6 帰ってきた少年
本日、午後一時半ちょうど。
その時間から、何やらシュトーレン国全体の空気が酷く淀んでいる、などということに、セレスは決して気がついていないのだ。
だから当然、その淀みの正体が、魔力の奔流だということにも気づかないし、城の硝子窓が微かにびりびり震えているのも、風のせいだろうし、とにかく何も異変などない。
というわけで。
(うん、今日も普通の日だわ)
何も困ったこともなく、何も恐れるものもなく、何も心配することなどないので、全く別のことに思いを馳せることにする。
その内容は、ノエルと「結婚」についての論議を交わしたが、ものの見事に決裂した、例の件だ。
(絶対横暴だわ。何様よ、あいつは!)
と腹立ち紛れに罵ってみるものの、すぐに自分の言葉が理屈に適っていないことを知る。クーデターを成功させた彼は紛れもなく、それだけの権力を持つ「何様」なのだ。
(って、王様なのよね)
ちなみに、今更の蛇足だが。
ノエルは実のところ、王という呼称を嫌っている。ゆえに大統領だの首相だの首席だの、新たな地位に相応しい呼称を模索している最中であり、日々片腕のブランと共にああでもないこうでもないと頭を捻っているらしい。
が。
ノエルがどれ程、その呼称にこだわりを持とうが、正直な話セレスにとっては全くどうでも良いことなのだ。セレスに必要なものは、彼の現在の地位を一言で端的に表現できる称号であり、それは取り合えず「王」という呼び方に他ならない。
要するに。
面倒臭いから、取りあえず正式発表があるまでは、ノエルに対しては「王」という敬称を使用しよう、ということを言いたいわけだ。
さて、話は元に戻るが。
(でも、じゃあ私って、やることなすこと、ノエルにお伺い立てなきゃいけないわけ? そんな馬鹿な話って……)
ない、と思ったとしても、そこは権力というものの不条理。セレスがノエルの召使いである限り、そして彼がこの国の王である限り、その命は絶対だ。
はあ、とセレスはため息を零す。
「絶対に嫌がらせだわ」
独白を漏らし、思う。ノエルが「自分が結婚していないからお前の結婚は許さない」だのというそんなアホな事を告げる相手は、恐らくセレス限定だ。
だからこそ、不思議でならない。
ノエルはセレスの父親とは違って、決して馬鹿ではないのだから、必要以上に横暴な行動を取ることなどないはずだ。少なくとも、城内の評判は悪くない。
(何か私、恨みでも買うようなこと、したかしら……?)
記憶を探るが、自分にはそういう覚えがない。繰り返すが、「自分には」だ。
「……」
思い当たる節が一瞬、頭に浮かんできそうになったが、セレスは無理矢理それを振り払った。
そうしてまた、別のことを考えようとしたその時、ばたん、とドアが開き、
「……セレスお姉さま」
という聞き慣れた声が聞こえた。末の妹レアである。
セレスら元王家の人間は、一応軟禁という状態である。王宮内の移動は許されているが、それには一々許可が必要で、それがなければ部屋を出ることすらままならない。
それにもかかわらずレアがいとも簡単にあちこちに移動できるのは、彼女が優秀な魔術師であるがゆえである。
むろん、どこかの誰かほどではないが。
相変わらず、適当に監視の目を盗んできたらしいレアに、セレスは少々呆れつつも歓迎する。テーブルへと招き寄せ、椅子に座るよう促し、菓子を勧める。甘いものに目がないレアは、こくんと頷いて遠慮せずに三つ程砂糖菓子を口の中に放り込んだ後、改めて用件を切り出した。
「お姉さま……気付いてる?」
それは、今セレスが最も尋ねられたくない質問である。そのため、おとなげなくしらばくれる。
「何を?」
私は何も知らない、気付いていない、ゆえに我関せず。
そんな言葉を呪文のように頭の中で唱えることによって平常心を保とうと試みるが、レアは子供特有の容赦のなさで、姉に対して現実を突きつけてきた。
「キルシュ……帰ってきてる」
(……ですよねー)
それは避けることのできない「わざわい」である。
どうせ避けられないのなら、前もってその災禍が訪れる事を知ってしまい、その日までやきもきしたり恐怖を抱いたり焦ったりして過ごすより、それを知らずに心穏やかに暮らす方が、精神的には何十倍もましであるから、極力考えないようにしていたセレスである。
禍いの訪れをあらかじめ知っていた方が良い時というのは、その対処法がある時に限るのだ。
そんな、大層後ろ向きな持論を持つセレスにとって、今この状況でキルシュが戻ってくるということは、逃れられない禍いがやって来るに等しい気分であったのだ。
「その言葉、私の前では禁句」
「お姉さま」
断固拒否の姿勢を崩さないセレスに、しかしレアはいつになく食い下がってきた。
それもそうだろう。ここでキルシュが暴れて城内がとんでもないことになったなら、もちろんレアも例外なく被害を被るわけであり、それを事前に食い止めたいと思うのは、当然の心境である。
「見ないふりしても、来るものは、来る」
我が妹ながら辛辣だ、とセレスは思った後、ふと考え直した。他ならぬ自分の妹だからこそ、辛辣なのかもしれないと。
「……そうね。現実逃避は発展的ではないわね」
ふっと乾いた笑みを浮かべる。
認めたくはないが、認めざるを得ない。彼は、帰ってきているのだ。刻一刻と、この城に近づいてきている。はた迷惑な程の魔力をまき散らしながら。
「帰ってこなくて……いいのに」
レアがぼそりと呟いたのを聞いて、セレスは思う。
確かにキルシュが帰ってこない方が、この城は平和であろう、と。
しかし彼はセレスの強力な剣であり盾である。第一王女という身分であったかつて、その地位ゆえに命を狙われることも頻繁で、自分の身を護るために彼という存在が必要不可欠だったのだ。
今は王位という地位を失い、現在の権力者であるノエルがセレス達を保護している以上、自分を執拗に付け狙う者は少なくはなったが、それでもゼロとは言い切れない。まだ様子を見なければならない状況なのだ。
セレスは無意識に左手首を右手で撫でながら、
「いや、帰ってきてくれないと困るけど……どうしてこのタイミングで……」
とぼやきつつも、実のところ彼にしては行動が鈍い、とも感じていた。
ある意味セレスの従者とも呼べる存在であるくせに、ちっとも言うことを聞かないキルシュは、しかしセレスの生命の危機に際しては労を惜しまない……というか、もっと労を惜しんでくれても良いのに、とセレスをして冷や汗を一筋流させる程の暴れぶりを見せるのだ。
セレスは嘆息を漏らす。そんなセレスを見て、レアが畳みかけた。
「今、帰ってこなくて、いつ帰ってくるの」
ここで帰ってこなかったら、態度が大きいだけの、単なる役立たず。とレアに続けられ、全くもってそのとおりだとセレスはこっそり思った。
……当然ながら、本人を目の前にして言えることではないけれど。




