僕の宝物(side 涼介)
web拍手画面の再掲になります。
下宿先の娘である宮原奈津という女の子は、長い間、僕にとっては自慢の妹分みたいなものだった。
算数で四十点取ったと涙目になったり、逆にいい点数を取った時は、僕が帰るやいなや家の中から子犬みたいにコロコロと勢いよく駆けてきて「見て」と答案用紙を得意げに差し出したり、とにかく真っ直ぐで見ていて気持ちのよくなるような子だ。
算数の勉強を教えたことがきっかけで、仲良くなって、彼女は僕に懐くようになった。
可愛い子供に懐かれれば、それはもう素直に嬉しい。
父親がいないからなのか、一生懸命母親の手伝いをして、母子で一緒に頑張っている姿が微笑ましくて、奈津を見ていると気持ちが和んだ。
だから、よく一緒に近所を散歩して駄菓子をご馳走してあげたりもした。
そうしたら、余計、懐かれて、僕もそれは満更でもなく本当に妹ができたみたいに思えたものだった。
僕は高校の頃に弓道部に所属していて、大学でも弓術部に入った。
弓術部の練習場は大学内にあり、うちの大学は近所に住む人が子供連れで散歩にきたりもするような環境だったから、弓道に興味を持った彼女が弓を引くところを見てみたいなんて言った時も、気軽に「おいで」と誘った。
練習を見にきた奈津は、見学を終えると『あんな遠くの的に当てるなんて』、『みんな凄い、カッコイイ』とみんなを無邪気に褒めるものだから、部員みんな気をよくして、いつでもおいでなんて口々に言い、素直な彼女は素直にその言葉を受け取り、時折、レモンの蜂蜜漬けや、クッキーなど差し入れを手に練習場に来るようになった。
屈託ない笑顔を振りまく奈津が来ると、練習場がすっかり明るくなって、彼女は皆のマスコット的な存在になり、『お前の妹分は可愛いな』なんて褒められ、僕はいい気になって、ますます奈津をあちこち連れ回すようになった。
彼女が中学生になった時、僕は大学院の博士課程に進学していて、昼過ぎに忘れ物を取りに下宿に帰ると、学校を早退してきた奈津がいた。
顔色が紙のように白くて、具合が悪そうで「どうしたの?」と声をかけると、「ちょっと貧血っぽくて」と力なく答えた。
中間テストの前で、彼女が遅くまで起きて勉強していたことを知っていたから「無理しすぎなんだよ、早く休めば」と言うと、「うん」と頷いてトントンと二階へ上がる。
その足音がいつもより小さくて、元気がなくて食堂にいた奈津の母に「ナッちゃん、大丈夫ですか?」と訊くと、「ええ、まあ、病気という訳じゃないから」と歯切れの悪い返事。
貧血っぽい、病気じゃない、そんなキーワードから生理にかかわる何かなんだろうなとピンと来た。
僕がぼーっとしている間に中学生になり、知らないうちに初潮も迎えていた。
そういえば、以前は脇腹くらいの位置にあった頭が今は脇の下くらいにまでなって、今更ながらのように身長も伸びていたことにも気付いた。
夏になるとよく着ていたノースリーブのワンピース姿だって、今までは寸胴の幼児体型だったから全く気にならなかったのに、近頃はふくらはぎがすんなりしてきたなとか、足首がきゅっとしまっているな、なんて気付いた後に、目のやり場に困ったこともあった。
――そういえば、胸もちょっと大きくなってきたよなあ……。
Tシャツなんかを着るとブラの線が見えて、いや、今のはナシと自分の想像したことを慌てて打ち消したこともあって。
相手は大事な妹分で、まだ中学生なのに、一瞬でも性的な想像をした自分自身を汚らわしく思い、僕はロリコンじゃないし、と自分によく言い聞かせた。
僕の戸惑いをよそに、奈津はますます女らしくなっていった。
身体も丸みを帯びて、身長もまた伸びて、今までは蕾とも思わなかったのに、花に蕾がついて、その蕾が綻ぶ様子を間近で感じ、より一層眩しい存在に思え、もう気軽に「ナッちゃん」なんて呼べなくなっていた。
段々と綺麗になってゆく奈津、おかげでこっちは心安らかでいられやしない。
何度、下宿を出て行った方がいいと思ったか。
