心象めぐり
襖を出ると、木目美しい廊下が、左右どちらにも果てなく伸びている。しかも廊下を挟んだ左右には、無数の襖がズラリ並んでいて、一度部屋を出てしまったら、元の部屋に戻ることは至難の技だろう。
「ここニャ。入るニャ」
襖にして8枚、左に進んだ部屋の前で、白猫が僕を待っている。反抗したい気持ちがなきにしもあらずだが、この不可解な状況の説明を受けるには、従うしかあるまい。
大人しく部屋に入ると、正面の障子は既に開いていた。
「これも――心象?」
背後の襖が静かに閉まるのを感じつつ、前方に縫い付けられた瞳が剥がせない。
縁側の向こうは、揺らめく青の世界。時折、白い半球がフワリユラリと視界を横切る。
直径3mはある非常識な大きさのクラゲが数匹、海中を漂っている……。
「そうニャ」
「なぁ……あんたも心象なのか?」
立ち尽くしたまま、傍らにいる白猫に問いかける。すぐには答えが返らない。
見下ろすと、琥珀色の眼差しとカチリ、視線が合った。
「アタシは案内係だニャ。キミに所縁ある姿に見えているだけニャ」
「白猫……の姿は、僕が作り出しているってこと?」
「ニャア」
僕には白猫に見えているソレは、満足気に瞳を細める。
「案内係って、こういうのを見せるのが目的?」
巨大クラゲの『心象』を指差す。
――ばんっ
言葉に詰まる白猫の代わりに、襖が開いた。余計なことを語らせまいとするかのように。
「……次、行くニャ」
白猫はポツリと呟いた。心なしか意気消沈したように見える。トボトボ歩く猫背が、更に丸い。
僕のせいなのか?
妙な罪悪感に捕らわれ、いたたまれなさを打ち消すように足早に続いた。
クラゲはまだ漂っている。僕らが部屋を出たら、先程の桜同様、海ごと崩れ落ちるのだろうか。
ー*ー*ー*ー
次に入った部屋では、縁側の向こうには暗闇が広がっていた。
目を凝らしていると――。
「……あ!」
スウッと一筋、金色の尾を長く引いて、流星が虚空から溢れた。
「わぁ……」
その一光を皮切りに、次々と星が流れ出す。輝きの強弱も、流れの長短も、光も色とりどりだ。
「ねぇ……今まで見てきた心象って、別々の人のものなの?」
僕は、縁側の手前ギリギリの畳の上に腰を下ろして、膝を抱えた。月の無い満天の空から、ひっきりなしに星々が降り続いている。
見上げる僕の傍らに来て、白猫も腰を下ろす。
「そうニャア。1人ひとり、違う心象を描くんだニャ」
誰かが描く心の風景。そんな特別なものを、何故僕は案内されているのだろう。聞いたところで――時が来るまでは、はぐらかされてしまうに違いない。
『流れ星に3回願い事を唱えると叶う』なんて言うけれど、今は、願掛けする気持ちになれない。
それは、この風景が本物ではないからだろうか。
「綺麗だけど、寂しいね」
呟くと、白猫はこちらをチラリと一瞥した。そのまま互いに無言で、誰かの夜空を眺めていた。
――ばんっ
沈黙を打ち破る不粋な音にも、少し慣れた。白猫が立ち上がる。僕も、後に続く。
――あれ……尻尾。
数歩前を行く白猫の後ろ姿に、黒いものがちらついた。注視すると、ユラリと長い尻尾の先が、ちょっとだけ黒い。真っ白な筆先を墨汁に浸したようで……ん――何だろう。何か、思い出し掛けた気がするけれど――ダメだ。一瞬浮上した思い出の欠片は、再び海馬の渦に埋もれて消えてしまった。
「次は、ここだニャ」
そんな僕の懊悩を知る由もなく、白猫は次の部屋に先導した。敷居を跨いだ時、廊下から襖の開く音が聞こえ――咄嗟に室内への体重移動を止め、反対に廊下へ身を仰け反らせる。不安定な姿勢のまま、視線を左右に走らせる。
「あ……!」
右に10mくらい離れた辺りに、廊下を過る人影が見えた。
背中までの長い黒髪と、赤いスカートの裾が、ヒラリ、部屋の中に消えた。
「ニャニしてるんニャ」
白猫が怪訝な眼差しを向けてくる。
「あっ、あの! ここって、僕以外にも、人がいるの?!」
「……ニャ?」
パチリ。白猫は、見開いた瞳を大きく瞬きした。
「今、女の人がいた! あっちの部屋に入っていったんだ!」
琥珀色の瞳を細くして、白猫は首を振る。人間だったら、さながら眉間に皺を刻んで顔をしかめたといった様子か。
「失態ニャ。互いを見られてはニャらニャいのニャ!」
「何故?」
部屋の中央に立つ白猫と同じ目の高さになるよう、しゃがんで、グッと詰め寄る。
「それは――」
困ったように俯いた。核心に迫る質問をぶつけると、相変わらず口を閉ざされてしまう。
「何なんだよ! いつになったら教えて貰えるんだよ!」
吐き出した憤りが火を付けた。溢れだす不安に飲み込まれ、どうにかなりそうだ。
ここは何処なんだ。どうしてここにいるんだ。ここに来る前、何をしていたんだ――?!
頭がズキン、と痛んで、思わずその場に蹲った。白猫が息を飲んだ気配がした。
――ばんっ
「……時間ニャ。大丈夫かニャ」
至近距離から僕の表情を伺っている。白猫は、気遣う言葉を口にするが、本当に知りたいことは決して漏らさない。期待するのは、無駄なのだろうか。
「大丈夫。……行くよ」
まだ目眩を感じたものの、1つ深呼吸して顔を上げる。
音のない雨が、降っていた。
今の今まで心象を見る余裕が無かったが、視界一杯に飛び込んできたのは、白く細い無数の滝に煙る、鬱屈とした灰色の風景。糸のような雨が降り頻っている。止めどなく泣いているみたいだ。でも――誰が?
「行くニャ。次が、最後ニャ」
廊下から白猫が呼ぶ。
『最後』――その言葉を胸に刻んで、ゆっくり立ち上がる。部屋を出てきた僕の姿を見留めると、白猫は歩き出した。筆先のような尻尾が左右に揺れる。
『最後』だからなのか、随分進んでいく。襖の数が20枚を過ぎたところで、数えるのを止めた。それでも廊下は果てしなく続いていて、突き当たりが見えない。
「……ここニャ」
漸く立ち止まると、琥珀色の瞳が僕を見上げた。頷いてから、僕は敷居を跨いだ。




