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稀なる姫は嫁ぐ

 滝のように流れる射干玉ぬばたまの艶めく黒髪を結い上げ、雫型の髪飾りを揺らし、簡素ではあるが質の良い着物を動き安いよう、見苦しくない程度に着崩した少女は、黒曜石の普段は涼やかな瞳を今は怒りで燃え上がらせていた。

「このバカ親父がー!」

「父親に向かってなんて言い草だ!このクソガキ!!」

 周りより数段高い場所に位置する御帳台の御簾を跳ね上げて、罵倒された少女の父親も怒鳴り返す。

 そのまま殴り合いでもはじめそうな少女と、その父親をハラハラと見守っていた周りの者たちが、慌てて引き離す。

「お二方、どうか冷静に!!」

「落ちつかれて下さい!帝も姫宮様も!」

「この状況で一体どう落ちつけって言うのよ!このバカ親父、絶対殺す!」

「てめえクソガキ‼言いやがったな!」

「何度でも言ってやるわよ!このバカ親父のバカ帝!その首、即刻すげ替えてやる!!」

「堂々と反逆宣言たぁイイ度胸だ!今すぐ処刑してやる!」

「おやめください!」

 悲鳴のような声を上げ、必死に制止する家臣たちに五体を抑え込まれながらも、シズクは父親でありこの国の帝である男に、噛みつかんばかりの剣幕だ。

「やめられるわけないでしょう!このバカのせいで今我がカムイ国は存亡の危機なのよ!!よりによってあの大陸の三大覇王の1人にケンカを売るなんて!!」

 カムイ国。世界に存在する6つの大陸。そのうちの1つ、ホウオウ大陸の領海の端に位置する小さな島国だ。どれくらい小さいかというと、あまりに小さすぎて、大陸はおろか近隣諸国の記憶にもあまり残らないくらいだ。ぶっちゃけ小さいというよりは、影が薄いと言ったほうが正しい国である。

 しかし、その影の薄さと領海の端に位置する島国であるがゆえに、つい5年ほど前まで大陸中で繰りひろげられていた大戦争にも巻きこまれることなく、平和に長閑に呑気に蚊帳の外を満喫していた唯一の国だ。

 そうやって、これからも影薄な島国ライフをのんびり続けていくはずだったのに、今や存亡の危機なのだ。

「このバカ親父のバカな発言のせいでね!」

 カムイ国、第三皇女シズク・カムイは帝でありながら、国を危機に陥れた父親を睨みつける。その目つきの険しさといったら、シズクの手に剣が握られていないのが不思議なくらいだ。

「ケンカなんか売ってねぇし、バカな発言もしてねぇよ。ちょっと話に食い違いあっただけだ」

「その食い違いが、見事にケンカを売る結果になってるのよ!!」

 現在、この世界の六大陸は3つに区分けされている。それは大陸の三大覇王と呼びなされる、3人の王がいるからだ。

 スヴェリア公国の公王、シュンリー王国の女王、ラスターシャ帝国の皇帝。この3人の王が5年前まで行われていた大陸中を戦場に変え、六大陸の覇権を奪い合う大戦争のなかで勝ち残り、六大陸を3つに分け、その3つの領土をそれぞれが治める事で停戦同盟を結び、戦争を終結に導いた王たちなのだ。

 今現在、スヴェリア、シュンリー、ラスターシャ以外の国々は、この3つの国の同盟国もしくは属国という形で国の存続や自治が認められている状態で、カムイ国はラスターシャ帝国の属国である。

 いわばカムイ国は、ラスターシャ帝国に自らの国の心臓を握られているに等しいのだ。もしラスターシャの不興を買うような真似をしたら、カムイは文字通り消されてしまう。地図からも世界からも、だ。

「それなのに……それなのに、このバカ親父と来たら!!」

 シズクは思い出すだけでもおぞましい、父親の愚かな所業に怒りで体を震わす。

「ラスターシャの皇帝相手に事実無根の大嘘をついてるのよ!」

 一月ひとつき前、ラスターシャ帝国の帝都アウロラでラスターシャの同盟国、属国の国王全てを呼び寄せての御前会議が行われた。

御前会議といっても、何か緊急の案件があったというわけでもなく、単に国同士のご機嫌うかがいに近い。

 その会議の小休止中に、某国の某国王が言ったのだ。

「ラスターシャ皇帝陛下もそろそろ妃を御迎えになる御年、もしよろしければ我が国の姫をお側にお召し上げ下さいませぬか?」

 その言葉を火種とし、他の国の王たちも

「いやいや我が国の姫を。教養があるので、陛下とお話も合いましょう」

「我が姫は目を見張る程に美しいのです。日々の激務でお疲れの陛下のお心を癒す花となることでしょう」

「我が姫は教養と美しさ、どちらも兼ね備えております」

「なにを言われるか。ラスターシャ帝国の近隣国であり、文化も似通っている我が国の姫こそ陛下の妃に」

「ラスターシャの最も旧い同盟国は我が国だ。故にこれからの国と国のためにも、我が姫をお召し上げ下さいませ」

 小休止のはずが、会議の時よりも熱の入った討論。どの国の王も、この大陸の三大覇王の1人であり、自らの国の上に位置するラスターシャ帝国の皇帝陛下とより近い関係になろうと必死だった。そのために、自国の姫を皇帝の妻にと薦めているのだ。もし姫が皇帝の妃となれば、ラスターシャ帝国との結びつきが強くなるだけでなく、皇帝の義父という立場にもなれる。それはラスターシャ帝国の次に、位置する大国になれることに他ならないのだ。

 カムイ国の帝は、戦争にも蚊帳の外だったように、この討論にも蚊帳の外だった。そもそも、先の大戦争にも唯一不参加だったカムイ国がラスターシャ帝国の属国になったのは、ラスターシャが領土としているホウオウ大陸の領海にカムイ国があったからであり、カムイの帝にしてみれば、ラスターシャ帝国が近隣諸国からも存在を忘れられているカムイ国を知っていた事が、まず信じられなかった。御前会議に呼ばれた事だって、半分夢じゃねぇのかな、コレ?くらいに現実逃避しているのだ。

 そんなふうに蚊帳の外だと思っていたから、言ってしまった。

「大陸の三大覇王の1人であるラスターシャ皇帝陛下ともあろう御方の妃になるのであれば美しい、教養がある、国が近い、付き合いが長い、それらだけでは足りますまい。むしろそうした事など比べるに値しない、稀なる資質を持つ姫君こそ陛下のお側にあるべきでは?」

大した考えもなく、何の気なしに、口からポロリと、言ってはならないことを言ってしまったのだ。

「カムイ国の帝はそのような姫に心当たりが?」

「いえいえまさか。まあそれに近い姫なら心当たりはありますが」

「その心当たりの姫と言いますと?」

「ウチの3番目の皇女です。親の贔屓目を抜きにしても稀なる姫で」

 さっき言ったこととは、全然違う意味でだが。そもそも親の贔屓目を抜きにしたって、あいつは姫らしくない。そういった意味での稀なる姫だ。

「ほう。それは是非ともお目にかかりたいものだ」

「はは、御安い御用ですよ」

 そこまで言って、カムイ帝はふと思った。

 今まで自分は、誰と会話していたのか?

 自分の事など誰も気にしていないだろうから、誰と話しているか、カムイ帝自身、気にしていなかった。

 そういえば、新参かつ小国で属国の島国の帝がベラベラ喋っているのに、誰も不敬とか無礼とか言ってなかったような、否、言ってなかったんじゃなくて言えない相手だったんじゃ……。

 嫌な予感に、背筋に嫌な汗が流れ落ちる。

 カムイ帝は、恐る恐る顔を上げた。

「ではカムイ国の第三皇女を余の側に頂けるという事でよろしいか?カムイ帝」

 ラスターシャ帝国皇帝陛下、アイズリンド・フリードリヒ・ラスターシャが有無を言わさぬ笑みを浮かべていた。

「つーわけで、シズク。お前ラスターシャ皇帝陛下様々に嫁いでこい」

「やっぱり死になさい!バカ親父ー!!」

「どうか落ち着かれて下さいませ、姫宮様!!」

 シズクを抑えている家臣たちは、この親子喧嘩にもう涙目だ。

 しかしシズクは、父親のバカ発言をどうしたって看過できない。

 確かにシズクは美しいとか教養とかそういった事とは完全無縁であり、父親だろうが帝だろうが容赦なく殺す死ねなどと怒鳴る稀なる姫だ。育ちのよろしい深窓の姫君様とは、全然違う姫だろう。

「けど、それはラスターシャ帝国の皇帝陛下が求めてるものとは全然違うでしょー!」

「だから言ったろ。食い違いだって」

「単に嘘ついてるだけじゃない!」

「仕方ねぇじゃねぇか。俺もまさか、皇帝陛下様がこんなちっちぇ影薄な島国の帝のひとりごとに耳を傾けてるなんざ、想像もしなかったんだよ」

「……っつ‼」

 怒りが強すぎて、もう罵倒の言葉も出てこない。

「いいじゃねぇかシズク、玉の輿だぜ?こんな島国にいたんじゃ味わえないセレブ妻生活を楽しめよ」

「ふざけないで!私は18になったら皇籍を国に返還して一般市民の戸籍をもらって、ごく普通の国民として暮らしていくつもりだったのよ!」

 カムイ国では18で成人となる。シズクはそれを期に、市井しせいくだるつもりだったのだ。もともとカムイ国は小さな島国だから、皇族と民との間に身分差という意識は薄く、皇族が市井にとももつけずに降りて来るということは、さして珍しくはない。シズクはなかでも市井に降りる事が多く、皇族であるよりも1人の国民として生きてみたいという思いがあったのだ。

「姫やめたいとか、我が娘ながらやっぱ稀なる姫だわ」

「うっさい!」

「まあ、悪いけどそれは諦めてくれ。じゃないとカムイ国はラスターシャ皇帝陛下をたばかったつーことで消えちまう」

「ううっ!」

 それはシズクにも分かっている。

 どんな形であれ、カムイ国の帝はラスターシャ帝国の皇帝陛下に自国の第三皇女をやると言ってしまったも同然の言葉を口にし、ラスターシャ皇帝陛下はそれを受けた。しかも同盟国、属国の王たちがいる前で、それなのにやっぱり駄目などと言えばカムイ国はラスターシャ帝国に消される。相手はこの大陸の三大覇王の1人なのだ。影が薄過ぎて戦争に参加しなかった島国とは、獅子と微生物並みの差があるのだ。

「……分かったわよ!!」

 民になりたかっとはいえ、シズクは今はまだカムイ国の第三皇女なのだ。国とそこに生きる民のために、皇女としての責任は果たさなければならない。

「いってやろうじゃない、ラスターシャ帝国。首洗って待ってなさいよ!ラスターシャ皇帝!!」

 ダンと床を踏み鳴らし、その場に仁王立つシズク、その立ち姿は歴戦の猛将もかくやといわんばかりだ。

 私はただの姫じゃないと教えてやる!!

「お前、戦争しにいくなよ。嫁にいけよ」

 カムイ帝と家臣たちは、自国の第三皇女の様にやっぱり国が消えるかもと表情を苦くした。

 船で5日、そこから馬車で更に3日かけてシズクはラスターシャ帝国にたどり着いた。彼女が持って来たのはわずかばかりの私物と身に纏う純白の花嫁衣装のみで、側付きすらいない。カムイ帝はもちろん側付きをつけるつもりだったが、シズクが拒んだ。

「バカ親父のバカ発言に巻き込まれて、遠い異国に行くはめになるのは私ひとりで充分よ!」

 こう言われてしまっては、カムイ帝も流石に強くは言えない。ならばせめて持参金や品々をもっと持って行け、と言ったのだが持参金はラスターシャ皇帝からいらないと前もって断りをいれられていたし、品にしたってカムイ国は小さな島国なのだから、いくら良い物を用意したところで、ラスターシャ帝国から見ればちゃちな物、逆に嘲笑を買いかねない。

 そのため、シズクのそれは一国の姫の嫁入りにしては珍しいほどに、質素な物になった。もともと目立つ事や華美な物を好まないシズクは全く構わない、とさして気にせずラスターシャ帝国の帝都アウロラに入ったのだが、ラスターシャ城に入城してからは流石に肩身が狭かった。

 別に、質素である事を後悔はしていない。

 ただ、ラスターシャ城が華やか過ぎた。大小の白と蒼の塔を集め、金で装飾された美しさと富と権威を感じさせる城に、シズクの質素な嫁入りは逆に目立った。

 目立つことが嫌で質素にしたのに、完全に裏目に出てしまったのだ。

 加えて、ラスターシャ城の人間たちの値踏みするような目と、聞こえよがしな囁き声。それは一様にシズクの髪と瞳に対してのもの。

 ラスターシャとカムイは遠く離れた異国。その差は外見にも強く現れていた。色はそのなかでも特に分かりやすい。

 ラスターシャの人間は色鮮やかな色をしている。髪が金色や赤だったり、目が青や緑である。

 対してシズクの髪と瞳は、夜闇の黒。カムイでは国民全てが持つ色として当たり前だが、黒髪と黒目などいないラスターシャにとってシズクのその色はただ不吉に思われたのだ。。

 これがカムイ国だったら、例え髪や瞳の色が自分たちと違っても気にしないのに。。

 シズクが言うのも何だが、カムイ国は王政の国にしては少し、いやちょっと……だい、ぶ…かなり……かなりおおざっ……いやいや、自由……そう!自由なところのある国だった。

 しかし、他国ではこの髪と瞳はどうしても目をひいてしまうのだろう。それも悪い意味で。

 こちらを見ている者のなかには、露骨に顔をしかめる者や嫌悪感を隠そうとしない者もいる。

 シズクは、花嫁衣装の長く広がる袖のなかで拳を握り、毅然と顔を上げる。

 負けるもんか…!

