5 結婚に対する見解の相違がありまして(2)
研究院は、広い敷地を有している。まず門をくぐったところにあるのは、魔術の花形である呪文学や精霊学の研究室である。
それを通り越すと、一般的な学問の研究室が林立している。ここもまだ人の出入りが盛んだ。
だがセレスはそれらを無視し、更に足を進める。そうすると背の高い雑草が鬱蒼と茂った不自然な場所に差し掛かる。目を凝らすとそこには古びた渡り廊下があり、セレスは慣れた動作でそちらへ移動する。
その先に、セレスの目的の場所があった。
他の研究室に比べて、何とも粗末な、まるであばら屋のような離れの研究室。それが今は廃れた結界学の研究室であった。その立て付けの悪い扉を、
「元王女ですが、入ります」
と自虐的な軽口を叩きながら、くぐる。
……案の定、結界学研究室は、いつもどおりであった。
クーデターが起ころうが、王の首がすげ替えられようが、研究者にとってはどうでも良いことなのだろう。彼らにとって重要なことは、その為政者が研究をできる環境を整えてくれることであり、その要求さえ満たされれば、誰が権力を握ろうと全く問題ないわけだ。
その証拠に、セレスの訪れに気付いた若い研究員は気安く手を挙げると、
「良かったじゃない。堅苦しい王女の肩書きを返還できて」
と、他の人間が聞けば「何と不遜な」と目の色を変えたり卒倒しそうな内容を平気で口にする。
そもそも学者という人種には、変わり者が多い。その中でも、この結界学の研究者は、シンメトリーの美が云々、黄金律の完全性が云々といった内容を、延々丸一日語っていられるような群れである。研究者の中でも特に変わり種と言えよう。
そして、常識に囚われないから、王女であるセレスに対しても、あまり気兼ねがない。その雰囲気が、セレスは昔から気に入っていたのである。
……といっても、どの研究室も居心地が良いわけではなく、たとえば花形である呪文学にはノエルが、精霊学にはカトルカールが所属しているため、その周辺の敷地には、なるべく立ち寄らないようにしていた。
それはともかくとして。
「これで心おきなく研究に没頭できるわね。貴方の成績なら、教授になることだって夢じゃないわよ」
王位継承権と教授の地位。しかも教授といえども結界学のそれだ。一般的な感覚では、秤にかけるのもおこがましいほど月とすっぽん、比べようのない地位だ。
が、彼らはそれらを平気で天秤にかけ、あまつさえ教授の地位の方が魅力的だとのたまう。そんな一風変わった価値観の持ち主が集うこの場所が、
(居心地いいのよね。本当に)
というわけで、ついついいつもの調子で長居をしてしまうセレスであった。
☆
「……」
研究室という聖域で英気を養い、心和やかな状態で自室へ戻ったセレスはしかし、扉を開けた瞬間に硬直し、言葉を失った。
まだ慣れない新しい部屋。しかし必要な調度品……といっても主に書籍だが……については以前の部屋からそのまま引き継いだため、露骨な違和感はないはずだ。
だが今、まさにそこに違和感の塊があった。
「遅い」
その違和感の主は、セレスの私室のソファで、セレス所蔵の本を勝手に紐解き眺めていたようだが、部屋の主が帰還すると同時に顔を上げ、そう言った。まさに勝手知ったる人の家、といったところだ。
セレスはこめかみを軽く押さえながら呆れ声で、
「どうして貴方、私の部屋でくつろいでいるのよ……」
と苦情を述べつつ部屋に入り、ノエルの様子を窺った。ソファでくつろいでいる彼は、いつもよりまとう空気が柔らかいように思える。
(何だかよく分らないけど、機嫌が良さそうね)
しかし何故彼の機嫌が良いのか、その理由に思い当たる節もない。
しばし考える。やがて、
(まさか、私が隣室に越してきたことが嬉しいとか)
という仮定を思い浮かべた直後、ものの一秒で「そんな馬鹿な」とさっくり打ち消した。脳内で考えただけの冗談にしても、これほど面白くない話はないだろう。
