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4.駆落篇(後)

「未だ、夢のようです……あなたがこうして来てくれていることが」


 仄かな灯りの中で、ぽつりとタイタスが呟いた。


「あなたと話す機会があれば、何と言おうかずっと考えていました。俺がどれほどあなたのことを思っているか、どれほど一緒に来てほしいと思っているか。でも、いざその時が来てみれば、頭の中は一瞬で真っ白になってしまって……」


 暗がりでは活動が活発になるのか、それともようやく人の言葉で愛する女性に語り掛ける機会を得たからなのか、タイタスは饒舌だった。


「グウェンドリン、この胸の喜びを、どう言えば伝わるでしょうか」


 タイタスがグウェンドリンの手をぎゅっと握り込む。


「言いたかったことの十分の一も言えず、駄目だ、こんなの断られるに決まっているという絶望からの、まさかの『勿論です(にゃあ!)』でした」

「あ、あ、あれは、衝動で……」


 グウェンドリンは思わず手を引き抜こうとするが、タイタスは離さない。グウェンドリンは困ったように目を伏せた。


「後先も考えず、つい自分の気持ちに従ってしまったのです」

「……」


 薄闇の中、それまで危なげない足取りで歩いていたタイタスが急にふらりと体勢を崩した。


「殿下! 大丈夫ですか? 足元が……?」

「何でもありません」


 タイタスは一分の隙もない完璧な笑みを浮かべる。


 ――危ない……。グウェンドリンは無自覚にさらっとこういうことを言うから……。


 ――危ない……。今うっかり「ホイップ、大丈夫?」って言いそうになったわ……。


 どちらも表面上は平静を装っていたが、心臓は早鐘を打っていた。


 二人はそのまま静かになり、薄暗がりの中をしばらく黙々と歩く。


 ややあって、タイタスが尋ねた。


「グウェンドリン、ずっと歩き通しですが、大丈夫ですか」

「大丈夫です」


 グウェンドリンは思わず笑ってしまった。


 ペハヴィーンの地で、村の端から端まで訪問したり、畑仕事に精を出す日々を送っていた彼女のそばに、ずっと寄り添っていたのは誰なのか。小一時間程度歩くくらいのこと、何でもないと知っているくせに。


 問題は距離ではなかった。


 グウェンドリンが歩くと決めた道のりだった。


「あの時、父からはペハヴィーンでもどこでもいいから、好きなところへ行って、しばらく羽を伸ばしてきていいと言われましたが……」


 グウェンドリンは柔らかく笑って、タイタスの手を握り返した。


「まさか国境を越えるとまでは、父も想定していなかったと思います」


 父は今のグウェンドリンを見て、一体何と言うだろう。


 怒るだろうか。呆れるだろうか。


 だが、グウェンドリンはたとえ誰に何を言われようと、一度取った彼の手をもう二度と離さないと決めていた。


 ――不思議ね、何故だか分からないけれど、あなたと一緒ならどこに行っても大丈夫という気がするの。


 この腕の中に落ちてきた時から、心はきっと知っていたのだ。


 彼は紛れもなくグウェンドリンの運命だということを。


 タイタスもまた、グウェンドリンの手を包み込むように握り返した。


「ハンブルの城に到着したら、お父上に宛てて手紙を書きましょう。――あなたと、俺の名で」


 タイタスの名で書かれる手紙。それは、彼がグウェンドリンとのことを曖昧なままにしておく気はないという、はっきりとした意思表示だった。


「これからのことですが……俺の方でも、あなたのことを周囲に説明しないといけないのですが」


 勿論そうだろう。周囲の説得については、タイタスの方がグウェンドリンよりも余程大変に違いない。今この瞬間のことだけならば、彼はただの男で、グウェンドリンの愛しい恋人。だが、外の世界に出た瞬間、彼は西ストランド第三王子の身分をまとう。