 存在すら忘れ去られていた、影の薄い小さな島国の第三皇女が、この大陸の覇権のひとつを握る三大覇王に名を連ねる皇帝の国で、侮られ愚弄される事くらい覚悟のうえだ。

 むしろ、それくらいのほうが良い。上手くすれば早々に離縁されて、カムイ国に帰れるかもしれない。国の立場として、シズク側から離縁など言い出せないが、ラスターシャ皇帝側から言われたなら問題はない。

 そもそも聞いた話では、ラスターシャ皇帝は26歳になるらしい。しかしシズクは15歳。歳の差は10歳以上だ。ラスターシャ皇帝にとって、シズクは幼い子どもにしか見えないだろうし、シズクにしてもラスターシャ皇帝はちょっと年上過ぎるかな、と感じるところがある。

 そんなことをつらつら考えている間に、広間に着いたようだ。今までシズクを先導していたラスターシャ帝国の侍女が一歩身を下げ、手で示す。

「こちらへどうぞ」

 そこには椅子が2つ並んでおり、そのうちの1つに座るよう、促される。

 見事な装飾のなされた豪奢な椅子。天使が刺繍された絹のクッション、椅子の脚や肘掛けに巻き付くような形で彫刻されているの薔薇、芸術関係には疎いシズクでもこの椅子が名のある職人の手で作られた物だという事くらい分かる。

 ……失礼致します。

 心の中とはいえ、一言言っておかないと、とてもじゃないが座る気になれない。

 むしろこの椅子は座る物じゃなくて、飾って眺めておくべき物ではないのだろうか。

 だが、とシズクは傍らの椅子を一瞥する。

 これはもっと凄い。

 まずシズクの椅子よりはるかに大きい。全体的に純金で出来ており、背もたれと座面に張られているのは深紅の天鵞絨びろうど、肘掛けの手指をかける部分には拳大程の大きさもある青玉サファイアが嵌め込まれている。そして至るところに施された繊細な銀細工。

 これに人が座るっていうの……?

 シズクは遠い目になる。昼間だというのに気分は既に黄昏だ。

 そんな彼女の頭上に突如、影が差した。そして側近くに感じる人の気配。気づけば、広間にいた侍女や臣たちは揃って膝をつき頭を下げていた。

「初めまして、カムイ国の姫宮殿」

 低い、しっかりとした声。そろりと顔を上げれば、そこには1人の男がいた。

 見上げる程の上背、背に流された獅子の鬣のような黄金の髪、がっしりとした逞しい体躯に纏うのは飾りボタンの多い詰襟の衣装に、足の線に合わせたズボンと皮素材のブーツ、背中を覆うのは深みのある色合いのローブ。そして隙を感じさせない所作に、なんといっても息を呑む程の覇気。

 こちらを見るのは、薄氷の青い、まるで猛禽のように鋭い目。

 分かる、誰に言われなくても。目前の男が名乗らずとも、この男がどんな存在なのか、分かってしまう。

 それだけの威が男にはあった。

「初めまして、ラスターシャ皇帝陛下」

シズクの挨拶に、ラスターシャ皇帝アイズリンド・フリードリヒ・ラスターシャは薄く笑んだ。

 結婚の儀は滞りなく進められた。しかし、その間夫となるラスターシャ皇帝と言葉を交わす事は全くなく、その後の披露宴でも、かわるがわるお祝いの言葉を述べてくるラスターシャ帝国の臣下や貴族たちに笑みを返すのに費やされた。

 そして、宴の終わりを見え始めた頃、シズクは年嵩の侍女にそっと退出をうながされた。

 シズクは深く息をつき、スクリと立ち上がる。

 逃げ出すことなどできない。自分はこの国の王の妻になる。そして、王の妻の役目は世継ぎを産むことに他ならない。

 だから、こういう事になるのは分かっていたし、覚悟もしていた。

 湯浴みをして寝巻きに着替え、後宮にある皇帝夫妻の寝所へと向かう。

 長く広い廊下には誰もおらず、ただただ静かだ。

 カムイ国でも今頃、寝る時間だろうか。姉様たちはまだ起きているかもしれない。妹は私が国を出るときにわんわん泣いていたけど、大丈夫かな。母様は体が弱いのだから、もう休んでいるといいけど。あのバカ親父は寝酒でも飲んでるのかしら。嫌な事があるといつもそうだし。自分でラスターシャ皇帝に嫁いでこいとか言ったくせに、いざ、その日になるとものすごく不機嫌になるんだもの。

 足を止めて、目の前の扉を見つめた。今夜から、ここがシズクの寝所になる。そして、王の妻としての役目を果たす場所だ。

 コツリと扉に額を押し当て、目を瞑る。1回、ゆっくりと深呼吸して目を開けた。

「行くか」

 扉を開けた。

 しかし、シズクは室内に入る事なく、ポカンとそこに立ち尽くす。かなり予想外な光景が、室内にあったからだ。

 そこには、こんもりと明らかに不自然に丸い真っ白いシーツをのせた、縦にも横にも大きな寝台があった。

 シズクは、思わず扉を閉めそうになった。

 なにあれ?なにこれ?え、え?ラスターシャ帝国では初夜にこんな事が起こるの?つーか、とりあえずさっきのシリアス返せ!

 心の中でセルフツッコミをしたところで、シズクはこめかみに指をやる。

 いやいや、落ち着け。あの感じは絶対シーツの中に人が隠れてるでしょ。気配も感じるし、ついでにいうなら、シーツの隙間からたっぷりとしたレースやフリルがはみ出てる。あれは間違いなく、ラスターシャの女性の衣装だわ。という事は、シーツの中で丸くなって隠れているのは女性かな。

 ……よし、それじゃあここで問題です。シーツの中の女性は、なんで皇帝夫妻の寝所の寝台の上でこんな状態になっているのでしょうか。

 考える時間は、私が準備を終えるまで!

 シズクは、そおっと部屋に入り音を立てる事なく扉を閉めて、その場で軽く屈伸をした。

 準備終了。じゃあ答えは……、

 シズクはバッと飛び上がり、寝台の上で丸くなるシーツ、中身は多分女性、に向かって、飛び降りた。シーツに突き刺さるようなシズクの両足、そして、呻きのような悲鳴。

「ぐはっあ!」

「本人に聞きましょうか!」

 ベッドから降り、シーツを一気に剥ぎ取れば、そこには痛みをこらえるように体をくの字にした女性が1人。

 レースやフリルで飾られた桃色の華美なドレスを纏い、赤茶の髪は丁寧に巻かれ、結い上げられている。年の頃は20歳を越えたくらいか。化粧の施された顔は、いかにも貴族の令嬢という感じだ。

 令嬢は腰周りを手で押さえながら身を起こし、ベッドから降りるなり、シズクを緑の目できつく睨みつける。

「こっの無礼者!やはり小国の島国から来た姫だけあるわね。いきなり、こんな乱暴な真似を!」

 皇帝夫妻の寝所に忍びこむのは、乱暴どころの話じゃないと思う。

「しかも、突然ベッドに飛びかかるなんて貴方本当に女性なの!?」

 私がベッドに飛びおりた時に、貴方も女性らしくない声を上げてたけど。

「貴方のような女、アイズリンド様にふさわしくないわ。わたくしのほうがずっとずっとふさわしい……そうよ、ラスターシャ帝国の大貴族シェルリブ家の令嬢である私を差しおいて、あんたみたいな女が……!」

 んん?さっきまで馬鹿みたいに理不尽なことを言ってたけど、ちょっと雲行きが怪しくなってきたかな?

「あんたみたいな女がラスターシャ皇帝の妻になるなんて間違ってるのよ!!」

 令嬢が振り上げた右手に握られている物が、鋭い銀色に煌めいた。それは間違いようもなく、シズクに突き立てられようとしている。

 しかし、シズクは焦らない。何故ならば、

「あの、動きが遅すぎるよ?」

 おかげで、軽々と令嬢の腕を掴めてしまえた。そして令嬢の手から武器を落とそうと、改めて右手を見る。

「なんでフォーク!? 暗殺するなら剣じゃないの?」

 いや、フォークでも人を殺せないとは限らないけど、だからって多分計画的な犯行であるはずのシズク暗殺未遂の武器がフォークというのは、流石にないと思う。それに、いくらなんでもフォークで殺されるなんて間抜けな死に方は遠慮したい。

「け、剣なんて、こ、ここっ、怖くて触れるわけないでしょう!!」

令嬢は顔を青くして、震えあがる。

この人、なんで私を暗殺しようなんて思ったんだろう……。 それに剣が怖いからって、なんでフォーク?同じカテラリーなら、せめてナイフにして欲しい。

 とにかく、一旦状況を整理しよう。

 令嬢の手から一応フォークを取りあげて、シズクは問いかける

「えっと……とりあえず、ここまでどうやって入って来たの?」

 ここはは城の後宮だ。しかも皇帝夫妻の寝所だ。王族以外のものは、無断で立ち入る事はできない。

「顔見知りの番兵に宝石を渡したのよ」

 武器(フォークを取られて観念したのか、令嬢はむくれながらも素直に答える。

「あなたの名前は?」

「なっ!ラスターシャ帝国の大貴族、シェルリブ家の令嬢であるわたくしの名を知らないというの!?」

「私にとって今のところあなたは、城の後宮の皇帝夫妻の寝所に忍びこみ、私を暗殺しようとした素人兇手でしかないの」

 令嬢は怒りなのか羞恥なのか、顔をまっ赤にする。

「……クロアナ・シェルリブ」

「クロアナ様、一応聞いて置きます。なぜこんな事を?」

 クロアナはギッと、シズクを睨み付ける。

「間違っているからよ! あんたみたいな島国の田舎娘が、我がラスターシャ帝国の皇帝であらせられるアイズリンド様の妻なんて許されないわ!アイズリンド様にはその地位と権威に見合った女性、それこそわたくしのような人間がお側にあるべきなのに!一体どんな狡猾な手段を使ってアイズリンド様に近づいたのよ!!」

「どんなって……」

 うちのバカ親父のバカ発言を使った、というか、それが原因というか。

 けれど、それを言ったところでクロアナは信じないだろうし、何より身内の恥を晒すのはシズクも嫌だ。

 どう答えたものか、と考えていたら

「それまでにしてもらおうか。シェルリブ嬢」

 唐突に声がした。驚いて振り返れば、いつ入って来たのか、そこにはシズクと同じく寝巻き姿のラスターシャ皇帝が、閉じた扉に背を預けるようにして立っていた。ひとつだけシズクと違うのは、彼がその手に短剣を握っている事だろうか。

「アイズリンド様っ!」

 クロアナは、先程までの嫉妬に満ちた表情が嘘だったかのように、顔つきを変える。目許を潤ませ、頬を僅かに赤く染めて、皇帝へと駆け寄った。

「アイズリンド様、やはりこのような女、アイズリンド様の妻になどふさわしくありませんわ。小国の島国の田舎娘で教養もなければ礼儀もなっていない。加えてこの醜い容姿!闇の髪と瞳、不吉で気味が悪い!きっとこの女はアイズリンド様のもとに災いを呼びます!」

 シズクは小さな拳を握りしめる。

 小国の島国の田舎娘と嘲られようと、教養がない礼儀がなっていないとそしられようと、それは別に構わない。本当の事だし、気にもしていないからだ。

 しかし、髪と瞳の色の事を言われるのだけは耐え難かった。なぜなら、この色はカムイの色だからだ。

 カムイ国の人間全てが持つ目と髪の色。それを災いを呼ぶ色などと侮辱される。それはカムイ国の人間全てに対する侮辱だ。

そのことが、カムイ国の第三皇女としてもカムイ国の人間としても悔しくてならない。

けれど、言い返すことができない。

カムイはラスターシャとは巨像と蟻ほどの差がある国なのだ。

ここでシズクが感情のままに言い返せば、ラスターシャとカムイの間に亀裂が入り、戦争につながる可能性がある。

考えすぎなどではけしてない。

シズクはカムイ国の第三皇女で、クロアナはラスターシャ帝国の大貴族シェルリブ家の令嬢、そしてラスターシャ帝国皇帝までもがこの場にいるのだ。

 だから、どんな侮辱でもどんなに悔しくても言い返してはならない。耐えなくてはいけない。

そもそもシズクがラスターシャ帝国の皇帝に嫁いだのは、嫁がなければラスターシャ皇帝の求めを拒否したとして、カムイ国が滅ぼされかねないからだ。

だから堪えるのよ、シズク。貴方がここにいる理由を忘れてはいけない。

シズクは拳を強く握りしめて、ひたすら耐えた。

クロアナはシズクがそうしている間にも、皇帝に訴えていた。

「アイズリンド様、今からでも遅くはありませんわ。どうか思い直して下さいませ。そしてどうか、このクロアナをアイズリンド様のお側にお召し上げください!必ずやアイズリンド様のためにお世継ぎを」