それでも、一方で、僕はあの下宿の静かで穏やかな時間が好きで、更新の時期が近付くと悩みながらも、下宿にいることを選んだ。
おばさんのご飯が美味しいから。
口うるさいけど、可愛い妹がいるから。
そんな風に理由をつけて。
しかし悩ましい――相手が僕のことなんて何とも思ってなかったら、僕だってそんなに意識しないで済んだのに。
彼女から受ける好意が、優しいお兄さんに対するものから、他の感情を含んでいるものだと気付いたのはいつだっただろう。
気付かないうちに、自然と、当たり前のように、恋愛感情に変わっていた。
そして、僕に寄せてくれる思いがダダ漏れなのを本人は気付いていない。
そんな抜けているところがあって、男心に鈍感で、風呂に入れとか口うるさいところも全部が好もしく思えるようになってきた。
彼女が高校二年になった頃、放課後にふざけて遊んでいたら、階段から落ちて足を捻ってしまったとかで、男子生徒に支えられ帰宅したことがあった。
たまたま下宿にいた僕は、奈津が帰って来た気配と、下からおばさんと、知らない男の声と、奈津の普段と違う話し声が聴こえてきたことに怪訝に思い階下に降り、玄関に行った。
高校生に見える男の子に脇の下を支えられ、痛そうに顔を歪めているその姿に「どうしたの?」と訊ねると、「ドジっちゃって、階段から落ちたの」と情けない顔をした。
靴を脱いで玄関から廊下へ上がろうとする奈津がふらついたから、慌てて支えると、逆側を支えていた青年が僕のことを睨んだ。
その視線の鋭さに、ああ、この子は奈津のことが好きなのだと察することができた。
彼が礼儀正しく挨拶して帰った後、「しっかりした受け答えをする子ね」とおばさんが感心すると、「葉山はクラス委員で、来年はたぶん生徒会長になるヤツだから」と奈津が答えた。
見た目からして、爽やかで、礼儀正しくて、そして彼女の学校でクラス委員をしているのなら、おそらく成績もいい――可愛い妹分にはお似合いじゃないか。
彼女には僕のような一回りも歳が違う男よりも、彼のような青年の方が相応しい。
そうは思っても、胸がチリチリするような、不快感を覚えた。
困った――どうやら、僕も奈津のことが好きらしい。
それも、妹としてではなく、きちんとした一人の女性として。
自分の気持ちを初めて自覚することができた。
自覚したからといって、彼女の気持ちにすぐ応えてあげられる訳じゃない。
それは大人としての分別だったり、よくしてくれている下宿のおばさんへの遠慮だったり。
だいたい、僕はたぶん翌年には海外派遣プログラムを使いフランスに留学することになる筈だ。
それは、僕のキャリアにおいて、必要なことで、このチャンスを逃すことなんてできないことも、よく判っている。
フランスに行くことが判っていて、「好きだよ」なんて無責任なことはとても言えない。
自分からは言えないけど、もしも、彼女の方からぶつかってきてくれるなら――でも、彼女の様子を見ていると、その望みは薄いように思えた。
僕の見込みは外れ、嬉しいことに、奈津は勇気を出して僕に想いをぶつけてくれた。
これから大学へ行けば、世界が広がって、お手軽な恋愛がいくらだってできるのに、わざわざ、面倒くさい方を選んでくれた。
だから、僕も正直に自分の想いを伝えて、キスをした。
もう可愛い妹分だなんて思わない、恋人になってくれた人に。
フランスでの生活は、ぬるい下宿生活を送っていた僕にとってはなかなか慣れるのが大変だった。
そんな時でも奈津からのメールや電話を貰うと自然と彼女の表情や口調が思い出され、心地よい春風にあたっているかのような気分にさせてくれる。
包丁で指を切れば「ドジなんだから」と苦笑いする彼女の顔が脳裏に浮かび、改めて十年という月日を一緒に過ごした重みのようなものを感じた。
夏に生まれた奈津のために、早くからバカンスは七月の下旬に取ろうと決めていた。
イタリアから日本へ回る計画をおばさんにだけ伝え、「奈津さんには内緒に」と言うと、彼女の母親は「サプライズって楽しいわね」と電話の向こうで笑った後に、再婚することになったから、奈津がショックを受けたりしたら支えて欲しいと神妙な口調で頼まれた。
