6.革命篇(後)
タイタスに下す鉄槌として、マティアスはとっておきの切り札を持っていた。
それはあまりにも荒唐無稽な話であり、最初は取り合おうともしなかったマティアスだったが、エイナルの表情があまりにも真剣だったので、まあ心の片隅にでも留めておいて損はなかろうと思い直したのだ。
「丁度いい、あなたがいらっしゃるならあなたに訊こう」
マティアスは眼鏡の縁をくいと押し上げ、シスター・マデリーンを見た。
「あなたは嘘を吐かないと聞いている」
「はい。私は嘘を吐きません」
マティアスは満足げに頷いた。他の有象無象はいざ知らず、彼女ならば、よもやタイタスを庇って嘘など吐くまい。
「では、問おう。西ストランド王国第三王子、タイタス・アルカディウスが事もあろうに猫へと姿を変え、ペハヴィーン女子修道院に潜んでいたというのは本当か!」
――え?
何を問うのかと固唾を飲んで見守っていたマリポルト紳士たちは皆、己の耳を疑い、顔を見合わせた。
――い、今……?
――もしや、貴殿にもそう聞こえたか……?
紳士たちが騒めく中、マティアスは至極真面目な顔つきでシスター・マデリーンの返答を待っている。
シスター・マデリーンは困惑したように目を伏せ、しばらく答えようとしなかった。
さもあろう……とマティアスは頷く。
愚かな民衆と袂を分かち、一人真実の代弁者となる彼女の重圧はいかばかりか。
「シスター・マデリーン、真実を口にすることは恐ろしいかもしれないが、高潔なあなたならきっと答えてくれると信じている」
シスター・マデリーンが意を決したように小さく頷く。
勝利を確信したマティアスは、こみ上げる笑いを噛み殺しながら尋ねた。
「タイタス・アルカディウスは猫に姿を変え、女子修道院に潜んでいた――そうですね?」
「いいえ」
「聞いたか! 皆の者――え?」
マティアスは呆気に取られたようにシスター・マデリーンを見た。
――いいえだと?
「シスター・マデリーン、あなたは嘘を――」
「吐きません」
「ですよね?」
シスター・マデリーンは嘘を吐かない。それは確かなことである。ならば彼女が「いいえ」と言うからには、タイタスは猫になったりはせず、女子修道院にも潜んでいなかったということになるのか。
マティアスは彼の目の前にいる、小柄で人好きのする老婆を穴が開くほど見つめた。
「馬鹿な。何故――」
老婆は困ったように目を伏せるばかりだった。
あまり知られていないことだが、ペハヴィーン女子修道院にはシスター・マデリーンが二人いた。
一人は決して嘘を吐かない高潔なシスター・マデリーン、もう一人は酒好きでややお調子者の、気のいい老シスター・マデリーンである。
ちゃんとした方のシスター・マデリーンは今回、ペハヴィーンに居残っていた。修道院長まで出ていく旅となれば、しっかりとした留守番が必要である。
もしこの場にエイナルがいれば、マデリーン違いだということを即座に指摘しただろうが、残念ながら彼はいなかった。
――マティアス殿下は何か悪いものでも食べたのだろうか……。
――人が猫になどなるはずがなかろう。わざわざシスター・マデリーンに訊かずとも、子供でも分かることだろうに。
――だよね。シスター・マデリーンの無駄遣いだよね。
紳士たちのひそひそ声と、彼らのひそひそ声に同調する赤毛の少年の声が嫌でも耳に入り、王は頭を抱える。
「シスター・マデリーン……もしかして、お耳が少し遠いのかな? 私の言葉をよく聞いて、正しく回答してください。タイタス・アルカディウスは――」
「タイタス・アルカディウス! 密入国は重罪なれど、酌量の余地あり。ただちにマリポルトを去れ。しからば本件は不問に付す!」
これ以上恥をかく訳にはいかない王が、マティアスの言葉を強引に遮って言い渡す。グウェンドリンの頬に赤みが差し、ペハヴィーン住民たちがわっと歓声を上げる。その声に呼応するかのように、広間の外が騒めく気配があった。
「マリポルト王の英断に深く感謝を」
タイタスが優雅に一揖する。マリポルトにしては異例のスピード判決であった。最大の功労者はマティアスである。