 クロアナが口に出来たのは、そこまでだった。

 なぜなら、皇帝が短剣を鞘から抜き放ち、その刃をクロアナの喉元に突きつけたからだ。

「陛下!?」

 これには、シズクも驚き声を上げる。

 しかし、短剣を突きつけられたクロアナは、シズクの比ではなかった。

「ア、アイズリンド……様……?」

 体は凍りつき、唇は震え、声は掠れている。顔はもはや死人のように色がない。

「シェルリブ嬢、貴方はどうやら御自分のなされたことが理解できていないようだ」

「わたくしの……したこと……?」

「城の後宮に入り込み、皇帝夫妻の寝室に忍びこんだあげく、ラスターシャ帝妃をその手にかけようとした。これは立派な反逆だ」

 シズクは目をみはり、クロアナは愕然となる。

「シェルリブ家の取り潰しはもちろん、貴方の身の安全も既に保証しかねる」

 皇帝は、王としての冷酷さをもって告げた。

「覚悟しておけ」

 時をおかずして、クロアナは皇帝が呼んだ番兵に捕らえられ連れていかれた。

 ここでやっと、寝所は今日結婚したばかりの若い皇帝夫妻のみになる。

 短剣を鞘に納め、手近なテーブルに置いた皇帝は、シズクに苦笑を向ける。

「結婚早々に散々な目に合われたな、姫宮」

「はぁ……」

 まるで他人事のような皇帝の口振りに腹も立たず、シズクは半端な返事しかできない。

「クロアナとシェルリブ家に関しては明日裁定する。姫宮も疲れただろうから、今宵はもう寝よう」

「あの、クロアナ様やシェルリブ家よりも城内の警備を考え直すべきかと」

 皇帝はシズクの言葉に虚をつかれた表情になるが、シズクはそれに気づかない。

「クロアナ様の私に対する暗殺未遂は正直どうしようもないほど杜撰でしたが、城内の後宮に入りこんだのは問題です。彼女は番兵に賄賂を渡して入れてもらったと言っていました。相手が帝国の大貴族の令嬢だったということもあるでしょうが、賄賂の受け取りで奥宮へ入ることを許した番兵がいることをまずどうにかすべきかと」

 シズクは一気に自分の考えを口にした後で、まじまじとこちらを見ている皇帝に気づいた。

 え、なに?何かまずい事言った?

「あの……陛下?」

 軽くたじろぐシズクに、皇帝は我に返ったように「ああ」と答え

「確かに姫宮の言う通りだ。城内の警備に関しても見直そう。しかし、シェルリブ家に関しても見逃す事はできない」

「それなのですが陛下、シェルリブ家の取り潰しやクロアナ様の事、どうかご再考を願います」

 これには皇帝も本気で驚いたのか、感情が分かりやすく表情に出てしまっている。

「何故だ?クロアナは貴方を殺そうとした相手だぞ」

 なのに、殺されかけたシズク本人がクロアナの助命を望むとは。

「まぁ、確かにそうなのですが」

 シズクは少々気まずげに片手に持っていた、それを皇帝に差し出した。

「フォークで殺されかけてもあまり腹が立ちません」

 むしろ、なんだか恥ずかしいくらいだ。怒りというのなら、目や髪の色を侮辱されたことの方が強い。

そして、皇帝はシズクが差し出したフォークを見て呆気にとられている。

 そんな姿を見ると、あの息を呑むような覇気が薄れて、彼自身の人柄が見えてくるように感じる。

「フォーク、フォークで暗殺……」

 皇帝はひとしきりそう呟くと、顔をうつむかせ肩を震わせはじめた。

「陛下?」

 シズクは皇帝の様子をうかがおうと歩み寄ろうとするが、その直前に、はじかれたように皇帝が顔を上げて、

「はっはははは!フォークで暗殺とは……っ!のシェルリブ家の令嬢が、このように愉快な女人だとは知らなんだ。ははっははは!」

 腹をかかえ、おかしくて仕方ないと大声で笑い出した。目に涙を滲ませ、頬はうっすらと朱を帯びるほどに笑い転げる皇帝に、シズクは唖然となる。

 なんだか子供みたい……。

 肩肘をはり、拳を握って嫁入りした自分が、馬鹿らしく思えてくるほどの爆笑っぷりだ。

シズクは強ばっていた体の力が、自然と抜けるていくのを感じていた。

「陛下、お水を」

「ああ、すまない姫宮。っくく!」

 なかなか笑いがおさまりそうにない皇帝に、シズクは寝所にあるクローゼットの上に置かれた水差しから水を硝子杯に注ぎ、彼に手渡す。皇帝は笑いながら受けとり口を付け呼吸を整えることで、ようやく笑いの発作がおさまったようだ。

「立ちっぱなしもなんだ。とりあえず座ろう、姫宮」

 皇帝が目をやったのが、寝台である事にシズクは一瞬固まる。

「安心しろ、話をしたいだけだ。流石に11も歳下の少女に対して無理強いする程、落ちぶれてはいない」

 子供を宥めるような口調の皇帝に、シズクは割と素直に寝台へと足を向けた。先程の、笑い転げる皇帝の様子に、拍子抜けしたというのもある。

 大陸の三大覇王のひとりということばかりに目を向け、彼を自分とは別世界の存在のように思っていたが、皇帝とて、愉快なことがあれば腹をかかえて笑う普通の人間だった。

 それがシズクを安堵させていた。

「まずは改めて、姫宮に詫びる。我がラスターシャ帝国の民が無礼をした」

「いえ、それは別に。それにクロアナ様の御気持ちも分かりますから。自国の王が国の貴族でも同盟国でもない、何の関わりもなかった小さな島国の小娘を妻にするなんて反感を買って当然です」

 これは気遣いだけでなく、シズクの疑問でもある。いくら稀なる姫という言葉に興味をひかれたからとはいえ、いきなり特に関係を結んでいなかった国の皇女を妻を求めるというのは、ちょっと考えられない。

 だからシズクは暗に問うたのだ。自分を妻に迎えた真実ほんとうの理由を。

 皇帝は、シズクのその意をきちんと気づいてくれたらしく、微苦笑する。

「姫宮は賢い」

「はっきり小賢しいと言って下さっても結構ですよ?」

「そのうえ気も強いか。三大覇王と称されるようになってから、そんなふうな物言いをされたのははじめてだ」

「それは最初こそ陛下の王としての覇気に圧倒されましたが、あのように笑うところを目にしては少し強気にもなります」

「少し、か?」

「少し、です」

 シズクは帝である父に容赦なく暴言を吐く姫なのだ。本来の気の強さは、まだまだこんなものではない。

「とにかく姫宮をなぜ妻に迎えたか、という問いに答えよう。まず私は歳が歳だ、もともと臣下たちがそろそろ妃を迎えろとうるさかったというのがひとつ。あともうひとつは、私がいかにも王族らしい貴族らしい女人を妻にしたくはなかったというのが理由だ」

「なぜですか?」

 シズクはよく分からず首をかしげる。

ラスターシャ帝国、それも三大覇王と畏怖される皇帝の妃ならば正統な王族や貴族の姫や娘のほうが国の権威を表せると思うのだが。

「私は側室の子だ」

「はい?」

 話がいきなり変わった事にシズクは戸惑うが、皇帝は「まあ聞け」と続ける。

「母は王族でも貴族でもない大陸を移動して暮らす流浪の少数民族で、たまたま諸外国の視察に出ていた先帝、つまり私の父と出逢い側室として城に迎えられた」

「先帝陛下のお目に止まるくらいなら、お美しい方だったのでしょうね」

 ラスターシャの人間に災いを呼ぶとまで侮辱される目と髪を持つ私とは違って、その言葉をかろうじて飲み込む。

今、言うべきことではないし、皮肉にしたって痛烈すぎる。いくらシズクが強気な性格をしていても、時と場所と空気くらいは考える。

「そうだな。息子の贔屓目を抜きにしても美しい人だったと思う。しかし、その美しさすらラスターシャの王族や貴族は気に入らなかったらしい。なにせ彼らに言わせれば、私と母は下々の血が混じった下賤の生まれというやつらしいからな」

 シズクは言葉を失う。

 生まれて来る場所は誰にも選べない。自分の意志ではどうしようもないことをあげ連ねて侮辱するなど、理不尽だ。

「 そんな、そんなのおかしい……」

「私もおかしいと思う。しかし、普通の王族や貴族はそういうものだ。生まれにこだわり血統を第一とし、そしてそれらを持ち得ない者を下賤と称し嘲笑する」

 その謂われなき中傷により、アイズリンドと母は王城で孤立した。唯一の後ろ盾である先帝ですら、周囲に流され、アイズリンドと母を守ってはくれなかった。自ら望んで側妃に迎えたにも関わらず、だ。

 ついに幼いアイズリンドを残し、母は心労を募らせ逝ってしまった。アイズリンドは独りで、王族や貴族の悪意に晒され続けた。

「先帝と正室の子であった兄が死ぬまでな」

 先帝と兄は、5年前まで続いていた大陸の大戦争の初期にあっさりと戦死し、自然に王位を継承するのはアイズリンドになった。そうなった途端、周りの態度が豹変した。

「昨日まで私の事を下賤の血をひく卑しい皇子と罵った奴らが、先帝の血をひく正統な王位継承者などと誉めそやし奉り上げて来る。正直、吐き気がしたものだ」

 いっそ国の王族貴族をまとめて処刑し、ラスターシャ帝国など滅ぼしてやろうかと激情にかられたが、できなかった。アイズリンドの激情に、何の罪もないラスターシャの民を巻き込む事はできなかった。

 その代わり、アイズリンドは八つ当たりのように大陸の大戦争に出陣し、他国を次々とラスターシャの属国として、気づけば大陸の領土の3分の1を支配していた。

「結果が大陸の三大覇王のひとりというわけだ。まあ、こういう理由で私は普通の王族や貴族に嫌気がさしている。だから御前会議で自国の姫を妃にと薦めてくる王たちにうんざりしていたところ」

「私の父の、稀なる姫という言葉につい飛びついてしまった、と」

「ラスターシャの同盟国友好国属国、全ての王が列席していた御前会議での発言だ。取り消すことなどできなかった。しかし、それで姫宮に不遇を強いたのは事実だ。本当にすまない」

 皇帝は何の躊躇いもなく、シズクに頭を下げた。

「……とにかく頭を上げて下さい」

 色々と納得いかない部分もあるが、皇帝が普通の王族や貴族の姫や娘を妻に迎えたくない理由には、同情してしまう。話を聞いただけのシズクとて、あまりの理不尽さに怒りがこみ上げてきた。

「姫宮。ゆえに私との夫婦関係は体裁をとりつくろってくれるだけで構わない。帝妃としての最たる役目である世継ぎの件も無論免除する。それでも故国から離され不遇を強くことには変わりないが、私のできる限りで姫宮にとって良き環境になるよう努めることは約束しよう」

「随分、私に都合の良い条件ですが、陛下はそれでよろしいのですか?」

「無論だ。此度のこと、姫宮は私の勝手に巻き込まれた被害者だろう」

 いや、もともと私のところのバカ親父が、うっかりバカ発言をポロリしたのがきっかけでもあるのですが。

 けれどシズクにとっては都合の良い、良すぎる条件には乗っておきたい。それに、世継ぎのことを免除されるというのはまだ15のシズクにとっては、すがりつきたいほどの待遇でもある。

「分かりました。それで構いません。私も陛下が王族貴族の方々から新たに妻をとの求めが出ない程度には体裁をとりつくろうことをお約束します」

 この婚姻は陛下だけでなく、ウチの父親のせいでもあるし。最初はさっさと離縁を申し出てくれればと思っていたが、仕方ない。

「それは助かる」

 皇帝は満足気に笑う。

「お互いの身の振り方が決まったところで寝ようか。流石に疲れた」

「そうですね」

 疲労を意識すると、急速に眠気が襲って来た。

「姫宮。申し訳ないが、同じベッドで寝ることは許してもらいたい。ここ以外に寝る場所がないのだ」

 それに初夜から夫となる皇帝と、その妻が別々の場所で寝ていたら体裁をとりつくろう意味がなくなる。

「わかり……ました……」

 眠気で口調がおぼつかなくなるが、なんとか答える。

 それに皇帝が小さく笑う気配がすると同時に、体が横たえられ布団をかぶせられた。

「おやすみ」

 子守りでもするかのように頭を撫でられたので、そこまで幼子ではないと言いたかったが、意識が眠りの中に沈んでいくほうが早かった。

 朝の柔らかな光が差しこんでくるのに、シズクの意識はゆっくりと目覚めていく。

 あれ?御簾じゃない。寝台も違うような……。

 窓から下がっている物が竹細工の御簾ではなく、布とレースで作られたカーテンである事、今まで横になっていた場所が自分がいつも寝ている寝台と違うことに気づき、シズクは首を傾げたが、傍らで眠っている男の姿に昨日の事を思い出す。

 そういえば、私昨日ラスターシャ皇帝に嫁いだんだっけ……。

 とりあえず寝台からは降りてみたものの、これからどうすればいいのかが分からない。身支度を整えたいのだが、顔を洗う場所も着物も一体どこにあるのか?

 周囲を見渡したシズクの視界に入ったものは、室内の机の上にある小さな鈴のようなもの。

 風鈴?

 いや違う。吊り下げるための紐がないし、指で掴めるほどの太さの取っ手のようなものがついている。

 これを使えばいいの?

