第二十六話:黄昏の空を舞う燕
——ガシャァァァンッ!!
豪奢な宿屋の窓ガラスを突き破り、リタの小さな身体が外へと放り出された。
「う、あ……っ!?」
何が起きたのか理解する間もなく、リタの視界が反転し、空と地面がグルグルと入れ替わる。
重力に従い、身体が放物線を描いて真っ逆さまに落下していく。眼下に迫るのは、無慈悲なまでに硬い石畳の地面だ。ゆうに10数メートルは超える高さ、着地に失敗すれば間違いなく即死である。
(あ、ヤバい……死ぬ)
その瞬間、リタの脳裏に走馬灯のように昔の記憶が駆け巡った。
十年前、戦火に焼かれる王都から逃げ出したあの夜。過酷な砂漠の旅路で、次々と倒れていった親たちの姿。孤児となり、盗賊団に拾われ、罵倒されながらも必死にスリを働いて糊口を凌いできた日々。
ろくな人生じゃなかった。誰にも愛されず、誰の記憶にも残らずに、こんなところであっけなく死ぬのか。
(ふざけるな……! 嫌だ、まだ……死にたくないッ!)
巡る思いは、強烈な生への執着へと集約された。
リタは、空中で必死に身をよじった。右腕には、つい先ほどあの狂った令嬢から無理やり装着させられたばかりの銀色のガントレットがある。こんな得体の知れない機械に命を預けるのは不安しかなかったが、背に腹は代えられない。
スリとして路地裏を駆け回ってきたリタの持ち前の運動能力と、動体視力が極限まで研ぎ澄まされる。
瞬間、視界の端にバザールの高い見張り塔が映り込んだ。
(いけぇぇぇぇっ!!)
リタは右腕を塔に向け、魔力を流し込んで強く振るった。
——シュパーンッ!!
圧縮空気の破裂音と共に、ガントレットから鋼の鉤爪が射出される。ミスリルワイヤーが鋭い軌跡を描き、塔の木材の梁に深々と突き刺さった。
命中すると同時に、ガントレット内の魔導回路が作動し、猛烈な速度でワイヤーが巻き取られ始める。
「ぐっ……おおおおっ!?」
地面に激突する寸前、ワイヤーの張力がリタの身体を強引に引き上げた。
完璧なスイング。落下速度は推進力へと変換され、リタの身体は大きな振り子のように宙を舞い、再び空高くへと射出されたのだ。
「……あ、ははっ! な、なんだこれ! すげえ!!」
死の恐怖から解放されたリタの口から、無意識のうちに歓喜の笑い声が漏れた。
頂点に達し、再び重力に引かれる前に、リタは次なる標的を見定めて鉤爪を放つ。
シュパンッ! ギュイィィン!
建物の屋根、教会のドーム、市場の天幕の支柱。次々と鉤爪を引っ掛けては巻き取り、リタはまるで一羽の燕のように、自由自在に空を飛び回り始めた。風を切る感覚。重力から解放されたような圧倒的なスピード。それは、地べたを這いずり回って生きてきた彼女にとって、魂が震えるような快感だった。
高く、高く跳躍した瞬間。
リタの視界いっぱいに、オアシス都市の全景が広がった。
地平線に沈みゆく大きな夕日が、黄金色の砂漠を赤く染め上げている。オアシスの豊かな湖面はキラキラと光を反射し、日干し煉瓦の街並みが、まるで宝石箱のように美しく輝いて見えた。
スラムの路地裏しか知らなかった彼女が見た、初めての「広い世界」の景色。
「……うわぁ、すっげえ綺麗だ……」
息を呑むような絶景。
それはまるで、暗い泥水の中から引き上げられたリタ自身の、この先の輝かしい未来を暗示しているかのようだった。
***
一方、その頃。宿屋の一室では。
「ふふふっ、思った通り! 最高のアクロバットですわ!」
私は、リタが突き破った窓の縁から身を乗り出し、夕空を縦横無尽に飛び回る彼女の姿を見て、ご満悦で拍手を送っていた。
筋肉の連動、ワイヤーの巻き取り速度の調整。どれをとっても事前の計算を遥かに超える完璧な挙動だ。
「おい、セラフィナ。上手くいかなかったらどうするつもりだったんだ」
振り返ると、レオンハルト様が真剣な怒りを湛えた目を向けていた。
私は両手を頬に当て、ペロッと舌を出した。
「てへぺろっ☆」
「ふざけるな。あいつは俺たちのように訓練は行っていない。少し身軽なだけの、普通の子供なんだぞ。もし地面に叩きつけられていたらどうする気だった」
「あ、慌てないでくださいませ! もちろん安全装置は付いていますわよ!」
私は慌てて手元の機器を操作し、ガントレットに備えた機能を見せた。
「落下速度が致死ラインを超えた場合、ガントレットから『クッション』が自動で飛び出して、彼女を包み込む仕様になっておりますの! 無謀な実験はしませんわ!」
「……なら先にそう言え。寿命が縮むかと思っただろう」
レオンハルト様が深くため息をつき、セバスチャンさんも胸を撫で下ろしている。
「さて、気を取り直して、これからのことを相談しましょうか」
私は部屋のテーブルに都市周辺の簡易マップを広げた。
「遺跡の入り口までの案内はリタに頼めます。問題は、そこにわんさかいるという盗賊団ですわね」
「ああ。武装した荒くれ者の集団となれば、強行突破はリスクがあるな」
「ええ。できるだけ相手はしたくありませんわ。魔導具が壊れたら嫌ですもの」
「俺の魔力で、遺跡の入り口ごと一掃してしまえばいいだろう。手っ取り早い」
大公閣下が物騒極まりないことを平然と言い放つ。
「ダメですわ閣下! 人を魔法で襲いたくなんてありません!」
「お前……珍しくまともなことを言うんだな。少し見直したぞ」
「もし閣下の火力で遺跡の入り口が崩落したら、奥に眠る古代兵器のパーツまで傷ついてしまうかもしれませんもの! 盗賊の命はどうでもいいですが、遺跡の保全は最優先ですわ!!」
「……前言撤回だ。お前はやはりどこかおかしい」
私の至極真っ当な意見に、レオンハルト様が頭を抱える。
セバスチャンさんも、紅茶を注ぎながら静かに口を挟んだ。
「閣下、セラフィナ様の仰る通りです。大公閣下の魔力はあまりにも目立ちすぎます。派手な戦闘は避けるべきかと」
「ひとまず、人が少なくなる時間帯はいつなのか、盗賊が見張っていない裏ルート等はないのか、リタに戻ってきたら確認することにしましょうか」
私たちがそう方針を固めた、まさにその時だった。
——シュタッ!
割れた窓枠から、身軽な動きで一人の少女が飛び込んできた。
「ただいま! 姉ちゃん、あの腕の機械、最高にイカしてるぜ!」
リタだ。風を切り、夕日を浴びて空を飛んだ彼女の瞳は、これまでの虚ろなスリの目ではなく、生きる喜びに満ちてキラキラと輝いていた。
「お帰りなさい、私のテストパイロット! 気に入ってくれて何よりですわ」
「ああ! で、話ってなんだ?」
私たちが先ほど話し合った内容——盗賊団と戦闘にならずに遺跡に潜入する方法はないか——をリタに伝えると、彼女は不敵な笑みを浮かべ、ガントレットを装着した右手の拳をポンと手のひらに打ち付けた。
「それなら……いい作戦があるぜ。俺に任せな」