 薄闇でタイタスがふっと笑った。


「あなたのことが好きで、片時も離れていたくなかったから連れて帰ったと正直に言います」

「えっ⁉」

「本当のことですから」

「そ、そ、そんな、あなたのご身分で、そんな、軽っ、か……」

「確かに、少しは誰かが騒ぐかもしれないけど」


 タイタスは物憂く首を傾げた後、「その程度のこと、何の妨げにもなりません」と言い切った。


「グウェンドリン、あなたは知らないと思いますが、あなたは実は西ストランドの宮廷でも大層評判が高いんです。名将、ソロモン・ルッツの愛娘は、冷静で、落ち着きがあって、いかなる時も感情を乱さない、と」


 タイタスはグウェンドリンに顔を寄せ、「本当のところはそうでもないと、俺だけは知っていますが」と悪戯っぽく囁く。


「そういう訳で、両親もアーサー小父おじも、俺があなたを連れ帰ったと知れば、よくやったと俺を褒めるでしょう」


 ね? とにこやかに微笑まれ、グウェンドリンは声も出なかった。


「グウェンドリン……?」


 落ち着きがある、と言えば聞こえがいいが、本来は内向的で引っ込み思案なグウェンドリンには、あけすけで悪びれない西ストランド流は少々刺激が強過ぎた。


 前方にはそろそろ出口と思しき白い点が見えている。だが、二人の優しい暗がりがこの先もまだまだ続くと思っているかのように、タイタスの甘い囁きは止まるところを知らなかった。


「愛するグウェンドリン、俺は勿論、そんなことであなたを好きになった訳ではありませんが……せっかくだから、あなたの評判を利用させてもらってもいいでしょう?」

「……」


 タイタスの手につながれていたグウェンドリンの手から、ふっと力が抜けた。タイタスは片手にランタンを持ったまま、慌てて彼女からもう片方の手を離し、彼女の腰を支えた。


「すみません。やはり男の歩く速度についてくるのは大変でしたよね。少し休憩を――」

「いいえ、出口はもうすぐそこです。さあ急ぎましょう、さあ」

「グウェンドリン、無理は――」

「違うんです! ……これは、殿下が、私のことを、す、す、好きだとか、あっ愛するとか、言うから……」


 グウェンドリンは真っ赤になって声を振り絞った。


「私は、そういうことに、慣れていなくて」

「……」


 グウェンドリンの潤んだ目を正視出来ず、タイタスがさっと目を逸らした。


「……失礼しました。俺は毎晩のようにあなたから甘い言葉をもらっていたから、ついその感覚で」


 グウェンドリンはぐっと眉間に皺を寄せ、消え去りたくなる衝動と戦った。


 彼の言っていることに、勿論思い当たる節があった。


 ――ホイップ、あなたの目は本当に綺麗。吸い込まれてしまいそうだわ……。

 ――ニッ……ニャ……。


 二人きりの部屋の中、漆黒の背をうっとりと撫でながら。


 ――可愛いホイップ、私の膝へいらっしゃい。

 ――ニャ……!


 部屋に入ってきた彼を見るなり、期待に満ちた目で膝をぽんぽんと叩いて。


 ――ねえ、ホイップ。今夜は冷えるから、こっちで一緒に寝ない?

 ――ニャ……ッ!


 時には、大胆にも寝台から。


 ――絶対にそこから出ては駄目よ。ホイップ、愛してる!

 ――ニャア!


 或いは――隔てられた扉の向こうから。


 グウェンドリンは今更ながら羞恥に身を震わせた。ホイップの正体を知った瞬間から、意図的に考えないようにしていたが、自分が彼にどんなことを言っていたのか、全部とは言わないまでも大体憶えている。


 タイタスは陽だまりにいる猫のように目を細めた。


「あなたが、毎日のように俺に言っていたことを憶えていますか」


 勿論、憶えている。


 ――ホイップ、ずっと一緒にいてね。約束よ!

 ――ニャア!