 ものは試しと、それを手に取り鳴らしてみる。

 響いたのは澄んだ鈴の音。控えめではないが、騒がしくもないその音は、早朝の静けさを壊すことなく広がっていく。

 すると、程なくして足音が聞こえてきた。

 それが間違いなく、この寝所、ラスターシャ帝国では寝室というのだったか、を目指していると気づいた時には扉が開かれていた。

「おはようございます。帝妃様」

 現れたのは3人の侍女。そのうちの1人は、昨夜シズクに退出し寝室に向かうよう促した年嵩の侍女だ。

 どうやら、あの鈴は侍女たちを呼び出すためのものだったようだ。

「おはよう。あの……身支度を整えたいのだけど……」

 シズクがおずおずときりだせば、侍女たちは心得ております、とばかりに手にしているものを掲げてみせた。

 彼女たちがそれぞれ手にしているのは、洗顔のための水差しに盥、纏う衣装に装身具、そして化粧箱。

「さあ、帝妃様。陛下がお目覚めになる前に装いを整えましょう」

 侍女たちは心底楽しげに、シズクを寝室の続きの部屋へと誘った。

 アイズリンドは、自分が見慣れない寝室で目を覚ました事に首を傾げた。

 しかし、即座に自分が昨日結婚した事を思い出し、この状況に納得すると共に疑問を持った。

 昨夜、一緒に眠ったはずの少女が傍らにいない。さてどこに行ったのか?

 その疑問は、すぐに解消された。

「帝妃様。べにはこちらの薔薇のものなどいかがでしょう?」

「あら、こちらのリコリスの紅のほうが今日のお召し物に合いますわ」

「御爪には椿、それとも薄紅にいたしましょうか?黄金や紺碧などもいいですわね」

 扉を1枚隔てた寝室の続きの部屋から聞こえる、侍女たちの華やいだ声。

 年若い、アイズリンドからすれば幼いとすらいえる異国の姫を飾り立てることに、侍女たちは夢中らしい。

「控えめで。華美にしなくていいから……!」

 姫の制止する声が聞こえているのかどうか、怪しいくらいだ。

 アイズリンドは苦笑しつつ、部屋の扉を右拳で軽く叩いた。

「私だ。入っても構わないか?」

 足音がして扉が開かれる。開かれた扉の側や鏡台の近くで、侍女たちが身を低くし頭を垂れていた。

「おはようございます。陛下」

 鏡台の前に置かれた椅子から立ち上がったアイズリンドの妃である少女は、少しばかり安堵したような笑みを浮かべている。

 普通の姫や令嬢ならば嬉々として、もしくは気合いを入れて行うであろう身支度が、彼女には相当に苦行だったらしい。

「おはよう。ひ……帝妃」

 姫宮と言いかけて、言い直す。

 2人だけならともかく、人目がある時はこちらの呼び方のほうが良いだろう。

 アイズリンドがシズクを妃と呼ぶことで、彼女が妻としてアイズリンドに認められていると周囲は思うはずだ。

 聡明な彼女はそれを悟ったらしく、呼び方については何も触れずこちらに歩み寄って来た。

「陛下も身支度をなさいますよね?私はあと髪を隠すだけですので、どうぞこの御部屋をお使い下さい」

 髪を……隠す?

 シズクが当たり前のように告げた言葉の意味が分からず、彼女の身支度を手伝っていた侍女たちに視線をやると、彼女たちは困ったように目を伏せる。

「帝妃。髪を隠すとはどういう意味だ?」

「ラスターシャの方々に御不快な気分を与えるようでしたから。この黒い髪。あ、目のほうも隠さないといけませんよね。いっそのこと頭から被衣かづきでもかぶった方がいいかしら?」

カヅキ、がなんなのかアイズリンドには分からないが、ラスターシャ帝国でいうベールのようなものだろうか?ならそんなものは必要ないだろう。

「私は不快になど思わないがな。帝妃の髪は雲のかからない晴れた夜空と同じ色をしている。そして目はセンタンの実のようだ」

 もう一度、鏡台の前に立ち鏡を覗き込むシズクにアイズリンドがかけた言葉は、はっきり言って誉め言葉とは言えない。

 侍女たちは自らの王の余りにも気の利かない発言に、もう少しマシな物言いがあるだろうと、怒りで顔を赤くしたり、帝妃が腹を立てるのではないかと蒼白になったり、それらの苛立ちや危惧を通り越して呆れ返ったりと、様々な反応をしている。

 アイズリンドは別段、シズクを傷つける気もなければ誉めたつもりもなく、彼女が髪や目を隠そうとする事がただ単純に不思議で、アイズリンドはなにも不快には思っていないと伝えるために、彼女の髪と目に対して自分が感じた事を率直に口にしただけなのだ。

 けれどそれは何か失敗だったのか、侍女たちの視線の温度がやたら冷たい。背中にチクチクと氷の針を刺されている気分だ。

 当のシズクも、先程から何も言わない。

 どうしろというんだ、と半ば投げやりになりながら鏡越しにシズクの表情を確かめようとすると、そこには虚をつかれたように目を瞠る、幼い姫がいた。

「帝妃?」

 思わず呼びかけると、シズクは我に返ったように肩を揺らした。

「あ、えっと……はい。 陛下がそのように仰せなら髪も目もそのままに致します」

「……そうか」

 よく分からないが、シズクはアイズリンドの言葉を悪いほうには受け取らなかったらしい。

 わずかに頬を赤くし、しきりに瞬きを繰り返しながら、自分の手で髪をひとつに結い上げようとしている。

 もちろん、シズクのやろうとしている事に気づいた侍女たちに阻止されて、今度は髪型をどうするか、目許に色をいれるなら何色が良いかという話が始まってしまったが。

 俺の身支度は、まだ無理か。

 そう判断したアイズリンドは、自室で着替えようと部屋から出て行く事にした。

 ああ、驚いた。

 シズクは部屋を出て行く皇帝の背中を横目で見ながら、静かに息をつく。

 この髪と目を、あんな風に評したのはラスターシャ帝国では彼がはじめてだ。ラスターシャ帝国に来てから今までシズクの髪と目を見た人々は、気味が悪いと顔をしかめるか、昨日のクロアナのように災いを呼ぶと陰口を叩くか、そうでなければ好奇の目を向けてくるか、のどれかだった。なのに、皇帝は。

 晴れた夜空とセンタンの実のようって……。

 センタンとは寒さ厳しい雪の中でも、黒い実を枝につける植物の事だ。ちなみに薬でもあり、センタンの黒い実を煎じて飲めば、腰痛や肩こりに効く。

 そんな雰囲気もへったくれもない実が生っている、冬場の風景のようって言われてもね。

 心中ではそんな風に呟きながらも、シズクの表情は柔らかい。

 皇帝はきっと、ありのままに思った事を口にしただけだ。あれはそういう言葉だった。

 それは、嘘偽りが無いという事。

 つまり彼は、この黒い髪と目を気味が悪いとは、全く思っていないという事だ。

 それがシズクを驚かせ、同時に彼女の心を暖かくした。

正直なところ、髪や目の色を隠すなどしたくはなかった。ラスターシャの人間にどう思われようと、これはカムイ国の人間の色であり、それを侮辱されればシズクは怒りを感じ悔しく思うのだから。

けれど、ラスターシャの人間との間に亀裂を生むのであれば仕方ないとあきらめていた。

けれど、皇帝が必要ないと言ってくれた。

 背後でシズクの髪型をどうするか、髪に飾る物は何が良いか、目許にいれる色を何にするか、議論している侍女たちに告げる。

「結い上げるだけでいいから。目許も何もしなくていい」

「そういう訳には参りません!」

 侍女たちは、声を揃えて訴える。

「じゃあ、髪飾りはひとつかふたつならつけてもいいから髪型はそんなに凝ったものにしないで。目許も色はいれないで」

「ですが……」

 まだ納得できない侍女たちに、シズクは苦笑する。

「陛下が髪も目も隠す必要はないと仰って下さったから、出来るだけ手を加えたくないの」

「帝妃様……」

 それならば仕方ない、と侍女たちはシズクの髪に櫛を通し始めた。

 とても残念そうな顔に、ちょっと悪かったなとも思ったが、シズクは口にした言葉を撤回する気は起きなかった。

 夜空の髪とセンタンの目か……。

 飾らない感想だ。

 その感想の持ち主の前で、私の髪と目を隠すことも飾ることも、無意味だ。

 それならいっそ、この髪も目も彼の前でなら、そのままで構わない。

 ラスターシャに来て、はじめて、そう思えた。

 身支度を終えたシズクは、侍女たちに連れられてダイニングに向かった。

 ダイニングは庭に面しており、朝露に濡れた色彩豊かな花々が柔らかな朝日を浴びている。

 ダイニングでは皇帝が既に席についており、シズクがやって来たことに気づくと顔を上げた。

「来たか、帝妃」

 皇帝は詰襟の銀灰色の衣装を纏っている。一見質素に見えるが、飾り釦や胸元に垂れる金のモールには繊細な意匠が成されていた。

「申し訳ありません陛下。私が身支度を終えるのに時間がかかってしまったから、別室で身支度をなされたのですね」

「構わん。女人は身支度に時間がかかるものだろう。それよりも朝食にしよう、ラスターシャの食事が帝妃の口に合えば良いのだが」

 皇帝がダイニングの扉に視線をやると、それを待っていたのか真っ白なシェフコートを纏ったシェフが、朝食を載せたワゴンを押しながら現れる。

「おはようございます。陛下、帝妃様。朝食をお持ちしました」

「ありがとう」

 シズクはシェフに礼を言うと、ワゴンに載せられたカトラリーやグラスを手に取り、繊細なレースが美しいテーブルクロスのかけられた飴色のテーブルへと運んでいく。

「失礼します。陛下」

 断りを入れ、皇帝の傍らからカトラリーやグラスを並べ、次に自分の席にも同じように並べる。

 そして、今度はグラスに水を注ごうと硝子のポットを手にしたところで、シェフが声を上げた。

「て、帝妃様!そのような事は私がやります。帝妃様はどうぞお席にお座り下さい」

「え?」

 見れば、シェフは今にも卒倒しそうな顔をしている。侍女たちも似たような表情だ。

 試しに振り返ると、皇帝はその瞳に興味深げな色をうかべて、シズクを見ている。

「えっと……カムイ国では食事を運ぶまでは料理番がしてくれたけど、給仕は自分たちでやっていたから、ここでもそうしたのだけど……」

 それはカムイ国の帝たる父でも、同じことだった。

 だが、ラスターシャでは違うようだ。

 シェフや侍女たちはとんでもない、と今にも悲鳴を上げそうだ。

 これ、皇族わたしが時々料理してたとか、うちのちちおやが食事のときにご飯よそう係だって言ったら、どうなるんだろう……?

 というか、この状況をどうしたらいいのやら。シェフや侍女たちの未知の生命体でも見ているような視線が結構きつい。

 その状況を変えたのは、低い声音の呼び掛け。

「帝妃」

 皇帝が、グラスを掲げる。

「水をもらえるか?」

 その目はシズクと、彼女が自分が両手に持ったままの硝子のポットを順番に見やる。

「……はい!」

 シズクは皇帝の側へと足早に駆け寄り、グラスへ水をそそいだ。

 皇帝はそれに礼を述べると、シズクの手からポットを取る。

「帝妃のグラスには私がそそごう」

「陛下っ!?」

 シェフが血相を変え、侍女たちは目を剥いた。

「良いではないか。帝妃の国の食事の作法、私は気に入ったぞ」

「ですが……」

 納得できない様子のシェフに、皇帝は少し語気を強める。

「帝妃は昨日、嫁いできたばかりなのだ。いきなりラスターシャの様式になにもかもを合わせろ、というのは酷であろう」

「はっ……しっ失礼致しました!」

 皇帝の様子に、シェフは声を震わせながら体を2つに折り曲げるようにして下げた。どちらかといえば、シェフ寄りの反応をしていた侍女たちも、同じように頭を下げていた。

 その顔から血の気を失せている。

 シズクは、少し焦っていた。

 自分が不用意に故国の作法で動いたのが原因で、シェフや侍女たちが皇帝に叱られ彼に恐怖し、皇帝と彼らの間に溝を作ってしまった。シェフや侍女たちは自分の仕事をやろうとしただけであり、皇帝もシズクを気遣ってくれただけなのに。

「あっあの、じゃあ交代制にやりませんか?」

 この場をなんとかしようと思って、出た言葉がそれだった。

「帝妃様、交代制とはどういう事でしょうか?」

「私とシェフと侍女たちで交代しながら、配膳と給仕をするんです。例えば今日は私がやって、明日はシェフ、明後日は侍女たちとか。朝食はそんなに量も多くないし、賓客と取ったりすることも少ないでしょうから。これなら私は故国の作法を守れるし、シェフや侍女たちも仕事を取り上げられることもない。ほらこれで問題解決!」

 無理やりどころか、無茶苦茶である。

 それはシズク自身が、もっともよく分かっていた。

 でも他に方法思いつかないんだからしょうがないじゃない!私の頭はナガレ姉様みたいに良くできてないの!

