肆 【想いの丈】
(珠水殿との書簡のやりとりがバレた……?)
彼女は、凌星と近しい間柄だ。
発覚して当然だと、思ってはいた。
だとしたら、それを逆手に取って今後のことを考える必要がある。
花影はとりあえず、笑って誤魔化そうとした。
「企む……なんて、とんでもない。そんなに私が怪しく見えますか?」
「王宮の銀花の枝を採取して、色々と調べているらしいな?」
「この機に、銀花のことに詳しくなろうと思っただけですよ」
「そんな理由がいつまでも、俺に通用するとでも?」
「どこかおかしな点でも、ありますか?」
「あんたは、そうやってすぐに……」
凌星は額を押さえて、頭を振りながら、うつむいた。
「…………いつも、それだ」
「えっ?」
「あんたは、いつも本当の自分を見せない。俺だけじゃない。丁李にも、千李さんにも」
「そんなことを、言われても……」
「どうせ、自覚もないんだろう? あんたが唯 流月から、そういうふうに育てられたことは、俺にだって分かっているよ」
「…………母が、私を?」
「感情を押し殺して、すべてを独りで抱え込む。少しはマシになったと思ったけど、意外に根深かったな。今だって、泣きそうになっていたんだろう? それを、誤魔化したんだ」
「泣く? ……私が?」
「部屋に入って来た時、俺にはあんたが泣いているように見えた。大体、俺があんたの立場だったら、全部を壊したくなるくらい、憤っているはずだ。それなのに、あんたは……」
「おかしな話ですね。私が母様に利用されたと、怒るのですか? むしろ、私はあの人に、人間らしい感情があって、喜んでいますけどね」
「嘘だな」
「本当ですよ。私は貴方の影となることが存在理由だったのです。名前だって花の影。今回のことで、よく分かったんですよ。……ですから」
「…………俺の影……だと?」
しばらく、凌星は肩を揺らしていた。嗤っているかと思ったら、勢い、拳を敷布の上に叩きつけた。
「ふっざけるな! そんなこと、俺が認めない。そんな生き方をしようなんて、思うことも、口に出すことも、絶対に許さない」
感情冷めやらぬ凌星は、そのまま勢いよく立ち上がった。
「凌星……殿……?」
驚きのあまり、『様』と付けるのを忘れてた。
なぜ、凌星が花影のことを、自分のことのようにして、怒っているのだろう?
困惑したあげく、寝台の方に近づいて行ったら、凌星は花影を待っていたかのように、手を掴み、引っ張った。
「あっ!?」
せっかく片づけた紙の束が宙に舞う。
圧倒的な力に為す術もなく、花影は彼の胸元に頭から飛び込むような形になってしまった。
華奢に見えて、意外に逞しい身体。
彼の衣に焚き染められた微かな白檀の香りに、頭の中が酩酊しそうになった。
「な、何っ?」
「……玄瑞の身辺を調べて、どうするつもりだ?」
吐息がかかるほど間近で、凌星が囁いた。
現在、玄瑞は妃の明鈴と共に、浅氏の治める呂県で匿われていることは、誰もが知っていることだった。
(でも未だに、陛下は表舞台に出て来ていない)
凌星=慧 紫晴は、未だ目新しい行動を起こしてはいない。
ここで民に自身の正統性を訴えれば、玄瑞に付き従う者は倍増するはずだ。
そんな当たり前のことを、浅 泰全が側にいながら決行しないのは、何も出来ない理由があるからではないか……?
それを、小鈴を呂県に送り届けるついでに、宋家に調べてもらっていた。
だが、その程度のことなら、凌星とて知っていることだろう。
(私が知りたいのは…………)
どくどくと、凌星の心音が聞こえてきた。
雲を脱した満月が部屋の中を真昼のように照らしていた。
皓々とした月明かりの中、二人の密着した影が部屋の中に、細長く伸びている。
彼が短気を起こす前に、適当な答えを見つけようと、花影は必死だった。
「私は、浅氏と玄瑞の関係を探っているのです。あちらが一枚岩でなければ、切り崩すことも可能でしょう?」
「あんたの仕事じゃない」
「しかし! 河川の氾濫は都だけの問題ではありません。顛河は浅氏が治めている呂県にも流れています。交渉の余地はあるはずです」
「知るかよ」
「貴方の役に立とうと思うことは、悪いことではないはずです」
「…………俺が望んでいない」
失敗した。
花影の捻りだした言葉は、彼にはまったくといって良いほど通用しなかった。
抱擁程度では生ぬるいとでも思ったのだろうか……。
凌星は荒っぽく、寝台の上に、花影を転がすと、その上に馬乗りになった。
「…………っ!」
固い寝台が微かに揺れ、花影も逃げようとしたが、無駄だった。
完全に、凌星に身動きが封じられている。自分の身の上に起こっていることが信じられない花影は、足をばたつかせるしかなかった。
「ま、待って下さい! 戯れにも、程がありますよ」
「こうでもしないと、あんたの頭の中が覗けないだろう?」
凌星が花影の裙子の帯をほどきながら、首筋に顔を埋めた。
「…………なぜ?」
生温かい舌の感触に花影は、ようやくこれが現実であることを、実感した。
(一体、この人は、何をそんなに苛立っているのだろう?)