二か月ぶりの再会を果たした恋人は、僕の姿を見てとても驚いてくれたから、計画が成功したことに僕はとても満足だった。
二人で線香花火をあげながら、母親の再婚のこと、家のこと、電話やメールで伝えきれないことをぽつぽつと話した。
ショックを受けているような様子は見えなかったけど、たぶん寂しいのだろうなと、彼女の胸の中を推し量ることはできた。
母親にとって大切な人が自分だけではなくなること。
思い出がたくさん詰まった家がなくなること。
なんとか彼女がこの出来事を消化できるように、言葉を尽くして彼女に伝えた。
彼女はその僕の言葉を受け取り、あまつさえ、ずっと奈津の心の中に僕がいるのだと、そんな可愛いことを言われて心臓がきゅっと縮んだような気がした。
おまけに、嫁に貰ってなんて言われたら、嬉しいに決まってるじゃないか。
でも、それにはまだ早い。
彼女だって薄々気づいている筈だ。
だいたい、告白だってするように仕向けたものの、初めの一歩を踏み出してくれたのが彼女なのに、プロポーズまで彼女からだなんて情けなさすぎる。
プロポーズくらい、僕からビシっと言わせてくれよ。
買ってきた花火をぜんぶあげた後も、僕の部屋で長いこと話をしていた。
夏期講習中の受験生が大丈夫だろうかと、心配な面もあったけど、僕ももっと話したかったし、奈津もたぶん話足りなかったのだろう。
電話やメールでお互いの近況は知っていても、会えばまた別で、次から次へと話したいことがでてきてしまう。
そんな、話と話の合間にふっと沈黙がおりてきた。
何かを思うより先に、身体が動き彼女を抱きしめていた。
頬と頬をぴったりと合わせ、彼女の息遣いをすぐ近くで聞く。
耳に、こめかみに、形よく尖った顎に口付けて、最後に唇を重ねた。
まだ数えるほどしかキスをしていないから、彼女はこんなふうにキスすると最初はかちんこちんに固くなってしまう。
それがなおさら、可愛くて、愛しい。
髪に指を差し込み、サラサラの髪の手触りを楽しみながら、彼女の口の中に舌を差し込んで、また暫くお預けになるから、口の中を思う存分味わっていると、だんだんと彼女から力が抜けてくったりとしてくる。
――僕の宝物。
絶対に、なくしたくない。手放したくないし、壊したくない。
そんな想いがこみあげる。
唇を離すと、少し開いた唇から小さな貝殻のような白い歯がのぞいていて、長い睫毛の影が頬に落ちているのを、とても綺麗だと思い、下半身がはっきりと疼いた。
奈津は可愛さを含んだ整った顔をしている。
その顔は成長するに従って、だんだんと僕の好みの顔になっていった。
でも、顔が好みだからって、中身が今の奈津と違っていたならば、好きになってはいなかった。
世話焼きで、いつも一生懸命で、強くて、でも弱いところもあって、可愛くて、僕の事を大好きだとまっすぐに気持ちをぶつけてきて、要するに全部がとても好きなのだ。
ここまで、大事に想っていなければ、相手が自分のことを好きだという気持ちに付け込んで、あんなコトや、こんなコトもできたろうに。
触れることができないことも辛いけど、触れるのも、これはこれで拷問に近い。
今まで女性と付き合ってきた時は、それこそ、本能の赴くままに、行為へとなだれ込んできたけれど――もちろん、お互いの合意のもとに。
ジーンズの前が窮屈だと思いながら、我慢することなんてしない。
でも、大事だから我慢する。
コソコソと親の目を盗んで、事に及ぶようなことはさせたくない。
大切な、大切な僕の宝物だから。
明日にはまた遠く離れてしまうけど、いつかきっと一緒に暮らせる日がやってくる。
また会えるその時まで元気でね。
そんな想いをこめて、指で頬を撫でると、彼女から微かな笑みが零れた。
「元気でね、ちゃんとご飯食べてね」
「奈津さんも元気で、無理しちゃだめだよ」
長い長い僕らの人生で、離れている時間はきっと無意味じゃない、だから、また会う時まで元気でね。