信用していないの?」

「……っ、そんなことない!」


 弾かれたように否定するセレスに、我が意を得たキルシュは、


「だったら、できるよね」


と言ってにこり、と笑ってみせる。


 つまらないことには、出会った当初はこうして笑ってみせると少し頬を赤くしていた彼女は、四日目になった今ではすっかり慣れてしまったのか、平然として顔色一つ変えない。それどころか、


「すっごい荒療治すぎると思う」


と異議を唱えてくる始末だ。


 しかしキルシュは、そんなセレスの抗議を黙殺し、その夜、粛々と己の提案を実行したのだった。


 最初の数日間は、ベッドに横たわっても外の様子が気になるのか、そわそわしていたセレスだったが、やがて「鍵があろうがなかろうが、この部屋を襲撃できる人間はいない」ことを悟ると、穏やかで安らかな睡眠を得られるようになったようだ。


 なお、セレスが危惧していたように刺客は確かに彼女の隙を狙っていた。

 しかし、あらかじめキルシュが空間を歪ませていたせいで、彼らは同じ場所をぐるぐる回ったあげく、疲れ果てて眠ったところ、現実と混同するほどのリアルな悪夢を見せられ、やがて戦意を喪失したことを付け加えておこう。







 あの頃と違って、安心しきっている背中を見つめ、キルシュは静かに外套をその肩にかけた。


 とその時。


(……)


 キルシュは眉をひそめた。

 この上なく嫌な気配が、こちらに近付いてきているのを察したからである。

 視線を上げ、そちらを見やると、いかつい監視役に両脇を固められて移動中の前国王の姿があった。

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