 姉妹のなかでもっとも賢い2番目の姉の姿を思い出しながら、心中でヤケクソ気味に開き直る。

 ちなみにもっとも異性に人気があるのが1番目の姉のミズノで、もっとも美しいのが妹のアマネだ。

 言うまでもないことかも知れないが、シズクはもっとも変わっていると言われていた。

 そんな変わり者の提案に一同はすぐには反応しなかった。

 シェフと侍女たちは、言葉もないという言葉を体現している。皇帝は……あらぬ方を向いて肩を震わせていた。

「へ、陛下……?」

 シェフは先程、皇帝に恐怖していた時よりもさらに顔色を悪くして、恐る恐る声をかけた。

「っく、ははははっ!交代制、交代制ってなんだ!?あはは!」

 交代制は交代制です。それにしても陛下、あなたは昨日の夜といい今といい、意外に笑い上戸なんですね。

 顔を片手で覆いながら笑う皇帝に、シズクは少し呆れたが、シェフや侍女たちは地獄の王にでも出くわしたかのようだ。

「せっ、せっかくの帝妃の案だっ。採っ用しようっ。ははっ」

「……ありがとうございます」

 そして笑いを納めなさいよ、このヤロウ。

 食事を終えたシズクは、帝妃の間に案内された。

 昨日は、婚儀のあとそのまま寝室に向かったため、帝妃の部屋に入るのは今日がはじめてだ。

 さすが、ラスターシャ帝国の妃の部屋というべきか。室内は、女性が好みそうな華やかな模様が描かれた壁に天井、そして金とダイヤモンドのシャンデリア、カーテンは花のレースのものと、見事な刺繍がなされた絹のもの、家具も全て一級品だ。

 しかし、シズクはその華やかさに喜べる普通の姫ではない。

 ……今日からここが私の部屋になるわけ?

 なんだろう。この、自室なのにちっとも心休まる気がしない感は。

 侍女に促されるままソファに腰かけこそしたが、どうにも座りが悪い。シズクはそわそわした気分を落ちつかせるために、侍女にお茶が欲しいと頼むと彼女たちは嬉々として動き出す。

 そういえば、身支度を整えるときも侍女たちはカムイの衣装の着せ方が分からない、と困っていたからシズクは1人でさっさと着がえた。そもそもシズクは誰かに服を着せてもらうなんてことが、まず気恥ずかしかったので、これ幸いと思った部分もあった。その後の髪や朝食の件でも、結果的にシズクは彼女たちの仕事を奪ってしまった。

 だから、シズクのお茶が欲しいなんて、ささやかな頼みが、侍女たちを喜ばせた。

 年若い女主人から、はじめてきちんとした仕事を与えてもらえたのだ。

 侍女たちの様子に、シズクは少し思い直した。

 自分でできることは自分でやる。カムイではそれが普通だった。正直、そのやり方を変える気は今のところ起きない。

 けれど、これからは少しずつ侍女たちにも頼っていこう。何せ、シズクはラスターシャのことがほとんど分からない。そのうえ、味方と呼べる人間は、とても少ないのだ。その事実を踏まえたうえで、侍女たちの様子を振り返ってみれば、彼女たちはシズクに好意的に接してくれる貴重な存在だ。

 ならば、シズクとしても、その好意に応えたい。

 芳香の漂うお茶だけでなく、形良く切った果実の盛り合わせまで出してくれた侍女たちに、シズクは声をかけた。

「良ければ、ラスターシャの様式や作法について教えてもらえるかしら?」

 侍女たちは一度、顔を見合わせた後、笑顔で声を揃えた。

「わたくしたちでお役に立てるならば喜んで」

 そして、床に膝を付き右手を心臓の上にやり、頭を垂れ首筋をシズクに見せた。

 それは、ラスターシャにおいて主に命を尽くして忠誠を誓う事を意味する礼だった。

 これだけは絶対に覚えているべきだ、というラスターシャの作法について一通り教えてもらったシズクは正直、頭を抱えたくなった。

 まさか、ラスターシャの高位の女性たちの嗜みが、ここまでインドアだとは!

 お茶会、パーティー、舞踏会、ラスターシャの女性たちが外出する理由などそれくらい。普段は自邸で侍女とおしゃべりをしたり、テーラーや宝飾職人を呼んでドレスやアクセサリーを購入したり、礼儀作法を学んだり、読書をしたり、楽器を弾いたりするそうだ。

 ちなみに、国が市井の民たちのために行うお祭りなどには参加しないのが普通らしい。

 曰く、高貴な身分の女性が下々の者たちの前に姿を見せるなど、あり得ないらしい。

 剣を振るうことも、馬に乗ることも、国のお祭りだけでなく民たちが行うお祭りにだって、当然のように参加していたシズクには、ちょっとどころかものすごく窮屈な現実だ。

「剣はともかく、馬に乗らないとは思わなかった」

「ラスターシャの女性たちは市井の者なら徒歩。高貴な身分の方なら馬車で移動されますから。特に高貴な方は、馬そのものを怖がりますので」

「そうなの、3人も?」

「いえ、私たちは平気です」

「流石に乗れはしませんが」

「別に怖いとは思いませんね。家も一般階級ですから」

 年嵩の侍女は皇帝が幼い頃からこの城にいたのだが、他の年若い侍女2人はつい3ヶ月程前から城に勤めはじめ、その前は貴族の屋敷で働いていたそうだ。

「ですから、帝妃様のお側でお勤めするように言われた時は驚きましたわ」

「ええ。城に来て日の浅い新人の私たちがまさかそんな大役をって」

「大役なんてそんな大げさな……」

「まあ帝妃様ったら。帝妃様にお仕えできるなんて、私たちにはただただもったいないばかりですのよ」

「帝妃様は奥ゆかしくていらっしゃるのですね」

 シズクが奥ゆかしいなんて、父親に聞かれたら横隔膜が痛むくらい、いや呼吸困難におちいるまで爆笑するに違いない。

 それに、おそらく2人の侍女がシズクに仕えるよう命じられたのは、新人だからこそだ。

 城で勤めはじめてそれなりに時間の経っているって侍女たちは、既に貴族たちと、太いか細いかは別にして、関係を結んでいる。だとしたら、その貴族たちに命じられてシズクを害することもあるかもしれない。

 直接手を出すのは気がひけても、助力だけならという人間は多いはずだ。

 昨夜、門番がクロアナを後宮に侵入できるよう、手引きをしたように。

 だからシズクの側には、貴族とまだ関係を結んでいない新人でなければならなかった。

 しかし、新人だけでは城内におけるシズクの立場が弱くなることは必然だ。田舎の小国から嫁いできた妃なら、尚更だ。

 そのため、城に勤めて長い人間も必要だ。

 それが年嵩の侍女。シズクに付けても問題ないと判断したのは、皇帝だろう。

 ならば彼女は、きっと皇帝の信頼厚き人なのだろう。

「ねぇ、アリー。アリーは陛下にお仕えしていたの?」

 試しに年嵩の侍女、アリーに問うてみる。

「そうでございます。陛下と陛下の母君であらせられた側妃様にお仕えさせて頂きました」

「そうなんだ。じゃあ陛下のことも良く知っているのね」

「そうですね、他の侍女たちよりは。けれど陛下のあんなお顔は始めて見ました」

「あんなって?」

「笑顔です」

 笑顔?

シズクは、虚をつかれた。

 昨夜も含めて、シズクは皇帝は存外よく笑う人だという印象を持っていたからだ。

 けれど、アリーには違ったようだ。

「陛下があんなふうにお声を上げてお笑いになる姿など、はじめて目にしました。ご幼少の頃から聡明な分どこか達観しておられて、側妃様が身罷られからはほとんど笑わなくなってしまい、即位なされてから厳しいお顔しかされなくなったので……ですからあんなに笑っている陛下を見るのは、はじめてでしたわ」

 アリ-は、目許に涙をにじませてすらいた。

「そうなの……」 

 私は望んで嫁いできたわけじゃない。けれど、陛下は私に対して良い環境を作ろうと気遣ってくれている。

 なら、私もそれに応えたい。

 陛下が少しでも笑っていられるように、それが見せかけであっても、帝妃である私の仕事なのかもしれない。


 アイズリンドは、人払いを済ませた執務室で男と向き合っていた。

 背もたれに絹をはった飴色に光る椅子に腰かけるアイズリンドと、執務机を挟んで立つ男は血の気のひいた顔で体を震わせていた。

「……さて」

 アイズリンドがそう口にしただけで、男はビクリと体を大きく揺らした。

 アイズリンドは内心、笑ってしまう。

 目の前の男は、父と兄が生きていた頃アイズリンドをもっとも軽んじていた相手だったというのに、今はアイズリンドの一挙一動に激しく動揺している。

 まあ、ただ高貴な血のみだけで重臣の地位を頂いていた、中身のない大貴族だ。

 俺としては、これを機に任を解き、城から出してしまってもいいのだがな……。

 アイズリンドの心中に、年若い帝妃の姿がうかぶ。

 自分は彼女と約束してしまった。

「シェルリブよ。なぜ呼ばれたのか分かっているか?」

「我が娘が……昨夜起こした帝妃様に対する、暗殺未遂の件か、と……」

「理解しているようで何よりだ」

「陛下……っ!」

 昨夜、姫宮を襲ったクロアナ・シェルリブの父であり、ラスターシャ帝国大貴族シェルリブ家の当主は弁明しようと口を開いたが、アイズリンドはそれをさせない。

「貴様の娘を後宮に手引きした番兵は、既に捕らえ牢に送った。皇帝の妻の暗殺の手助けをしたのだ。人生の半分以上を牢で過ごすことになるだろう」

 シェブリルは、言葉もなく凍りつく。

 これでもかなり軽い刑だ。

 本来なら死罪が妥当なところを、牢に入れただけなのだから。

「そしてタチアナ・シェルリブひいてはシェルリブ家の処罰だが、クロアナは死刑、シェルリブ家は断絶がしかるべき刑だと余は思っている」

 シェルリブの顔色は青を通り越して土色だ。くわえて、クロアナの死刑ではなくシェルリブ家の断絶を口にしたときに、顔色を変えたのが気に障る。

 娘の命より家が優先か。

 こんな人間が親とはクロアナに同情したくなる、だが、こんな人間が親だからこそ、クロアナがあんな人間なのかと思うと同情する気も失せた。

 やっぱり潰すか。そんな考えが頭をよぎったが、帝妃の顔とフォークを思い出すと苛立ちが消え、笑いがこみあげてくる。

 それが知られないように、意識して顔を厳しくする。

「だが、それに殺されかけた帝妃が異を唱えた」

「帝妃様が、でございますか?」

「そうだ。ゆえに、今回クロアナの死刑とシェルリブ家の断絶は無しとする」

 シェルリブは、あからさまに安堵していた。

「しかし不問とはいかぬ」

「え?」

 まさか無傷で済むと思っているのか?ずいぶんとめでたい頭をしているものだ。

「クロアナ・シェルリブは今後一切、城への登城を禁止する。城で行われる晩餐会、舞踏会はもちろん礼典、祭典、儀式、それら全てに参加することも禁止だ。そしてシェルリブ家当主、貴様は今の任を解き降格とする」

「そんな!?」

 シェルリブは悲鳴に近い声を上げる。

「娘の死刑と家の取り潰しの方が良いか?余としては、そちらでも構わんぞ」

 アイズリンドの斬りつけるような声に、シェブリルは息を呑み竦みあがる。

「これ以上の反駁は許さぬ。下がれ」

「……はい」

 シェブリルは、それでも何か言いたそうな顔をしていたが大人しく下がっていく。これ以上、言葉を重ねれば更に自分の望まない形になると思ったのだろう。

 地位を守る術くらいは心得ているか。流石、大貴族という地位に固執しているだけはある。

 アイズリンドは、その背に釘をさしておく。

「貴様の娘と家の命が続くのは、我が帝妃の願い故だ。けして忘れるな」

 逆恨みで、これ以上あの姫宮がラスターシャで害をこうむるのは御免だ。

 ただでさえ、アイズリンドの勝手で彼女は望まぬ帝妃しごとをやっているのだから。

 クロアナ・シェブリルがしでかしたことは内密にされていたが、皇帝に近づくために何かと理由をつけて登城していた彼女の姿を城で見かけなくなったこと、彼女の父であるシェブリル家当主が降格されたことで、何事かあったのかだろうと推測することは誰にでもできた。

 それに異国からやってきた帝妃が関わっていることも。

 ラスターシャの臣達は、自国の皇帝が年若い帝妃をことのほか気にいっていることを察し、喜ぶ者と焦る者にわかれていたが、どちらにせよ皇帝の寵愛がある以上、下手に帝妃に手を出すことは己が身を滅ぼすことになると理解し、意外にも帝妃の周囲は穏やかなものになっていた。

 てっきり、嫌味や皮肉の押収や暗殺が日常茶飯事になると思っていたんだけどな。

 シズクはいささか拍子抜けした感をいなめなかったが、平穏に過ごせることは素直にありがたかった。

 これも陛下のおかげなのかしら。

 皇帝ができるだけ笑っていられるように、帝妃として仕事すると決めたはずなのに、シズクのほうが皇帝に助けてもらってばかりなことが申し訳ない。

 今の私にできることなんて、カムイの話をするくらいだもんな。

 見せかけの帝妃であるため、2人でいるときは国に関することや政治の話をすることが多く、今のところ、それが2人がもっとも話しやすい共通の話題であった。

 皇帝自身もカムイについて知りたがっており、シズクにしてもラスターシャの話を聞くのは自身のためになったからだ。

「カムイはやはり漁業が主だった収入源か」

「そうですね。島国ですし、カムイの周囲の海でしかとれない魚もありますから」

 そうして取れたものを市で売ったり、食事処に卸したり、自分達の家の食料とするのだ。

「他国に売ったりはしないのか?カムイでしか取れないものもあるのなら稀少価値もあり高値で売れると思うが」

「カムイは基本的に他国に関わろうとはしません。他国と同等に渡り合える国力がないことも原因のひとつですが、国内で自給自足する形でも生活していけるから、外交や貿易に積極的ではないんです」

 なんせ、影の薄い小さな島国だ。できることもやれることも限りがあり、他国と関わっても不利益なことの方が多い。

「そういう意味でなら外敵に弱いと言えます」

「そうか。国の軍備体制はあまり整っていないのか」

「戦上手のラスターシャとは比べるべくもありません」

 条件によるけれど、と心の中で付け加える。

 国の軍備は、外敵から民を守るための国の生命線だ。シズクと皇帝が互いに、互いの関係をできる限り良好にしたいと思っていても、おいそれと話すことは出来ない。

 皇帝もそれを理解しているらしく、それ以上は聞こうとせず、別の話をふる。

「姫宮は民の暮らしにも精通しているようだが、なにか理由があるのか?」

「理由と言いますか……昔から市井に降りて、民と過ごしていましたので、自然と」

 皇帝はシズクの言葉にピタリと固まり、しばらく沈黙して、口を開いた。

 その動きは、さながら壊れて回らなくなった滑車の如く、不自然だ。

「……市井に降りて過ごしていた?」

「はい」

「……姫宮が?」

「はい」

 皇帝は、何度もまばたきを繰り返し、大きく息を吸って吐き出した。

「あの……陛下?」

「少し待ってくれ。すぐに落ち着く」

「はぁ……」

 待てと言われれば待つしかないが、一体どうしたのだろうか?