セレスはそんな薄ら寒い気分を変えるために、軽く頭を振る。
(いや、そんな有り得ないことを考えるより、時間はもっと有意義に使わなくては)
そう思い直し、先ほどのたわけた考えを、綺麗さっぱり頭の外へと追い出した。そして、この状況を「彼とゆっくり話せる良い機会」だと前向きに捉えることとする。
「……ノエル」
おもむろに切り出す。相手も機嫌が良いためか、
「うん?」
と相槌を打つその態度は鷹揚だ。そんな相手の様子に勇気を得て、
「ここで働くに当たって、一つ私の考えを聞いてほしいと思うの」
と前置きした後、セレスは「それ」を口にした。
「私、結婚したいんだけど」
その台詞に目的語はない。しかし一つだけ明らかなことはある。この流れなら、目的語はノエル以外である、ということである。
「……」
あまりに突然な話題に、ノエルは多少面食らった様子だった。ついこの間カトルカールに婚約破棄されたばかりセレスの口から結婚の話が飛び出すなど、恐らく、想像だにしていなかったことだろう。
しかし、そこは流石、クーデターを成功させた強者である。すぐさま頭を切り換えたらしく、逆に尋ね返してきた。
「……結婚を考えるような奴がいるのか」
セレスは答えない。いや、正確に表現するなら「答えようがない」のである。
その沈黙を一体ノエルはどう取ったのだろう。彼は更に重ねて問いつめてきた。
「……誰だ」
「……」
一方、よもやノエルがこれほど食い下がって結婚相手を暴こうとするとは思ってもいなかったセレスは、今切り出すべき話題ではなかったと後悔する。
まさか、めぼしい相手もいないのに結婚の話を繰り出す人間がいるとは、流石のノエルも考えが及ばないのだろう。
また、セレスとて、相手もいないのに馬鹿なことを言っているという自覚くらいはあるので、そっぽを向いて見栄を張る。
「それはプライベートなことだから、言えない」
それはセレスなりの精一杯の虚勢であった。正直なところ、ばればれかと思いきや、相手はそれなりに本気と取ったようである。
すっとノエルの目が据わった。
「お前は誰の侍女だ?」
セレスに相手の名前を吐かせることは無理だと判断したらしいノエルは、斜め45度くらいに角度を変えて攻めてきた。
そんな言わずもがなのことを何故今更問うのか、とセレスは不審に思いながらも、現状を述べる。
「……貴方の……だけど……」
すると、彼はセレスの回答に対し横柄に頷きながら、続けた。
「主である俺がまだ結婚していないのに、この俺を差し置いてお前が先に結婚する? そんな馬鹿な話があるか」
それは一体どういう暴論か。彼の言葉に従えば、王宮で働く独身者は、ノエルが結婚するまで結婚することができないと、そういう横暴な状況になってしまうではないか。
「……はい?」
アナタの言っている言葉の意味がさっぱり分かりません。そんなジェスチャーをしつつ問い返すセレスに対して、ノエルはあくまで頑なだった。
「却下だ却下。今の話は聞かなかったことにしてやるから、お前も二度とその話題は口にするな」
と。
(いや、別に聞かなかったことにしてくれなくていいけど……)
というよりむしろ、主となった彼にこそ、自分が結婚願望を持っていることを理解しておいてほしいところだ。だが、そんなセレスのささやかな願望を、ノエルは完膚無きまでに打ち砕く。
「ちょっと待って」
そう言って、なんとか相手を説得しようと試みるセレスを遮り、ノエルはソファから立ち上がった。読んでいた本を机に置く動作が、心なしか荒っぽい。そして、
「俺は寝る。邪魔したな」
とそう短く退室の言葉を告げ、彼は大股に部屋を出て行ったのである。
そうして。
部屋に一人残されたセレスは、突然気分を害したらしいノエルの背中を、なす術もなく呆然と見送るしかなかったのであった。




