参 【月明かりの下で】
◆◆◆
――柳 周庵と会うことが出来ない。
花影は、困っていた。
すべてを知った今、花影は周庵の口から、詳しく聞いておきたいことがあった。
しかし、彼の健康状態はずっと不安定のままだ。
本当に体調不良なのかと、一度忍んで会いにも行ったが、事実、周庵は寝たきりで話すことすら、間々ならなかった。
それでは仕方ないと、一番の目的である、顛河の氾濫について、花影なりに対策を練りながら、大人しく待ってはいるが、王宮に来てから三十日余り。
後宮の妃と侍女が、どんどん実家に戻されているにも関わらず、黒頭巾の女が一人だけ、国王の私的空間でもある光和殿の一室で、寝起きしているのは、おかしな話だ。
花影のせいで、凌星の立場が悪くなるではないか……。
(せめて、図書搭であれば……)
図書搭の住人は、浮世の者ではない。
そういう意味合いで、王宮を見下ろす高い搭に住んでも良いと許可が出ている。
人であれば、王を見下すことなど許されるはずがないのだ。
だから、図書搭が花影には相応だと進言しているのに、凌星に聞き入れてもらえないので、今はもう諦めていた。
(でも、もういい加減、限界だわ)
河川工事をするのなら、光西の総力を結集させて、早急に動かなければならない。
識者たちも、それは分かっているはずなのに、頭でっかちで行動力がない。
(これ以上、もたついていたら、大変なことになる……)
過去の情報が切実に、花影にそれを訴えている。
金が足りないというのなら、あるところから搾り取るしか手はないのだ。
残酷な発想だが、むしろ……それが一番良い決着方法ではないのか?
「……満……月か」
ふと、眠気眼を擦っていたら、周囲が異様に明るいことに気づいた。
身の丈に合わない部屋だったが、格子窓から景色を見ることが出来るのは、幸運だった。
久しぶりに、夜空に目を遣りながら、光を際立たせている闇の方に花影は惹かれていた。
「花影……」
まさしく、自分は光と対を為す、影の存在だった。
流月は金で買った花影に、呪いをかけたのだ。
―――凌星の影として、生きろ……と。
(あの人は、叶うものなら、いつか……凌星殿を光西の王として擁立したかったんだろうな……)
今わの際に、流月はうわ言のように謝罪を繰り返していた。
彼女なりに罪悪感を抱いていたのだろうか?
そして、千李も……。
『ごめんなさい……。花影さん、本当にごめんなさい』
先日、声が枯れるまで、花影に謝ってくれた。
彼女は流月との契約を破る勇気がなかっただけで、花影が太子の身代わりになっているなんて、知りもしなかったのだ。
ある意味、今回の件の犠牲者にも等しい。
……それなのに、花影は彼女を赦すことも、慰めることも出来なかった。
「……一体、私は?」
掠れた声が、闇の中に溶けていく。
誰よりも、冷徹なのは花影の方かもしれない。
二人を恨んでなどいない。
むしろ、感謝しても良いくらいだ。
少なくとも、花影は見た目を隠すことで苦労をせず、衣食住が保証されていたし、たまに実の母に会うことも許されていたのだから……。
……でも、どうしてなのか。
時折、崩れてしまいそうな瞬間がある。
子供の頃から、少しでも母に気に入られたくて、懸命に勉学に励んで学司になった。
勉強が出来たら、いつも冷たい流月も、笑ってくれるだろう……と。
(………………馬鹿みたいだ)
頑張ったところで、何の意味もなかったのに……。
(……私は、凌星殿の身代わり人形だった)
思うほどに、花影の矜持が砕けていく。
たまに王宮ですれ違う凌星は、確かに華があって、どんなに花影が努力をしても敵わないような、天性の魅力を放っていた。
初めて出会った時に、目を逸らせなかった。
――圧倒的な光。
花影は月光の中に佇む黒ずくめの自分を見て、それを痛感していた。
今まで一度だって、光になりたいなんて、花影は願ったことはなかった。
いつだって、光は遠くて、触れることが出来ないものだと自覚していたから……。
けれど、光の存在を身近に知ってしまってから、永遠にそれに手が届かない自分を知ることは、ひどく惨めだ。
(きっと、凌星殿には届きやしない。あの人は私を通り過ぎて、先に行く人だ)
――と、そこに。
「やっぱり、まだ起きていたのか?」
「……ひっ!?」
たった今まで、花影の脳内にいた本人が、悪びれることなく自然に部屋に入ってきた。
「凌星……様?」
「だから、『様』は良いって言ってるだろ」
思わず赤面してしまったのは、こうして面と向かって会うのが、七日ぶりだからだろう。
しかし、この時間に彼と会うことは、非常識の極みだ。絶対におかしい。
「………いくら、太子様とはいえ、こんな時間に伺いもなく、勝手に部屋の中にいらっしゃるなんて、非常識ではないですか?」
「おいおい、久々に会って、その反応か? 伺いなんて立てたら、断るくせに。あんたの顔を見たいから、見に来たんだ。ここでは俺が一番偉いらしいし、このくらいは好きにさせてもらう」
ふうっと一息ついてから、凌星は花影の寝台に腰を掛ける。
なぜ、彼は寝台に行くのか……。