 まさか、体の具合が悪いとか?でもさっきまで普通だったよね。

 皇帝の様子を見ながら考えているシズクのそば近くで、皇帝は何度か深呼吸を繰り返したり、米神に手を当てていたが、「よしっ!」と軽く気合いを入れていた。

 気合いを入れる皇帝というのは、なんだかとても稀少価値な気がする。

「……姫宮。ひとつ聞きたいことがある」

 ただ、なぜその気合いの目が、私に向けられているのか。

「なんでしょう?」

「その……カムイでは、皇族がそう簡単に城から出ても、大丈夫なのか?」

「大丈夫ではなかったですね。少なくとも、そんな真似をするのは私だけですよ」

 だって、稀なる姫だしね。

「姫宮は市井の民達の様子を直接見たかったのか?」

「それもあります。城にいたんじゃ聞こえない声が城の外には溢れてる。そのなかには本来なら皇族が聞かなければならない声があって、けれど、それを全て聞くのは無理だから」

 だから市井に降りて、民達と過ごして考える。民が今、皇族と皇族がおこなまつりごとになにを求めてるのか.

「そうしてるうちに市井の暮らしの方が私には合ってるんじゃないかって思うようになって、成人したら皇籍を国に返還して、一介の平民になる予定だったんです」

 そこまで言いきって、シズクは我に返った。

 しまったー!つい、色々語ってしまった!!これじゃ、遠回しに貴方のせいで、私の未来計画は駄目になったって言ってるようなものじゃない!

 違うのだ。シズクはけして、皇帝に皮肉を言いたかったわけではない。ただ、市井に触れて、自分がどう思ったのか聞いて欲しかっただけで、他意などはなにもなかった。

「でも、そんなことを考えるのは私くらいで!カムイは他の国に比べると圧倒的に皇族と民の距離が近いし、皇族が市井に降りても普通に受け入れられるけど、民になりたいとか言い出した皇族は国史を遡ってもいないって、父は爆笑してて」

 ……って、違う!これじゃ意味がない!

 シズクは焦りのあまり、弁解するどころか、話の続きを口にしていた。

 ああ、もうどうしよう!

 混乱するシズクの頭に、大きな手がのせられた。

「市井に興味があるなら、ラスシャータの城下町を見てみるか?」

「え?」

 皇帝はシズクの頭を撫でながら、穏やかに笑っている。

「カムイのようにはいかないから、いわゆるお忍びという形ではあるが。興味があるなら、私が姫宮を案内しよう」

「……いいんですか?」

 ラスシャータの皇帝が、そんなことをしても。

 カムイとラスシャータでは常識や慣習が違う。王族が城下町にお忍びで降りるなど、許されないのではないだろうか。

「構わない。それに姫宮、これは内密にして欲しいのだが……」

 皇帝は声を落として、シズクの耳許でこっそりと囁く。

「私も臣達の目を盗んで、よく城下に降りているんだ」

 シズクが驚いて皇帝の顔をまじまじと見れば、皇帝は悪戯が成功した子供のような顔をしている。

 こうして話をしていると、ますます大陸の三大覇王のひとりとは思えなくなる。

 王としての覇気や威は、確かにある。それも他国の王よりも遥かに強く、それを感じたものが思わず平伏したくなるほどに。

 それは初めて顔を合わせたときに、肌で感じた。

 でも、それだけの人ではない、ということもシズクはもう分かっている。

 嫁ぐ前は皇帝としての、この人ばかりを気にしていたけれど、今、私が気にするのは多分そこじゃない。

 シズクが気にしなくても、皇帝は王だ。

 皇帝自身は、ラスシャータの王位など継ぎたくはなかったのかもしれないが、望むとも望まざるとも、皇帝は王としての才覚に溢れている。

 ならばシズクは、王としての皇帝ではなく、ひとりの人としての、彼を気にかけよう。

 きっと、それが本当の意味で、皇帝を笑顔にすることにつながる。

 そして、それは私が自分で決めた、私の仕事であり役目。

「陛下、是非お連れ下さい。ラスシャータの城下町を見てみたいです」

「分かった。臣達に知られないように準備をしておこう」

 その仕事を果たすために、城ではない場所で皇帝と過ごすのは、悪くないはずだ。

 シズクは、前向きにそう思っていたのだ。

 今は、まだ。

 アイズリンドは数日もしないうちに、シズクを城下町へと連れ出した。

 時間帯は早朝。空が白みはじめるころに隣で寝ているシズクを起こして、身支度をするように言うとシズクは目をこすりながら、侍女達と共に隣室に入っていく。

 もちろん、侍女達はアイズリンドとシズクが城下町に行くことは知っており、彼女達が手にしていた衣装は、シズクがいつも着ているカムイの衣装ではなく、ラスシャータの女性の民が着ているワンピースだった。

 アイズリンドも自分のクロークに隠している民の衣装を纏い、護身用として一応、剣を腰に差す。自分の準備をすませたアイズリンドは、さて姫宮はまだか、と隣室へと視線を向けたところで扉が開いた。

「陛下、準備ができました!」

 扉を開けて小走りでシズクがやって来る。

「早く参りましょう」

 シズクは小さな子どもが親に遊んでくれ、とせがむようにアイズリンドの腕をひく。アイズリンドはそれに苦笑しながら、シズクの頭をぽんぽんと撫でるように軽く叩いて、控えている侍女達に命じた。

「では、行ってくる。あとを頼むぞ」

「承知致しました。くれぐれもお気をつけて。陛下、帝妃様」

 年若い侍女のセラとイアンヌは心底不安そうな顔をしていたが、年嵩の侍女であるアリーはどっしりと構えている。

 流石はアリー。幼いころの俺を知っているだけあって、そうそう動じたりしないか。

 アイズリンドは侍女達に自分が時折、城下町に降りていることを口にしたことは一度もなかったが、シズクを城下町に連れて行くのなら侍女達の協力は必要不可欠なため、正直に話したのだ。

 セラとイアンヌは自国の皇帝がお忍びで城下町に降りていたという事実と、それに年若い自分達の女主人を連れて行こうとしていることに卒倒しそうになっていたが、アリーはまるで動揺することなく、むしろあっさりと「いかにも陛下のなさりそうなことです」とまで言っていた。

「陛下がお誘いになられて帝妃様もそれをお望みとあらば、このアリー、お止めはいたしませんが、陛下。くれぐれも帝妃様の御身を御守りくださいませ」

 アイズリンドが幼いころに悪戯をしたり、剣術の稽古で無茶をしたときに見せたアリーの叱るときの表情に、アイズリンドは懐かしくなる。

「俺の心配はしてくれないのか?アリー」

 懐かしさついでに冗談めかして、こんなことを言ってみれば、アリーは慈母の笑みをうかべた。

「帝妃様を御守りすること、それがひいては陛下の御為になりましょう」

 ……と言われてもな。

 アイズリンドにはよく分からない。

 シズクのことは確かに気にいっている。感覚としては妻というより、気の合う共犯者ではあるが。

実際、今もお忍びで城下町に向かうという共犯をおかしている。そして、共犯者は城下町だけでなく城を抜け出すという行程も楽しいのか、表情を好奇心で輝かせているのだ。

 後宮を出て、城内を歩く番兵達に見つからないように周囲に目を配りつつアイズリンドとシズクは足音をたてないように気をつけながら進む。だがアイズリンドはもう何度も城をこっそりと抜け出すことを繰り返してきたので流石に慣れている。

 どの時間帯のどんな場所に人がいるか分かっているから、そう手間どることもなく城の裏門から城の外へと出ることができた。シズクが特にへまをすることをなく、アイズリンドについて来たこともあり、時間もたいしてかからなかった。

 ラスターシャに嫁いでから一度も城から出ていなかったシズクは、嬉しそうに空へと両手を伸ばす。外の空気や風を、全身で感じているようだ。

「陛下、次はどちらに進めばよろしいのですか?」

「そう焦るな姫宮。こちらだ」

 進む方向を視線で示してやれば、シズクは弾むような足取りでその方向へと歩き出す。

 その様子に、自然とアイズリンドの表情は緩んでいた。

 形だけとはいえ、シズクを帝妃に迎えることができたのは幸運だと思っている。彼女はアイズリンドの提示した皇帝と仲睦まじい帝妃らしく振る舞う、という望みをよく守っており、カムイ国の内情も語れる範囲であれば語ってくれ、政治にも精通しているのでアイズリンドと話も合う。なにより王族らしくない稀なる姫というところが好ましい。

 カムイ帝の言葉を聞いたときは正直なところ、溺れるもの藁をもつかむという心情だったが、アイズリンドがつかんだのは藁どころか、彼にとっての幸運にあたいした。

 だが、シズクには不運だっただろう。

 結果、アイズリンドは彼女の、皇族ではなく1人の民として暮らしたい、という望みを摘み取ってしまったのだから。さらにシズクは、そのことをアイズリンドが気にすることのないように、と気をつけてくれている。

 そんな彼女の心配りがありがたい。

 なによりシズクはアイズリンドとアイズリンドの亡くなった母を苦しめた、ラスターシャの血統主義をおかしい、理不尽だと言ってくれた。

 それがアイズリンドには嬉しかった。

 だからアイズリンドは、アリーに言われずともシズクを守るつもりだ、それに異存などあろうはずもない。むしろ守るのは当然のことだとすら思っている。

 だが、それが俺のためになるとはどういうことだ?シズクには助けられている。そしてそれはアイズリンドのためになっている。けれど、アリーはシズクが形だけの帝妃とは知らないはずだ。

 なのに、どうしてそんなことを言うのか?

 考え込むアイズリンドを現実に引き戻したのは、当の帝妃の歓声だった。

「わあっ……!」

 目立つことのないように、と思ったのか声は小さかったが、シズクの黒の瞳は好奇心に輝いており、頬はいささか紅潮している。

 城下町に降りたシズク達が向かったのは、ラスシャータの朝市が行われる広場だ。

円形になっている大きな広場には、簡単に組み立てることのできる露店が連なるように立ち並び、今朝収穫されたばかりの野菜や果物、朝食代わりにもなる軽食や飲み物、花や薬草なども売っている。

「ここはラスシャータの市専用の広場。ムーブ広場だ」

 アイズリンドがそう教えてやれば、それからそれから、と話の続きを求めてくるのが、シズクの眼差しだけで充分に分かる。

「ラスシャータの市は1日3回、今行われている早朝の朝市、正午より少し前の昼市、黄昏時の夕市がある。売っているものは基本は同じだが、昼市では朝市では売っていない日用品や家具、服などが売られていたり、夕市になると市というよりは酒場や食事処のようになってくるな」

「時間帯によって買い物客や買い求めるものが変化するのに合わせているのですね」

 シズクは我慢できないという表情で人で溢れている朝市へと飛び込んでいく。アイズリンドは慌ててその後を追った。朝市の人の多さと忙しさは半端なものではない。ここでシズクを見失ってしまえば、そう簡単には見つけられないだろう。

 それにしても、ラスシャータの令嬢達とはなにからなにまで違う姫だ。

当然のように、市井に降りて過ごしていたと聞いたときは驚いたが、なるほど、今の様子から見てもシズクはそうとう市井に興味があるようだ。

 皇籍を国に返して一介の民として暮らしていこうと考えていたくらいだ。姫宮にとっては、興味を越えて魅力的なのかもしれないな。

 アイズリンドにも、その気持ちはよく分かる。彼も何度も何度も思ったことだ。王族の地位なんて投げ捨てて、この城から飛び出して、どこかで自由に生きていけたら、と。

 シズクも同じように自由を求めているのかは分からないけれど、民の衣装を纏い夜空の色をした髪を隠すために頭に被った布をひるがえし、市の様子を見ながら広場を駆けるシズクの姿は、アイズリンドが焦がれた自由そのものに思えた。