無罪放免を勝ち取ったタイタスにグウェンドリンが駆け寄る。伸ばした指先が絡み合い、引き寄せられてグウェンドリンはタイタスの腕の中に閉じ込められる。
「殿下、タイタス殿下」
「愛しいあなたに、心配をかけた」
恋人たちは最早互いしか見えず、周囲に多くの人の目があることも忘れ、広間の真ん中でしっかりと抱き合った。
やがて、タイタスは名残惜しげに体を離し、グウェンドリンの顔を覗き込んだ。
「グウェンドリン――必ず、迎えにきます」
「殿下……?」
一緒に行くのだとばかり思っていたグウェンドリンは驚いて目を瞬かせた。
「その時まで、どうか健やかに」
「嫌です、私も一緒に」
何故急にそんなことを言い出すのか。グウェンドリンとホイッ――タイタスは、ずっと一緒だと誓った仲ではなかったのか。
彼女を見つめるタイタスの瞳には、静かな決意が宿っていた。
瑕疵なく無罪放免、グウェンドリンとは愛の絆が結ばれ、彼女がマティアスの手に落ちる心配も最早ない。そしてグウェンドリンを無理にハンブルに連れていくよりも、母国に残して父君の庇護下に置いていた方が安全である。ならば、タイタスがすべきことはひとつだった。
「殿下ッ……!」
それは男の身勝手なのだと、いつだって男は自覚しない。
「嫌です! 約束したではありませんか! 私たちはずっと――」
「グウェンドリン。心はいつも、あなたのそばに」
タイタスはそう囁き、流れるようにグウェンドリンの唇を塞ぐ。
今にも泣き出しそうになっていたグウェンドリンが驚いて涙を止めた。
うっとりと目を閉じている彼に倣い、グウェンドリンもおずおずと目を閉じる。
タイタスはグウェンドリンに口づけたまま、ゆっくりとサファイアブルーの目を開き、威嚇するような視線を周囲に走らせた。
彼の無言の警告を受け、周囲にいた若い男たちがびくりと身を震わせる。
やがて、タイタスはそっと唇を離し、開け放たれた広い窓に向かって駆けていった。
周囲が止める暇もなく、窓から身を躍らせる。
「タイタス王子⁉」
「馬鹿な。無罪放免となったのだから、普通に扉から出ていけばいいだろう!」
幾人かが慌てて窓から下を覗き込むが、既にタイタスの姿はどこにもなく、残像のように揺れる優美な黒い尾が見えただけである。
「殿下……殿下……ッ!」
残されたグウェンドリンはその場にくずおれ、声を上げて泣いていた。
かつて彼女の婚約者であった王太子、アレクサンダーを始め、その場にいる者たちは皆、泣き崩れるグウェンドリンを呆然と見つめていた。
誰に想像出来ただろうか――。
いついかなる時も決して表情を崩さないグウェンドリンの中に、これほど激しい感情がある、と。
ルッツ侯爵が歩み寄り、娘を抱きしめた。
――おい、中はどうなってんだ。
――女の人が泣いている声がするよ! グウェンドリン様の声のような気がする。
――ってことは……信じられねえな、最悪だ!
グウェンドリンの嗚咽だけが響く、静かな室内とは対照的に、広間の外は再び騒がしくなった。遂にはバンバンと乱暴に扉が叩かれる音までし始める。
王がうんざりと侍従に尋ねた。
「まだ入りきらなかった住民が外にいるのか」
「あれは王都の民でございます」
「――え?」
王や貴族たちは知らなかったが、鼻息も荒く王城へ向かうペハヴィーンの一行に感化され、今回の件では王都の民たちも立ち上がっていた。
グウェンドリンは王都にいた頃、孤児院や病院への慰問を欠かすことがなかった。白薔薇のような清楚な外見と相まって、民衆からすれば会いにきてくれる女神のような存在である。そんな彼女がいわれのない罪で僻地へと追いやられたように見えたことから、王都の民は元々グウェンドリンにいたく同情的だった。
追放先で彼女は果敢に魔獣と戦い、彼女を庇って負傷した男と恋に落ちた。だが、その男は無情にも罪人として引っ立てられた。彼が本当に悪人で、身分を隠してよからぬことを企んでいたというのなら、ペハヴィーンの民や彼女を庇って魔獣の爪をその身に受けることなどあるだろうか――?