早速抗議しようとした花影だったが、確かに、卓上は紙に埋もれていて、椅子にまで紙の束が散らかっているので、花影以外が座るのは無理そうだった。
一人では広すぎると不満だったくせして、こういう時、身勝手に狭い部屋を所望してしまった自分に後悔する。
光和殿の大部屋だったら、寛ぐ空間も充分にあっただろう。
「しかし、こんな時間に……。貴方様の方が疲れていらっしゃるのではありませんか? 今日は『定議』もあったみたいですし、早々に休まれた方が良いのでは? 」
「ああ、まあ、眠い。……けど、とにかく、あんたに会いたくて、もう、限界だったんだよ」
「何をまた、おかしなことを仰っているのです?」
「じゃあ、おかしいことついでに……いっそ、俺と寝所を一緒にしないか? その方が俺も安心して休めるし、あんたも俺に色々と話が出来るだろ」
「………………頭は、大丈夫ですか?」
「俺は、本気なんだけど?」
「あー……はいはい」
もはや、子供の戯言と思って、受け流すしかない。
――会いたいとか、寝所を一緒にしたい……とか。
そんな言葉。
ただ何も考えていないだけなのか、計画的なものなのか、花影にはさっぱり読めなかった。
しかも、凌星はあろうことか、袍の襟元を寛げて伸びをした。油断のし過ぎだ。
花影は反面教師のつもりで、机の上に置いたままの頭巾を被ろうとしたら、じろりと睨まれた。
「何です?」
「俺とあんたしかいないんだ。それはいらないだろう?」
「貴方は私に、気を許し過ぎです。出会って、そんなに月日も経っていないのに、馴れ馴れしい。お互いのためによくないでしょう?」
「ここに来て、学司みたく先生面するなよ。あんたに気を許さないで、誰に気を許すんだ。ある意味、血縁より濃い繋がりだろう?」
「私は、最初に会った時と同じように、貴方と私は住む世界が違うと、再認識していますが?」
「しかし、俺は……見た目には出なかったけれど、エスティアの血が流れているらしい。あんたと一緒じゃないか?」
「私は、そういうことを言ったのではなく……」
……などと、話しているだけ、花影も馬鹿馬鹿しくなってきた。
凌星が気づかなくとも、花影の見立ては間違っていない。
――凌星は王になる。
当初は、疑心暗鬼だった諸侯の気持ちも、瞬く間に掴みつつある。
今日の『定議』も何の騒ぎかは知らないが、立派に凌星が収めたのだと、耳にした。
彼の受け答えの早さと的確な指示に官吏たちも感動しているようだった。
大々的に名乗りを上げていない分、立場はいまだに不安定だが、やはりただの市井の人間で終わるはずがない人なのだ。
(それを、この人自身が気づいていないなんて……)
花影には、それがとてつもなく、もったいないことのように感じられた。
「何だよ?」
「いえ……」
凌星の訝しげな視線から逃れるように、花影は机の上を片づけ始めた。
「顛河のこと……ありがとうございます。貴方のおかげで、私も末席ながら、議論の席に就くことが出来ました」
「ああ。話には聞いてるけど、金がかかるんだって?」
「ええ。堤防の補強をするのはもちろん、新たに堤防を作る必要性もありますから。大司天様が新しい堤防の作り方を考案されていらっしゃって、その堤防を築けば、下流にいく洪水の水量を減少させることができるそうです。私もその案には賛成です」
花影が凌星に広げて見せた紙には、その堤防の築き方が事細かく記されていた。
大司天から話を聞いた花影は、どうしてもその工程を自らの手で書き留めておきたくなったのだ。
「その図から見ても、大規模工事になるってことだろう?」
「はい。当然、この非常時に人手も財源もないことは承知しています。でも、急いで行わないと、間に合いませんし、二度手間になるくらいなら、今の時代に出来る限りのことをしておいた方が良いと思うのです」
「じゃあ、ひとまず……浅氏と休戦ってことか。俺が引っ込むって手もあるよな」
「まったく」
……二言目には、それだ。
『玄瑞がいる』
もはや、それが凌星の口癖となっていた。
冗談ではなく、彼が本気なところが、頭の痛いところだった。
「……凌星様。それがすでにできないことを、貴方様自身、分かっていらっしゃるでしょう?」
「どうしてだ? どうせ、陶のおっさんも、紫陽と俺の顔が似てるって理由だけで、俺を担いだんだ。俺じゃなくても、誰だっていいんだよ」
「そんなことはありません」
「じゃあ、他に策があるって言うのかよ?」
「それは………………今、考え中です」
「ほう……」
厚い雲の隙間から漏れ出した淡い月の光が、彼の整った容貌の輪郭を縁取る。
花影の考えなんて、見通していると言わんばかりに、口元に不敵な笑みが浮かんでいた。
「……考え中……ね。一刻を争っているって言う割に、あんたは常のように、落ち着いているよな。おかしな話だ」
「そうでしょうか?」
「何を企んでいる? 唯 花影……先生」
ぞくりと背筋が寒くなるような、低い声が飛んできた。
彼がそういうふうに、尋ねてくるということは、確信を持っているということなのだ。