 シズクは追いかけてきたアイズリンドに気がついて、招くように手を振る。

「こっちです!陛……っん!」

 何を言おうとしているのか察したアイズリンドは、咄嗟にシズクの口を手で塞ぐ。少々手荒になってしまったが、仕方なかった。

「こんな所で陛下と呼んでくれるな。大騒ぎになる」

 シズクは、今気づいたという表情をして、頭を上下させ頷く。

 それを確認して、アイズリンドはシズクの口許から手を離す。

「……っはぁ。えっと、それじゃあなんとお呼びすればよろしいのでしょうか?」

「俺は城下町ではリンと名乗っている」

 アイズリンドのリンだ。頭の部分のアイズにしなかったのは、そちらだとアイズリンドと結びつけやすいと感じたからだ。

「ではリン様とお呼びしますね」

「そうしてくれ」

「私のことはシズクで構いませんから」

「ああ……はっ?」

 流れのまま普通に応じかけてしまったが、言われたことを理解してアイズリンドは驚いてシズクに顔を向ける。

「だって、こんなところで姫宮なんて呼ばれるのはまずいでしょう?」

 確かに。陛下が駄目なら姫宮も駄目だろう。帝妃なんてもっての他だ。

「行きましょう、リン様。私、もっと市の様子を見てみたいです」

 今日のシズクは本当に行動的だ、それともこれが本来の彼女なのだろうか。

 どちらにしろ、カムイ帝の言った稀なる姫という言葉に嘘はなかった、とアイズリンドは改めて確信する。

 ラスシャータの城下町の朝市は本当に興味深い。カムイでも朝市はあったがやはり人口の差か、賑わいが全然違う。それに露店に並べられた品々の数や種類も桁違いだ。なによりこうやって城下町に降りて民の暮らしを見ると、ラスシャータの文化に素手で触れることができる。それがシズクを笑顔にしていた。

ラスシャータに来てからは慣れないことやラスシャータの貴族の女性の過ごし方を知り、らしくもなく、おとなしくしていたこともあり、シズクは久方ぶりに本来の自分を取り戻した気分だった。

 目に映る色や鼻孔をくすぐる香りに誘われるまま、足を進めていると、鼻先に紙の包みがさし出される。

「姫……シ、シズク。食べてみるか?」

 名前で呼ぶことに慣れないらしく、戸惑っている皇帝の手から包みを受けとる。

 包みに入っていたのはパンだ。

 カムイにはない食べ物だが、ラスシャータでは朝食に必ず出てくる品なので、シズクも食べ慣れてきたものだ。

「あったかい」

「焼きたてだからな」

 包み越しに伝わってくる熱に思わず呟くと、皇帝は自分の分のパンにかぶりつきながら答える。

 この人も往来で食べ歩きとかするんだ。

 普段は、城で品よくマナーを守り食事をしている姿しか見たことがないので、不思議なものを見ている気分だ。

 けれど皇帝はさしてためらいもなくパンを食べ進める。城下町に何度か降りていると言っていたから、彼にとっては既に慣れたことなのかもしれない。

「いただきます」

 口にしたパンからは、焼きたてだと主張する表面の香ばしさと、バターが香るふんわりとした中の食感に、甘酸っぱいサイコロの形をしたものが入っている。

「これは……?」

「リンゴだな」

「!……ああ」

 言われてみればその通り。これはリンゴだ。

「こういったものは城では絶対に食べられないからな。しっかり味わっておくといい」

「はい。でも、もったいないですね。こんなに美味しいのに」

「美味しいという意見には俺も賛成だがな、城の料理長の前では言ってくれるな。泣かれるぞ」

「分かってます」

 そんなことを話しながら、シズクは全然違うことを考えていた。

 陛下って一人称がバラバラというよりは、時や相手によって使いわけてる?

 臣下達の前では、余。アリーの前では、俺。シズクの前では、私。だったのだが。

 今はシズクの前でも「俺」になってる。城の外だからだろうか?ならば城に戻れば、また私になってしまうのだろうか。

 それは……なんだか嫌だな。

 シズクは少しさみしくなる。

 相手の呼称や口調は、人の関係の距離感を如実に表す。

 形だけの帝妃とはいえ、皇帝という人間の役にたちたい、笑顔にしてあげたいと思っているシズクからすれば、皇帝との間に距離を感じるのは嫌だった。

「そろそろ戻るか」

 皇帝が城の方角を見ながら、足を止める。

 それにシズクは久方ぶりの城の外が名残惜しく、ほぼ無意識で、いわば反射に近い感覚で、皇帝に手を伸ばしていた。

 戻ろうと言われ、もう少し、と引き止めたかったのだと思う。そして、それを言葉にしようとしたのだと思う。けれど、

「どうかしたか?」

 皇帝がシズクの伸ばした手に気づいてその手をとってくれた瞬間、出た言葉は彼を止めるものではなかった。

「いえ……なんでもありません」

 シズクは軽く首を振り、笑ってみせる。

「城に戻りましょう」

 皇帝は首を傾げこそしたが、何も尋ねてはこず城の方角へと歩き出す。

 シズクはそれに、そっと息をつく。

 もし尋ねてこられていたら、正直困った。

 シズクにも分からなかったからだ。確かに皇帝に、もう少しここにいたい、と頼もうと思っていたのに。

 けれどあのとき、皇帝がシズクの手をとってくれた瞬間、いいかな、と思ったのだ。

 今日はこのまま城に戻ってもいいかな、と。

 それがなぜなのかは、さっぱり分からない。けれど、確かにそう思ったのだ。

 別にシズクは、皇帝に手をとって欲しくて、手を伸ばしたわけではなかったのに。

 でも……なぜかしら?

 シズクの手を握り、その手をひきながら歩き出す皇帝に、手を放してくれと言う気はちっとも起きなかった。

 来たときと同じく城の裏手にある門から城の敷地に入ると、皇帝は握っていたシズクの手を放して足を止めた。

「陛下?」

 どうかしたのか、と思いシズクも足を止めると皇帝は唐突に誰かに呼びかけた。

「そろそろ出てきたらどうだ?マルク」

「お気づきでしたか」

 答える声は背後から聞こえて、シズクは驚いて振り返る。

 そこには老齢の男が1人、背筋を伸ばして姿勢良く立っていた。着ているものはラスシャータの民と同じものだが、腰から下げている剣の鞘にはラスシャータの紋章が彫られている。

「気づかないわけがあるか。俺と帝妃が城を出るときからついて来ていただろう」

「流石でございますな、陛下」

 皇帝の一人称が俺ということは、この男はアリーと同じく皇帝にとって気心の知れた相手のようだ。

 男はシズクに対して一礼し、柔和な笑みを向ける。

「お初に御目文字つかまつります、帝妃様。私はマルク・エルワ・ギルバート。陛下がまだご幼少であらせられた頃、剣術指南役をつとめておりました者にございます」

「陛下の剣術指南役!?」

 それはつまり、大陸の三大覇王の1人であり、戦上手のラスシャータの皇帝の剣術指南役ということだ。

 シズクは俄然、興味をそそられる。彼女もカムイでは兵達に混ざって剣術を嗜んでいた。腕もそれなりだと自負している。

 ラスシャータの剣術がカムイの剣術とどう違うのかを知りたいと思ってたところに、陛下の剣術指南役と会えるなんて!

 是非とも一手お手合わせを、と願い出ようと身をのり出しかけると、皇帝がそのたくましい腕でシズクを制した。

「待て、帝妃。まさかとは思うが剣術をやっていたとは言うまいな」

「やってましたよ。あと馬も乗れます」

 シズクがごくごく当然のように返すと、皇帝は頭を抱えマルクは何を言っているのか、という表情をみせる。そんな2人の様子に、シズクは思い出した。

 そういえばラスシャータの貴族のご令嬢の方々は外出なんてほとんどしなくて、馬にも乗らない、剣術なんてやるわけないんだった……。しまった。マルク殿もいるんだから、もう少し考えて発言すべきだったわ。

 こんな事を思ってしまうあたり、シズクは皇帝に対してだいぶ本来の、帝である父親に殺す発言をしてしまう自分を、少しずつ晒しはじめている。

 そして、皇帝のほうもシズクの稀なる姫具合にいちいち驚くこともなくなりはじめているのか、

「待て、帝妃。馬は、まあいいとしよう。ラスシャータの女性でも、王都から離れた地方であれば馬に乗る者も極々少数だが、いないこともない。だが、剣術は流石に待ってくれ。下手に怪我でもしたら、俺は帝妃と手合わせした相手を罰さなくてはならなくなる」

「下手に怪我をするほど素人剣術ではありません。私はカムイの将軍とだって手合わせをしていました」

「そういう問題ではない」

 シズクに軽く説教に近いものをできるくらいになっている皇帝だ。

 そんな2人のやりとりを止めたのは、堪えようとして失敗しているマルクの笑い声だ。

「っくく。噂は真実のようですな、陛下」

「噂?」

 マルクの言葉に、皇帝だけでなくシズクも聞き返し、偶然にも2人の声が揃う。

 マルクは必死に笑いをかみ殺しながら、うなずく。

「ええ。我らがアイズリンド皇帝陛下は、遠い異国から嫁いでいらした年若い帝妃様をことのほかご寵愛なされていると。今このラスターシャ城では貴族から一兵卒に至るまで、そんな噂で持ちきりなのですよ」

 皇帝もシズクも反応に困った。

 ここは互いの目論見が成功していることを喜ぶべきなのか。それとも形だけの夫婦として、複雑になるべきなのか。

「帝妃様。陛下は貴方様に少しでも害のないようお心を砕いていらっしゃいます。どうかそのお気持ちを受けとめて、この場は納めて頂けませんでしょうか」

「……分かりました」

 そんなふうに言われてしまっては、シズクも強くは出られない。手合わせはまたの機会をうかがうとしよう。

 それにシズクは皇帝が1人の人間として、少しでも心穏やかに笑顔で過ごせるようにしたいと思っており、そんな環境を作るのが自分の仕事であり役目だと決めた。

 その私が陛下の心を乱すような真似をするのはまずいわよね。

 けれど、ラスシャータの剣術をあきらめるのはやはり惜しい。

 そんなシズクの頭をなだめるように撫でる手がある。皇帝だ。

「ラスシャータの剣術に興味があるのなら、俺が相手をしてやろう。今はそれで勘弁してくれないか?帝妃」

「はい……」

 シズクが了承の返事をすれば、頭を撫でる手は髪を梳く形になる。

 薄々思ってはいたが、皇帝はシズクの頭を撫でるのが癖になっている気がする。別に困っているわけでも嫌なわけでもないのだが、子ども扱いされているようでなんとも言えない気分になるのだ。

 私、一応15歳なんだけどな。

 少なくとも、そうそう頭を撫でられるような年齢ではないのだ。

 城内に戻った後、いつもの王としての衣装に着がえた皇帝は、何事もなかったかのように朝議に向かった。朝議のため集まった臣達もまさか、自国の王がつい先程まで城下に降りて朝市に行っていたなんて、露ほども思っていないだろう。

 しかも、帝妃であるシズクを連れて。

 シズクはシズクで部屋に戻るなりセラとイアンヌにすがりつかれた。

「帝妃様っ」

「よくぞっよくぞご無事で」

「ちょっと!セラもイアンヌも泣かないでよ。別に私は戦場に行ってきたわけじゃないのよ」

 けれど2人はわんわん泣きわめきながら、シズクの体に傷がないか、確かめはじめる始末だ。心配してくれるのはありがたいが、そろそろ放してくれないだろうか。ここまで、すがられ、しがみつかれていると、だんだん息が苦しくなってくる。

「全く。おやめなさい2人とも!帝妃様が困っているではありませんか」

 そんな2人を一喝したのはアリーだ。

「帝妃様はお怪我などしていませんよ。陛下がお側にいたのですから。それよりも今のお前達のほうが帝妃様にお怪我をさせかねません」

 その言葉にセラとイアンヌは慌ててシズクから離れた。おかげでシズクは、窒息をなんとか免れることができた。

 流石はアリー、あの皇帝を長年見てきただけのことはある。もはや気迫や心構えが違う。

 だがアリーが慣れているのは、あくまで皇帝の行動であり、もしシズクが1人で、城を出て城下町に行って帰ってきたならば、2人と同じような反応をしたことだろう。

 そもそもシズクが城下町に行けないように、部屋から出そうとはしなかったかもしれない。

 皇帝が一緒だったからこそ、アリーはいつも通りなのだ。

「さぁ、帝妃様もお召しかえをいたしましょう。そのままでは部屋の外には出られませんよ」

 民の服のほうが楽で動きやすいので、できれば今日1日くらいはこのままでいたかったが、アリーの前だと、たやすくそうはさせてくれない。

 しかも、部屋の中でシズクがじっとしていられる性格ではないことを見抜いたうえでの、部屋の外には出られない発言。ぬかりがなさすぎる。

 熟練の侍女であるアリーに子どものシズクが叶うわけもなく、シズクは仕方なくアリーの差し出した衣装を手にしようとして、ふと、その手を止めた。

「帝妃様?」

「いかがなさいました?」

 衣装を差し出したアリーはもちろん、化粧箱やいくつかの装身具を持ってきたセラとイアンヌも訝しげにしてシズクの止まった手を見ている。

「あ、ごめんなさい。なんでもないの」

 シズクは止めていた手を動かし、改めて衣装を手にする。

「そうなのですか?」

「なにかあったのなら、ご遠慮なくおっしゃってくださいね」

「どんな些細なことでも構いませんから」

 侍女達の暖かな笑顔と言葉に、シズクは心から言う。

「ありがとう」

 だけど、今思ったことを口にするのは誰が相手でも恥ずかしかった。

 頭を撫でる手も、城下町で握ってくれた手も、陛下の手は私よりずっと大きかった。ただそれだけのことに、今更気づいただけだったとしても。

 アイズリンドは深々とため息をつく。

「どうなされましたか?陛下」

 マルクは、アイズリンドの執務机にずらりと積まれた書類の山を見る。これらの書類は全て、今日中に処理しなければならないもので、アイズリンドは朝からずっと机に縛りつけられるようにして、書類仕事と向かい合っていた。

