後篇
夜も更け、森に息づく木々や動物たちが寝静まった頃。緑鷹は何時ものように美々しき黒の巫女を弄んでいた。
人里離れた山中に在る緑鷹の隠家には、毎夜のように瑠璃がやって来る。何方からともなく相手の欲望を煽り、一度房事を始めると翌日陽が高く為るまで求め続けるのが常だった。
随加近海での聖安軍との戦いは、緑鷹に死よりも過酷な屈辱を齎し将軍としての地位を奪い去った。蒼稀蘢との対決で左手を失い、戦力の大部分を削がれたものの、瑠璃へ向ける肉欲は衰えることなく滾っていた。
互いに快楽を求めて交じり合う此の儀式は、暁闇の頃に為って遂に緑鷹が力尽きるまで続けられた。
何時の間にか二人は折り重なって布団の上に倒れ、使い切った体力を取り戻すために深く眠っていた。緑鷹が目覚めたのは正午前で、共に寝ていたはずの瑠璃の姿は見えなかった。
身を起こし、開け放たれた露台へと続く戸を見やる。此方に背を向けて露台の手摺りにもたれ、森の方を眺め見ているらしい瑠璃の背中があった。
高みより降る日の光を浴びた、清らかな白の襦袢姿は此の上無く神々しい。昨夜あれだけ快感に身を投げ、緑鷹の下で善がり壊れていたのと同じ女とは思えない。
彼女の視線の先を追うと、少し離れた木に留まっている一羽の青い鳥が居た。背から尾に掛けて美しい濃青色で、腹部は白く、円らな目は真黒い。何に訴え、呼び掛けているのか――聞き心地の良い音色で高く高く鳴いている。
「瑠璃鳥か」
瑠璃が何かに興味を示していることを珍しく思いながら、緑鷹は着流しを身に付けつつ背後から声を掛ける。
「同じ名だから、互いに興が湧くのか?」
風にそよぐ長い黒髪をかき上げ、瑠璃は緑鷹の方へ振り返る。昨晩のような潤んだ瞳ではなく、冷やかに冴えた何時も通りの瞳で彼を見詰めると、浅く息を吐いて話し始めた。
「私の名は此の鳥に由来している――此の名は、私を殺したくて堪らなかった女が付けた名だ」
意外な発言に目を見開いたが、緑鷹は口を挟まず静かに黙っている。彼が先を促さずとも、瑠璃は自ら口を開き淡々と続けた。
「私が生まれた集落は、深い山間の渓谷に在った。此の鳥はあの森の何処にでも居て、繁殖の時期に為ると美しい歌声を響かせて盛んに番いを呼んでいた」
緑鷹の記憶に在る限り、瑠璃が自分の過去について話すのは初めてだ。彼は不思議な展開にやや戸惑い、首を傾げて瞑目した。
「あの女――天帝に仕える巫女であった女は、此の鳥が気に入っていたらしく、囀りを聞く度、瑠璃色の羽を見る度に願掛けをしていた。腹の子が此の鳥のように玲瓏な姿で、凛として清らかな巫女になりますように……と」
「……其の腹の子というのが、おまえか」
話の流れからして明らかだが、瑠璃の言い方は何処か他人事のようであり、思わず尋ねてしまった。
「皮肉なことよ。聖なる龍の神巫女を産みたいと願っていた女が、よもや『対極の存在』を孕むとは」
天帝や邪神、巫女。瑠璃と出会うまでは斯様な存在と無縁だった緑鷹は、其れがどれだけ残酷な悪戯なのかは分からない。しかし瑠璃が『黒巫女』である事実が、其の女と瑠璃とに如何ような影響を及ぼしたのかは大方想像がつく。
「其れで? 其の惨めな女は、如何したんだ」
彼の問いに暫時黙した後、瑠璃は不意に目を逸らした。
「結局、狂い死んだ」
人の心の機微を掴むのが得意でない緑鷹だが、瑠璃の声が切なげに震えたのを見逃さなかった。緑鷹の方にも興味が無いわけではなかったが、更なる言葉を重ねようとしない瑠璃に、其れ以上立ち入って訊く気には為れなかった。
「そうか。まあ、そんな昔のことは如何でも良い」
其処で話を打ち切り、緑鷹は瑠璃の許へと歩いてゆく。腰に手を回してぐっと引き寄せると、低い声で囁いた。
「もう一度――抱いて良いか」
らしくもない優しげな問いに、瑠璃は怪訝な顔をする。緑鷹が了承を取ろうとしたことなど、初めて同衾した時以来だ。たとえ何度目であろうと、態態問わずとも彼は目合いたいと思えばそうしたし、反対に瑠璃が欲しそうな目をしていれば与えてくれた。
返答を考えていた瑠璃は、やがて乾いた唇を僅かに緩ませて頷いた。緑鷹の右手を取ると、彼の腕の中に収まり共に室内へと戻ってゆく。
背後の細枝で羽を休める美鳥を肩越しに一瞥し、緑鷹はぴたりと戸を閉めた。寝台の上に再び瑠璃を組み敷いた後、彼女が詠い鳥さながら艶やかな喜悦の声を上げ始めるのに、左程時間は掛からなかった。
緑鷹に残された片手が、森から聴こえ来る澄んだ鳴声を瑠璃の記憶より掻き消し、一時の擬似的な幸福を生み出してやる――瑠璃は其の恐ろしく刹那的な快楽に溺れ、気の遠く為る程永い魂の輪廻の中、ほんの小さな安らぎを得るのだった。
お読みいただきありがとうございます!
このお話は、「金色の螺旋(聖安戦記一章)」という長編作品に出てくる「瑠璃」「緑鷹」というキャラたちのスピンオフになります。この後篇で瑠璃が語る彼女の過去は、本編の三章でくわしく書く予定です。
ご興味のある方は、ぜひ本編もお読みいただければ幸いです。
また、大人向けになりますが、この「瑠璃鳥と鷹」の完全版はムーンライトノベルズの方にございます。