涙なしには聞くことの出来ない話を聞かされて、彼らは最早黙っていられなかった。
「こんな理不尽な話があるか!」
「そこにいらっしゃるのは、あんたの息子が捨てたグウェンドリン様を命懸けでお救いになった方だろう!」
「そうだそうだ!」
「ペハヴィーンには飢えた者がいないっていうじゃないか! 自然の厳しいペハヴィーンに出来ることが、何で王都には出来ないのさ!」
「パンを寄越せ! 生活を守れ!」
「そうだそうだ!」
最初は確かに義憤であったが、白熱し始めた王都の声は次第に別の色合いを帯びてきた。
先の見えない不安定な暮らし。増えるばかりの負担。
かつて「沈まぬ太陽」と呼ばれ、経済大国として名を馳せたマリポルトであったが、長引く不況で経済は低迷、「失われた百年」と呼ばれる長期的な衰退から抜け出せずにいた。
ぶ厚かった中間層はどんどん下へと落ちていき、国全体がはっきりと貧しくなっているにもかかわらず、貴族たちの意識は何ら変わることなく、彼ら特権階級の生活水準だけは何があっても決して下がらない。
民の鬱憤は澱のように溜まり続け、貴族らの知らぬところで、ずっと噴き出すきっかけを待っていた。
「何で……ペハヴィーンの子はあんなにほっぺがふっくらしてんだよ!」
赤毛の少年が面映ゆそうに笑う。
瘦せこけた辺境の地に住まう田舎者とばかり思っていた、ペハヴィーン住民たちの意外な色つやの良さを目の当たりにした衝撃も大きかった。
「もうお前らには任せておけねえ!」
「マリポルトはマリポルト市民のもの!」
「無能は引け! 国民議会の招集だ!」
「開けろ! 開けろ! 開けろ! 開けろ!」
一番最初のパンのばらまきは、確かに嬉しかった。だが、これで民衆の支持を呆気なく得た貴族たちは、間違った教訓を得てしまった。以降、ばらまきは二度三度と安易に行われ、先に冷めたのは民衆たちの方だった。ばらまかれるパンの財源など、元はといえば搾り取られた血税である。
ばらまき対象者が子供のいる家庭のみとされたことも問題だった。困窮度合いは子供の有無のみで決まるものではない。むしろ独り身のまま老いていく者の方が深刻だった。不況の中、王都の未婚率は上がり、貴族たちの言う「標準的な家庭」からはみ出た者たちの数は、彼らの認識よりよほど多かった。それなのに、彼らの困窮、否、存在自体が貴族たちによってないもののようにされたのだ。
外からの「開けろ、開けろ」の大合唱に揺さぶられながら、王も大多数の貴族たちも、未だそのことを理解していなかった。
「開けろ! 開けろ! 開けろ! 開けろ!」
「扉を開けなさい」
マザー・セシリアが国王の署名と印璽が入った「いつでも謁見出来る券」を振りかざす。
従う必要などまったくなかったのだが、内側で扉を守っていた兵士たちは勢いに呑まれて従った。
扉が左右に大きく開かれ、民衆がどっとなだれ込んでくる。
先に入っていたペハヴィーン住民たちが両腕を広げて彼らを迎え入れ、両者は兄弟のように抱き合った。
「マリポルト万歳! 国民議会万歳!」
「初代議長はマザー・セシリアに!」
「いえ、私は神に仕える身ですから。我が領主、ソロモン・ルッツ閣下なんかお薦めです」
「そりゃあいい! グウェンドリン様のお父君にして、ペハヴィーンをしっかり治めておられる方だ!」
「ルッツ! ルッツ! ルッツ! ルッツ!」
突然名指しされたルッツ侯爵は、冷静そのものといった、普段通りの無表情を民衆に向けた。
父の腕の中にいるグウェンドリンは、伝わってくる心音から父がものすごく狼狽えていることに気づく。
「皆、ここは一回、冷静に……」
「ルッツ! ルッツ! ルッツ! ルッツ!」
広間の熱狂が最高潮に達したその時、三日は寝ていないと思われる、血の気のない顔をした文官が獣のような雄叫びを上げてルッツ侯爵に駆け寄ってきた。