 顔から火が出るというのはこのことだった。


「あ、あ、あれはホイップに――あ、いえ、その、あ、あの時は、恥ずかしながらホイップが殿下とも知らず、大変失礼を……」

「グウェンドリン、俺と話す時は、ホイップに話しかけていた時と同じようにしてくれて構わない。だけど、どうか名だけは」


 退廃的な美貌の王子は眼差しに切なげな熱を乗せ、グウェンドリンの手を取った。


「ホイップではなく、どうかタイタスと」


 グウェンドリンの手の甲に形の良い唇が触れ、澄み渡ったサファイアブルーの瞳が彼女を絡め取った。


 次の瞬間、サファイアブルーの中にある瞳孔が、満月のようにギャンと拡がった。


「殿下……?」


 タイタスはグウェンドリンの唇に指を当て、素早くランタンの灯りを消す。そうして、まるでグウェンドリンを守るように、彼女の後頭部を手で覆って胸に引き寄せた。


 息を殺し、じっとしていると、ややあって出口付近から冷ややかな声が響いた。


「――大人しく出てきた方が身の為ですよ、タイタス・アルカディウス。それとも、我が国の兵に引きずり出されたいですか?」


 ――この声は。


 グウェンドリンが息を呑む。


 それはマリポルト王国第二王子、マティアス・バイロンの声だった。


 ――何故、彼がここに……。


 王太子アレクサンダー・ライオネルの一歳下の弟で、優秀と評判の第二王子。笑っている時も眼鏡の奥の目は決して笑っておらず、グウェンドリンは彼に会う時はいつも、眼鏡の奥から冷ややかに値踏みされているような居心地の悪さを感じていた。


「殿下、お逃げに……」


 グウェンドリンは猫になって逃げるよう、小声でタイタスを促す。その声を掻き消すように、前方から再びマティアスの声が響いた。


「言っておきますが、引き返しても無駄ですよ。ペハヴィーン側の入口からも兵を入れましたので」


 グウェンドリンがうなだれた。単純な作りの坑道には、身を潜められる窪みや探索者を惑わす分岐もない。二人がどう動こうと、いずれ前後から挟まれて終わりだろう。その時、タイタスの姿は見当たらないのに、何故か野良には見えない優美な黒猫がいたらどうなるか。マティアスは決して愚かではない。


