上るか下るか
――ピッ……ピッ……ピッ……
瞼を開くと――人工的な白い壁が飛び込んできた。
「あ、昭人っ!?」
聞き覚えのある声が降り、次いで視界の右端から、ぬっと母の顔が現れた。
「お父さん! 昭人、起きたわ!!」
うわ……頭がガンガンする。母の声は弾かれたように上擦っている。
「……母さん……騒がしぃよ……」
呟いた自分の声が、妙に掠れて弱々しい。身動ぎしようとして、あちこちが鈍く痛んだ。何だ、これ……。
「お父さん! 看護師さん呼んで! 早く!」
視界から消えても、母の存在は益々主張された。
程無く、複数の足音が駆けつけてきて、僕は白衣の人々に囲まれた。そして、病室のベッドに横たわっていることを認識した。
当直の若い医者は、僕に繋がった計器のデータを確認し、一言二言質問すると、淡いグリーンのカーテンの外に出た。ひとまず大丈夫です、詳しい検査は専門の担当医が出勤してから改めて、云々――両親に話しているのが聞こえた。
喧騒と共に白衣の群れが消えると、気だるげな静寂に支配された。繋がった計器の機械音が、規則的に僕の生を記録している。
「……何があったの」
パイプ椅子に座る両親に問いかける。冷静な父が話してくれた。
数時間前――教員採用試験の合格通知を握り締め、僕は深夜バスに乗車した。
そのバスが走行中、事故を起こしたそうだ。高速道路の緩やかなカーブ。中央分離帯の縁石に接触して、反対側のガードレールに衝突、横転した。
運転手と乗客5人が亡くなった。8人が重軽症。僕は、打撲と左腕の骨折で済んだ。幸運な方だった。
「あんたが無事で良かったわ。おばあちゃん、あんたのこと可愛いがってたから……連れてってしまうんじゃないかって……心配で」
母は泣いていた。いつもは朗らかで気の強い人なのに。
「違うよ……ばあちゃん、助けてくれたんだ」
記憶と情報が結び付く。僕は、目覚める前の体験を話した。
「そこは、きっと黄泉平坂だ」
腕組みした父が、眉間に皺を寄せて呟いた。
「よもつ?」
「坂の上にある『この世』と、坂の下にある『あの世』とを繋ぐ場所でな。死んだイザナミを連れ戻しに行ったイザナギが、亡者に襲われて逃げ帰る途中、この坂に生えていた桃の実を投げて助かったんだそうだ」
父は、『古事記』に記された『イザナギ・イザナミ』の神話を教えてくれた。
「亡くなったイザナミも、死者の国の食物を口にしたために、帰れなくなったらしい。食べると、その世界に捕らわれると言うんだな」
そうか……あの時、桃を食べていたら――僕は帰れなかったのかも知れない。
「母さん、礼儀作法とか、煩かったもんなぁ」
父さんは、腑に落ちたように苦笑いした。
ー*ー*ー*ー
後日、白猫のいた家で見た赤いワンピースの女性が、僕と同じバス事故で、最後に亡くなった乗客だと知った。彼女は、桃を食べてしまったに違いない。
生者と死者の世界の狭間にあるという、黄泉平坂。
今にして思えば、心象を見せられた縁側の外は、出口の反対側――死者の世界に面していた。あれは、事故で亡くなって間もない人々が、去り際に描いた風景だったのではないだろうか。
退院後、祖母の墓前でお礼と就職の報告をした帰り、実家に寄って、久々に昔のアルバムを開いた。記憶の中で朧気になっていた祖母の姿を、焼き直したかったのだ。
「母さん! この写真、何?!」
そこで僕は、驚きの再会を果たした。
黄ばみがかった写真の中で、幼い僕は大きな白猫のぬいぐるみをギュウッと抱き締めて眠っている。筆先みたいな黒い尻尾まで、確り写って。
「ああ『にゃーこ』ね。これが無いと、あんた寝付かなくてねぇ」
母は、懐かしげに笑った。
そのぬいぐるみがどこにあるのか、もう誰も分からない。存在を忘れてしまってもなお、大好きだった強い想いが、僕の中に刻み込まれていたのか――。
僕はアルバムから、祖母とにゃーこの写真を剥がし、大切に手帳に挟んだ。
【了】
拙作をご高覧いただき、ありがとうございます。
このお話は、別のサイトの投稿イベントに参加しております。
ー*ー*ー*ー
さて。ここから先は、ネタバレになりますので、ご了承ください。
作中に出てくるキーワードについて、幾つか補足させてくださいね。
まず「黄泉平坂」とは、生者の国(この世)と死者の国(あの世)との間にあるという坂の名前です。(因みに、島根県出雲市東出雲に実在します)
『古事記』の中に記載があります。
国造りの任を受けた、夫婦神イザナギ(夫)とイザナミ(妻)。
道半ばで先立った妻を連れ戻しに、夫は黄泉国(死者の国)へ行くのですが、『地上に着くまで妻の姿を見るな』という禁を、夫は破った挙げ句、地上へ逃げ帰ります。(黄泉国の食物を口にしていた妻の姿は、醜く変わり果てていたのです)
恥をかかされ、怒った妻は、夫に亡者をけしかけます。すぐ背後まで亡者共が迫る中、坂の途中にあった桃の木から実を取り、投げつけました。亡者共が桃を食べている隙に、夫は地上に辿り着き、助かるのです。
地上手前にある、この坂の名を『黄泉平坂』といいます。
因みに、黄泉国で、妻の言葉を夫に取り次いだ神がいて、名前を「菊理姫」と言います。作者の裏設定では、迷い処の主であり、玄関で主人公に声をかけたのは、この神ということにしていました。
その「迷い処」ですが、これは東北地方の民話に登場する不思議な屋敷です。
山奥で迷った旅人が辿り着くといわれ、家人は誰もいないのに、豪華な食事が用意されているそうです。更に、屋敷の中の物を何か持ち帰ると、幸せになるとか(これには異説もあり、この話では採用していません)。
生死の境には、よく三途の川と賽の河原に辿り着くと言われます。川も、此方(生者の地)と彼方(死者の地)との境界ですね。
坂も、語源は境と同じだそうです。
主人公が事故に遭って辿り着いた場所は、生と死の境界の迷い処。
案内係は、彼がかつて大切にしていた白猫のぬいぐるみ「にゃーこ」。
モノは長年使うと、付喪神と呼ばれる妖に化けると言われます。
大切にされたモノは、存在が消えても、いつかどこかで戻ったり、巡り合う機会があるような気がします。
窮地に陥った時、その人を助けるものは、その人に刻まれてきた何かだと思うのです。その何かは、運や守護的な存在の有無にすら、干渉するに違いありません。
つまらない、代わり映えのない日々の中ですれ違う、ちょっとした何かが、未来の自分を救うかもしれない――人生には、そんな潜在的な希望がきっとある、と願っています。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
また、別のお話でご縁がありましたら、よろしくお願いいたします。
砂たこ 拝
2018.10.7.