――突然、国主になるような身分を得てしまったから?
――永遠に、身の上の自由が利かなくなってしまったから?
こんなことをしても、何一つ彼の得にはならないはずだ。
それこそ、紫陽と流月と同じ泥沼だろう。
花影は、彼の暴挙を止めなけれはならない。
(………………でも……もう)
どうでもいいのかもしれない。
たとえ、勢いに任せての行為だったとしても、凌星がそれを望むのなら、与えてしまえば良い。
そっと横に顔を背けて、嵐が過ぎ去るのを待つように、きつく目をつむる。
「花……影」
――すると、ややしてから、忙しくなく動いていた凌星の手がぴたりと止まった。
きっと、花影が抵抗をやめたせいだ。
「先生」
凌星は顔を上げ、深呼吸をすると、花影の寛げてしまった襟元を直して、隣にごろんと横になった。
「……悪かった」
「…………いえ」
微妙な沈黙が、辺りを包み込んだ。
緊張の余り、花影が身を強張らせていると、ばつが悪そうに凌星が口を開いた。
「あんたが、俺に引いている一線を破りたくて……。あんたの口から、全部話してもらいたいんだよ」
「しかし、重要なことは、全部お話させて頂いてますよ」
「俺は、何でも話してもらいたいんだ」
「何でもって……仰られましても」
ぎこちない笑みを作り出す。
凌星は投げ出されていた花影の震えている手の甲にそっと触れた。
先程の荒々しさが嘘のように、優しい感触だった。
「………分からないか?」
「……何を?」
「俺の気持ちだよ」
天井を見上げながら、彼は落ち着いた口調で言った。
「俺が、あんたのことを好きだと言ったら、あんたは信じてくれるか?」
「………えっ」
「好きなんだ」
念を押すように二回言われて、聞き違いではないのだと悟った花影は、息を止めた。
それは、永遠に自分には縁がないと思っていた言葉だった。
「驚いたか?」
「ええ」
「あんた以外は、みんな気づいているらしい」
「そんなこと……」
「信じないのは、あんたくらいだ」
胸が高鳴り、頭の奥がカァッとした。
いろんな感情が込み上げて、剥き出しになりそうになるのを花影は、必死に堪えていた。
(…………どうして?)
今、ここで自分の気持ちに気付いてしまったのか?
鵜呑みにしてはいけない。
ただ単に、凌星は罪悪感と恋愛感情がごちゃまぜになっているだけだ。
他の娘とは少し違う花影に興味を抱いていたかもしれないけど、それは物珍しさからだったはずだ。
……だから。
「…………花影」
名前を呼ばれて、ふと横を見ると仰向けになっていたはずの凌星が花影の方を向いていた。
すっと彼の手が伸びて、花影の乱れた銀髪を丁寧に直す。
暗がりの中でも、一際目立つ美貌。
澄みきった瞳のひたむきさが、組み敷かれたときよりも、花影には怖かった。
「………………貴方は、疲れているんですよ」
「………はっ?」
「慣れない環境で、疲れていらっしゃるんだと思います。お休みにならなければ……」
そこで、ぴたりと、彼の手が止まった。
「どうやら、信じていないようだな」
「……信じ……られたのなら」
「じゃあ、信じてくれよ」
「私も貴方も、疲れているのだと思います」
「結局、それかよ」
呟いたきり、凌星は口を噤んだ。
がっかりしたのだろう。
きっと、ここまで踏み込んだにも関わらず、頑なすぎる女だと呆れたのだ。
…………それで、良い。
その方が花影には、似合っている。
王宮行きを決めた時から、覚悟をしていたことが花影にはある。
―――いつまでも、彼の傍にいるつもりはないのだから。