「さあ、どうします? ――そこにいるグウェンドリンの処遇は、あなたの態度次第です」


 その言葉を聞いて、タイタスがグウェンドリンを促した。


「行きましょう」

「ですが――」

「大丈夫です」


 そんな訳がない。だが、グウェンドリンの漆黒の騎士は、本当に何でもないことのように、彼女の手を取り悠々と外へ向かう。


 外では物々しい数の兵士を従えたマティアスが待っていた。彼の傍らには、グウェンドリンに潰された鼻に添え木をし、大袈裟に包帯を巻いたエイナルがいる。


「エイナル、よく知らせてくれた」

「恐らくここを通るだろうと思っていました」


 はるばる王都から来た第二王子に労われ、エイナルは得意満面だった。


「……丁度、この辺りを視察に来ていたのですよ」


 言い訳する必要もないだろうに、マティアスは何故彼がここにいるのか、わざわざ二人に説明した。


 ――視察、ねえ。


 タイタスは何も言わず上品に微笑んだ。マティアスの言葉を一かけらも信じていないことがよく分かる。グウェンドリンも同じ思いだった。


 だが、視察でないことだけは確かだとして、それならば何故、彼はこのタイミングでペハヴィーンに現れたのか。


 まさか、グウェンドリンが本当に大人しくしているかどうか、探りにきていたのだろうか。今回のことでルッツ家が王家を恨み、何か良からぬことを企んでいるとでも――。


 痛くもない腹を探られたのか、と青ざめるグウェンドリンは知らなかった。マティアスが彼女を連れ帰り、自身の婚約者とする為に迎えにきたということを。


 タイタスの方はおおよそのことを察していた。


「……これが兄ならのんびりと馬車で来て、きっとあなたを取り逃がしていた」


 グウェンドリンに向けた言葉なのか、独り言なのか、よく分からないことをぽつりと呟いて、マティアスがタイタスに向き直った。


「西ストランド王国第三王子、タイタス・アルカディウス。あなたを連行する」

「マティアス殿下! 友好国の王族に――」


 悲鳴のようなグウェンドリンの訴えを、マティアスは片手を上げて遮った。


「タイタス・アルカディウス。マリポルトにあなたの入国記録はない。あなたは友好国・・・であるマリポルトに密入国しましたね?」


 グウェンドリンの言葉尻を捕え、マティアスは殊更「友好国」を強調する。タイタスは何も答えない。マティアスは勝ち誇ったようにクッと口の端を歪めた。


「それだけではない。あなたはあろうことか、聖女の力が発現したマリポルト貴族女性をかどわかし、あなたの国へ連れ帰ろうとした」

「違います。私は――」

「グウェンドリン。余計なことを言うと彼の罪状が増えますよ。純真なあなたを言葉巧みに騙し、意のままに操ろうとしたという罪が」


 そんな――。


 それは事実でも何でもない、マティアスの悪意ある歪曲だった。だが、ここはマティアスの一族が統べる国であり、タイタスが本来踏むべき手順を踏まず、ここにいるということもまた、否定のしようがない事実である。


 マティアスの主張が全面的に是とされる可能性は高く、それならばグウェンドリンがタイタスを庇えば庇うほど、彼は窮地に追い込まれることになるのだった。


「それが嫌なら、黙っていることです」


 マティアスは眼鏡の縁を人差し指で押し上げ、タイタスに冷ややかな視線を向けた。


「あなたさえ誠意を見せてくだされば、グウェンドリンの名誉には一切傷がつきません。私は先程言いましたよね? そこにいるグウェンドリンの処遇は、あなたの態度次第です、と」


 グウェンドリンが呆然とマティアスを見る。


 タイタスが大人しく従いさえすれば、グウェンドリンには累が及ばないと彼は言っているのだ。


 ――殿下に誤った選択をさせてはならない。


 グウェンドリンは周囲にいる兵士たちに目を走らせた。


 どうすればタイタスを逃がせるだろう。否、どうするも何も、どのようにしても逃がさなければ。


「殿下、どうにかして血路を開きますから、どうぞお逃げに……」

「グウェンドリン、大丈夫だと言ったでしょう」


 タイタスはあやすようにそう言って、グウェンドリンの耳元で何事か囁いた。


「殿下ッ……!」


 ホイップと同じ、美しいサファイアブルーの目が愛おしげにグウェンドリンを見る。


 その目に映るグウェンドリンは、今にも泣き出しそうだった。


 ――ずっと一緒だと約束しました。


「いけません! あんな埒もない言葉を……!」

「――連行せよ」


 グウェンドリンの目の前で、まるで罪人のようにタイタスが頭を押さえつけられ、粗末な箱馬車に乗せられる。


「マティアス殿下、他国の王族に対し、このような非礼……!」

「グウェンドリン、あなたは私の馬車へ」


 マティアスはグウェンドリンの抗議を聞き流し、当然のような顔をしてグウェンドリンに手を差し伸べた。


 グウェンドリンは振り払いたい衝動を抑え、その手を大人しく取った。


 タイタスの身柄がマティアスの手中にある以上、今は不敬ひとつ、反抗的な眼差しひとつ与えることは出来ない。


 グウェンドリンに出来るのは、どんな思いも押し殺し、マティアスに従順であることだけだった。


「どちらも察しが良くて助かる」と、マティアスは笑った。


 差し向かいで乗った馬車がゆっくりと動き出す。


 ハンブル辺境伯領へと続く森が、無情にも遠ざかっていった。

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