彼は驚く侯爵の前でさっと跪いた。
「ルッツ侯爵。私は二年前の水害発生時、現場にて直接指揮していただいた者でございます。憶えておいででしょうか」
「ダントンか。勿論だ。あの時はよくやってくれた。君がいなければ二次災害はもっと広がっていただろう」
「勿体ないお言葉でございます。あの時ご一緒させていただいてから、閣下のことをずっと尊敬しておりました。災害対策への深い理解、妥協を許さない姿勢、その一方で、昼夜を問わず働く我々のことを、まるで父のように気遣ってくださった。貴族にもこんな人がいるのかと感激したのがつい昨日のことのようです」
ダントンが深々と首を垂れた。
「いつの日か再び、閣下の下で働きたいと、この二年間ずっと思っておりました。――ご決断を!」
彼の一声で他の文官たちが一斉にどよめく。今まで気配を消していただけで、この場には決して少なくない数の文官たちが同席していた。
「あの忍耐強いダントン先輩が、遂にやつらを見限ったぞ!」
「皆、続け! 先輩を一人にするな!」
年若い文官たちを中心に、我も我もとダントンに倣ってルッツ侯爵の前に跪く。
王都の民とペハヴィーン住民たちがその周囲で足を踏み鳴らし、「ルッツ、ルッツ!」の大合唱が再び始まる。貴族たちの一部も泣きながら唱和し始める。
王は驚いて侍従に尋ねた。
「暴動か」
「いえ陛下、革命にございます」
屈強な男たちに取り囲まれた国王一家が王冠を被った浮浪児に先導され、どことも知れぬ城の一室に連行されていった後、ルッツ侯爵が愛娘に尋ねた。
「落ち着いたか」
「はい……」
侯爵はグウェンドリンの肩にぽんと手を置いた。
「グウェンドリン……。私が言ったことを憶えているか」
グウェンドリンは訝しげに父を見上げた。叱責されるものとばかり思っていたから、父侯爵が何故、こんなにも優しい目で彼女を見ているのか理由が分からない。
「ペハヴィーンでもハンブルでもどこでもいいから、好きなところへ行って、しばらく羽を伸ばしてくるといい、と」
「お父様――」
周囲に集まっていた者たちから、即座に抗議の声が上がった。
「閣下、優秀なお嬢様には、これから閣下のそばで是非とも補佐をいただきたく……」
「十代の娘に補佐をさせねばならぬほど、この国には人材がいないのかッ!」
ルッツ侯爵の一喝で、皆がはっと表情を改めた。
「行け」
一喝した勢いのまま、ルッツ侯爵が無表情で言い放つ。
「アーサー・ハンブルに伝えよ。魔獣の肉は何をやっても食えぬ、もう諦めろ、と」
ふわりと花がほころぶように、グウェンドリンが笑った。
「しかと、承りました」
グウェンドリンは残していく父に美しい淑女の礼をとり、飛び立つ小鳥のように身を翻す。
彼女を閉じ込める鳥籠は今や完全に開け放たれ、彼女はどこへでも、好きなところへ飛んでゆける。
その羽の許す限り――。
ルッツ侯爵が目を細め、躍動するその後ろ姿を見送った。
「……よろしかったのですか」
ダントンが控えめに尋ねた。娘を手放す父の心情をこんな若造に慮られるとは思わず、ルッツ侯爵は参ったと言うように苦笑した。
「……民心とは気まぐれなもの。やがて潮目が変わった時、あの子をそばに置いていたことで、世襲の布石と見なされる方が危うい。いつか揺り戻しが来たとして、その時、首を差し出すのは私だけでいい」
「そんなことはさせません」
ダントンの声は静かな覚悟に満ちていた。
この日、一人の死者も出さず王城は無血開城し、王国は共和国となり、国民議会の初代議長にはソロモン・ルッツが選出された。
彼は過激な方向に向かいがちな国民議会を粘り強くまとめ上げ、共和国の礎を築いた最大の功労者として、歴史に名を刻むことになる。