誘惑の果実
その部屋は、これまでの部屋と作りは同じように見えた。ただ――2点、違うことがある。
まず、縁側の障子が閉じていることだ。これまでは、何かしら心象が映っていたのに。
「座るニャ」
そして、部屋の中央に紫の座布団があり、その前に黒い漆塗りのお膳が置かれていることだ。部屋の中に物があるのも、初めてのことである。
お膳の上には、まあるい桃の実が3個乗っている。食べ頃を示す熟れた薄紅色を全体に広げ、豊潤な果汁を含んでいることがわかる。瑞々しい見た目に加え、甘い香りまで誘うように漂わせている。
「アタシは指示を受けて来るから、ここで待つニャ」
「……指示? そんなの、誰に」
意識を桃に浚われていたので、反応がやや遅れた。白猫は、窺うような眼差しを返した。
「ここの主ニャ」
「えっ」
「これ以上は話せニャイ。多分時間がかかるから――それは、食べてもいいニャ」
僕の胸中を見越したように、白猫は一方的に会話を切り上げ、足早に部屋を出て行ってしまった。
――くぅ……
桃の誘惑に反応し、腹の虫が弱音を呟いた。
今更ながら、僕は腹が減っていたらしい。生理現象って正直だ。
『食べてもいいニャ』
目の前のふくよかな果実に伸ばし掛けて――右手が止まる。
――『食べても』?
奥歯にものの挟まったような言い方が、妙に引っ掛かる。語尾がニャーニャー言ってるから誤魔化されそうだが、『部屋に入れ』だの『近づくな』だの……白猫は常に命令口調だった。僕に委ねるような言い方は一度もなかった。なのに、今回に限って『食べてもいい』。この含みを持った言い回しは、何なんだろう?
――ぐぅ……きゅるる
右手の躊躇いに憤慨した胃袋が、早く腹に納めろと激しく抗議している。
『昭人。あき君。いいかい、お友達がいいって言っても、お家の人の許可を貰わなきゃ、食べちゃいけませんよ』
――ばあちゃん……?
何故だか不意に、祖母の言葉が甦った。
両親が共働きだったので、僕は小学校が終わると祖母の家に直行した。夕食を取り、風呂からあがると、父が迎えに来て、帰宅する。両親と朝食を食べて、母に送られ登校する。中学生になるまで、そんな日常だった。
祖母は優しい人だったが、昭和の人らしく躾は厳しかった。特に、挨拶や礼儀に関しては口喧しかったっけ。
僕は、固まった右手を左手で回収した。
この場所の主の許可なく、食べるのは止めよう。
文句喧しい腹の虫を黙らせるべく、桃の膳から離れる。座布団を枕に、部屋の隅で横になった。
ー*ー*ー*ー
『昭人! おばあちゃんが危篤なの。こっちに帰っ』
『帰れないよ』
深夜3時過ぎ、ラインでもメールでもなく、直接スマホにかかってきた電話。母の慌てた声を、僕は膠もなく遮った。
『明日、いや、もう今日だけど、二次試験だって言ってただろ』
国家公務員試験の二次試験。集団面接を控えて、普段より早く就寝していたのだ。
『……だけど』
僕がおばあちゃん子だと知っている母は、戸惑いも顕に食い下がった。
『試験終わったら、飛んで帰るから。市立病院だろ?』
多分、僕は必要以上に不機嫌な言い方をした。動揺を自覚したくなかったからだ。
『ええ。そうね……あんたの将来がかかっているのよね。頑張ってね』
母は、努めて冷静になろうとしていたけれども、語尾が少し震えていた。
『うん。じゃあ』
祖母の死に目に会えなかった僕は、試験に落ちた。両親は何も言わなかったけれど、祖母の墓前に会わせる顔がなかった。
だから、翌年、再度挑戦して合格通知を手にした僕は、ラインで手短に連絡すると、故郷へ向かう深夜バスに飛び乗ったのだ。
――ばあちゃん、会いに行かなくて、ごめん。遅くなったけど、俺、夢叶えたよ。春から小学校の先生になるんだ――。
ー*ー*ー*ー
「……ニャ。起きるニャ」
「ん……ばあちゃ――。あれ」
白猫の肉球が、僕の頬をプニプニと押している。
「待たせたニャ」
「――ああ」
まだ、ここにいたのか。琥珀色の瞳を見ながら、身を起こす。何だか懐かしい夢を見ていた気がする。
「付いて来るニャ」
ぼんやりとした頭のまま、白猫の言葉に従う。部屋の中はガランと広く、桃の膳は消えていた。
「また心象を見せるつもり?」
廊下に出た所で、白猫の背中に訊ねてみた。はっきり言うと、終わりの見えない状況に、いい加減辟易していたのだ。
白猫は、チラと肩越しに視線を寄越しただけだった。ぎこちない沈黙を伴って、同じ顔をした襖の間をぺタぺタと進んで行く。
「入るニャ」
唐突に立ち止まると、僕を見上げた。
白猫が指し示す襖は、これまで案内されてきた部屋とは、廊下を挟んで反対側になる。
「僕だけ?」
率先して部屋に入っていた白猫が、廊下から動かない。
「……そうニャ」
「これは、あんたのご主人の指示?」
心細さに似た不安が過り、思わず訊いた。
「そうでもあるし、そうでもニャイ。半分は、キミが選んだ結果ニャ」
相変わらず、白猫の答えはどっちつかずだ。僕が選んだって、何なんだ。
「行くニャ。キミとは、お別れニャア」
廊下の中央に腰を下ろした白猫は、初めて見た時と変わらず精巧な置物のようで、凛と美しい。
「あんたは、最後まで知りたい答えをくれなかったけど……いつか、また会うことはあるのかな」
「ニャア」
瞳を細めて一声鳴くも、やっぱりイエスともノーとも分からない。それでも、不思議と苛立ちを覚えなかった。去来した寂しさに驚きながら――先へ進む決意を固めた。
襖を開けると和室ではなかった。一間程の板敷きがあり、その先は一段下がって土間になっている。そこに、見慣れたスニーカーが踵を揃えて置かれている。
土間の正面に、引き戸が見える。この建物の外に通じているらしい。
『お行きなさい』
不意に、女性の声に促された。
「……誰?」
振り向いたが、閉じられた襖は、力を込めても開かない。
進むしかない。僕はスニーカーを履き、引き戸を開けた。鬱蒼とした木々が生い茂っているものの、その間を縫うように狭い一本道が伸びている。上空は木立に遮られ、昼か夜か判断出来ない。
踏み出すと、緩い上り勾配の坂道になっていた。暫く行くと、道の左右に背の高い石柱が立っていた。気味悪さを感じたが、やはり行くしかない。身を縮め、息を潜め、石柱の間を足早に抜ける――瞬間、目の前が真っ白になった。