「少し休憩なさいますか?」

 アイズリンドのため息を疲れととったのか、マルクはそう提案する。

 だが、アイズリンドは必要ない、と首を振る。

 しかし、書類を処理をする手は止まっている。

「いかがなさいましたか?」

 マルクが改めてたずねると、再び深いため息をついた。

「……帝妃が」

「帝妃様が?」

「最近、城のいたるところに出没しているんだ」

「は?」

 アイズリンドは、なにかが吹っ切れたようにまくし立てはじめた。

「城下町に出てから、帝妃は城のあらゆる場所に顔を出すようになったんだ。もともと部屋の中でじっとしているのは苦手だったらしいが、いままでは外にでても後宮の庭くらいで、とにかく後宮の敷地内にとどまっていたのに、いまでは後宮から出て様々な場所に顔を出している。それこそ臣達の執務室から侍女達の休憩場所まで。どこにでもだ!」

「それはまた……」

 行動力があるというか、大胆というか。

「しかも分からないことや疑問に思ったことがあったら、その場にいる臣達や侍女達に聞いているらしい。嫁いできたときほどあからさまな者がいなくなったとはいえ、アリー達が側についているとはいえ、この城内にはまだまだ帝妃のことをよく思っていない者もいる。そういった連中を刺激しかねないから、不用意に出歩いたり、なんの前触れもなく臣達の前に姿を現すのは控えてくれと言っているのに、まるで聞いてくれない。それどころか、ラスターシャのことを知るためです、などと言う」

 実際、シズクの行動はラスターシャを知るためでもあるのだろうが、アイズリンドと城下町に出てから本来の行動的な自分を取り戻して、後宮の敷地の中だけで、じっとしていられなくなったというのもあるのだろう。

「帝妃様がラスターシャのことを知ろうとしているのは良いことではありませんか?」

 マルクはアイズリンドを落ちつかせるために言ったが、どうやら逆効果だったらしくアイズリンドは執務机をバンと両手で叩く。

「良くない!!」

 はずみで、執務机から書類が落ちそうになるのを、マルクがとっさに両手でおさえる。

 ちなみに、もとはアイズリンドの剣術指南役で、今は実質、隠居の身であるマルクは、本来ならアイズリンドの執務を手伝う必要はないのだが、アイズリンドにとって数少ない心から信頼のおける人間であることから、自主的にアイズリンドの護衛のようなものを務めたり、執務を手伝ったりする。

 このあいだ、城下町に向かったアイズリンドとシズクについていたのも、それが理由だ。

 そんなマルクの主たるアイズリンドは、3回目の深いため息をついた。  

 いまのところ、臣達はシズクの行動に驚きや戸惑いしか感じていないが、もしそれが嫌悪や悪意に変わるなんてことがあったら、シズクの身に危険が及ぶことがあるかもしれないのだ。

 アイズリンドはそれを懸念しており、できればシズクに出歩くのを控えて欲しかった。

 けれど、本来、体を動かすのが好きで深窓の姫君とはかけ離れた稀なる姫には、聞き流されてしまう。

 シズクの王族らしからぬ稀なる姫らしさを気にいっているアイズリンドだが、今回ばかりは少し困っていた。

「陛下が本当に、本当に、お困りならば、帝妃様はお聞き入れくださると思うのですが」

 マルクが笑みをふくんだ声でやたら、本当に、の部分を強調して言うのに、アイズリンドは苦虫を噛んだような表情になる。

「陛下が帝妃様が城内を見て回るのを本気で止めようとなさらないから、帝妃様もおやめにならないのでは?」

 マルクの言う通りだ。

 シズクはアイズリンドの心を乱す振る舞いをすることを、できる限り避けている。アイズリンドが本気で城内を出歩くのをやめろと言えば、行動を制限されることを残念に思うかもしれないが従うだろう。

 つまり、シズクが城内を出歩くのをやめないのは、アイズリンドが本気でシズクを止めようとしていないのを分かっているからだ。

 姫宮が城内のいたる場所に姿を見せるようになったと臣達から報告を受けたときは、本気で止めるつもりでいたのだがな。

 その日の夜、寝室にやって来たアイズリンドに、シズクが城内を見て回り疑問に感じたことや臣達と話して思ったこと、カムイ国と異なるところなどについて楽しそうに、けれどとても真剣に話をするまでは。

 シズクが楽しそうなのも、ラスシャータのことを知ろうと真剣なのも、アイズリンドにとっては喜ばしいことだ。

 そのため、シズクの行動に困りながらもアイズリンドは彼女を本気で止めることができないでいた。

「いっそ護衛でもつければいいのか?」

 書類仕事よりも深刻な表情で思案するアイズリンドに、マルクは穏やかな顔をみせる。

「良い傾向ですな」

「帝妃の行動なら、さっきも良くないと言ったはずだが?」

「いえ、帝妃さまではなく。陛下のことです」

「俺?」

 思いもよらない言葉だった。

 けれどマルクは「そうですとも」とゆっくりと頷いた。

「帝妃様が嫁いでいらしてから、感情が素直に表情にでることが増えました。自然にお笑いになることも多くなったと、アリー殿も喜んでおられましたよ」

「それは、王としてまずくないか?」

 威厳や権威を表わすには、王はあまり気安い存在であってはいけないとアイズリンドは思っている。

「陛下は充分すぎるほどに王としての威、才覚、覇気にあふれておられます。いまくらいの方が臣達も丁度良いのでは?」

 確かにいままでは少し注意しただけのつもりでも臣達は処刑されるのではないかとばかりに、顔を青くする者ばかりだったが、最近はそれが心なしか少なくなってきたような気がする。

「帝妃様のおかげでございましょう。ですが陛下……」

 一呼吸おいて、マルクと顔つきと声が一変する。

「それを心良く思わない者が存在するのも確かです。陛下のご懸念もそこにあるのでしょう?」

「ああ」

 王族の血統が清らかであることを第一とする、王族に近い血筋の貴族達を筆頭とする血統主義者。幼いアイズリンドとアイズリンドの母を下賤の生まれと蔑み、そのくせアイズリンドが皇帝になると、態度を一変させすり寄ってきた貴族という立場にしがみつく自己保身しか考えていない人間達。

「陛下がカムイ国から妃を迎えると仰せになられたときも、大層反対なされていましたね」

「耳障りな言葉ばかりを並べてな」

 カムイなどという小国の小娘を妃になど、とんでもない!

 皇族とはいっても所詮は田舎のカムイ国の娘、その身に流れる血は下賤の血と変わりないではありませんか!

 由緒正しく清らかで美しいラスシャータの血が穢れてしまいます。

 陛下の妃、そしてラスシャータの次代の王を産む御方は、やはり王族の血筋に連なる我らラスシャータの貴族の娘達からお選びください。

 さすれば、ラスシャータの血は強く濃くなり、連綿と受け継がれていくことでしょう。

 思い出しただけで吐き気がする。

「陛下が帝妃様を寵愛なされていることから、面だって反対の意をみせることはなくなりましたが、黙っているわけでもないのでしょう?」

 アイズリンドはなにも言わない。

 しかし、その沈黙こそがどんな言葉よりも雄弁に肯定を語っていた。

「王族の血をまもるために側妃を迎えろと言われたのですね?」

 マルクの言葉は問いかけではなく、確認だった。アイズリンドの側に長くいた彼は、アイズリンドを苦しめた血統主義者の考え方をよく知っていた。

「……側妃を迎える気はない」

 シズクとは見せかけだけの夫婦である。いや、見せかけの夫婦だからこそシズクが帝妃の座にあるうちは他に妃を迎える気はない。

「ええ。陛下ならばそうおっしゃられると思っておりました。されど陛下、陛下が血統にこだわる方々を嫌悪なされているのは、このマルクも重々承知してはおりますが、あまりあからさまな対応をなされませぬよう」

 業を煮やした血統主義者の貴族達が、シズクに帝妃の座から引きずり下ろすために手段を選ばなくなる可能性もあるのだ。

「分かっている。だが、側妃のことは帝妃には伝えるな。帝妃はまだ15だ。世継ぎだの次代の王だのという話はあまり耳に入れたくない」

 そもそもアイズリンドはシズクに最初に約束しているのだ。世継ぎのことは気にしなくていい、子どもを産むという帝妃の役割は免除する、と。

「まあ、結婚したばかりで仲が良好な夫婦が、そうそう側妃を迎えないことは貴族共も分かっているだろう。2、3年くらいは待つんじゃないか?」

 自分で言っておいてなんだが、仲が良好な夫婦と口にするのが、妙に気恥かしかった。

「そのころにはもしかしたら、既に陛下と帝妃様の間に御子が授かっていることもあるやもしれませんしな」

「どうだろうな」

 見せかけ夫婦が2、3年後も続いてるとも思えないので、アイズリンドは曖昧に濁すしかなかった。

そして、再び書類仕事に取りかかろうとすると、執務室の扉に亀裂が入るんじゃないかという激しさでノック音がした。そのノック音も扉を殴りつけているのかと思うほどに激しかった。

「失礼いたします!!」

 入室の許しが出ていないのに部屋に入ってきたのは、ラスターシャの国軍兵士の男だ。若さのうかがえる外見年齢からして一兵卒だろう。

「陛下の許しもなく入室するとは無礼な!」

 マルクが前に進み出て、兵士を一喝する。

「申し訳ございません!ですが、どうしても陛下にご報告せねばならないことがありまして……」

 全速力で走ってきたのか、兵士は全身から汗を流し呼吸も乱れている。

「なんだ?」

 アイズリンドが話を聞こうと兵士に目をやると、兵士はいきなりその場に平伏した。

「陛下!大変申し訳ございませんが、修練場まで足をお運びいただけませんでしょうか!?」

 修練場とは文字通り兵士達が修練を積む場所であり、アイズリンドも兵士達に混ざりよく剣の稽古や戦闘訓練などをしている。

「別に構わんが、なにかあったのか?」

 兵士は顔色が真っ青にして、悲鳴を上げるように報告した。

「帝妃様が修練場においでになられまして、兵士達と剣の手合わせをしたいと仰せになられているのです!!」

 どうやら兵士が全身から流していた汗は、冷や汗でもあったらしい。

 修練場でシズクは訓練用の木剣を手に握り、兵士の1人を手合わせに誘っていた。

 シズクはなんでもないように笑っているが、誘われたほうの兵士はいまにも自殺しそうな表情をしている。あまりにも哀れだった。

 侍女達は3人共、互いの体を支えるようにして身を寄せ合っていた。シズクの行動に倒れる寸前のようだ。

 傍観している兵士達も呼吸困難になったような顔で固まっている。

 皆の精神衛生上、早急にこの状況を解決しなければ。

「帝妃!!」

 アイズリンドはシズクに怒鳴る形で呼びかけた。もちろん、はじめてのことだ。

「陛下?」

 それに驚いたのかシズクは目を丸くして、首を傾げている。

 アイズリンドはシズクに大股で歩み寄り、彼女の手から木剣を取り上げ近くにいた兵士に預けると、シズクを両手で抱き上げた。

「陛下!?」

「邪魔して悪かった。皆、修練に戻ってくれ」

 顔を焦りで赤くして、どうにかアイズリンドの手から逃れようとするシズクを軽々と抱えたまま、向かうのは後宮だ。

 流石に少し、言い聞かせる必要があるだろう。

 後宮の帝妃の部屋に戻ったところで、皇帝はようやくシズクを下ろしてくれた。

 その間ずっと皇帝に抱えられたままで、すれ違うラスターシャ臣達や兵士城に仕える侍女達の視線を集めるはめになったシズクは、恥ずかしさのあまり消えてしまいたかった。

 元来、目立つのは好きではないのだ。

 その状況を作った皇帝をつい恨めしげににらみつけてしまったシズクだが、皇帝のほうがシズクよりも厳しい顔つきをしていたことに身を固まらせた。

「姫宮」

 かけられる声もいままで聞いた皇帝のどの声よりも低く固い。

 怒っているというのが嫌というほど分かる声だ。

「姫宮、俺は言ったはずだ。城内を不用意に出歩くな、剣術の手合わせをラスターシャの者達に求めるな、と」

 そのどちらも本気で言っているわけではなかった。と言い返すことも躊躇われる気迫だった。

 自然と体が緊張で強張っていく。

「姫宮。お前には好意的な気持ちで兵士を手合わせに誘ったのかもしれないが、兵士はそんなこと思ってはいない。手合わせを強要された。これで姫宮に怪我をされたら処刑される。それくらいのことは考えていたはずだ」

「でも……私どうしてもラスターシャの剣術を試してみたくて」

「剣術の相手が欲しいのなら、俺が相手をしてやると以前に言ったはずだが?」

 それを待てなかったのかと、言外に問いつめられシズクは唇を噛む。

 皇帝を本気で怒らせた。彼の心を乱したくはないと思っていたのに、自分の望みを優先して皇帝を怒らせて、困らせた。

 言葉は自然とでてきた。

「ごめんなさい……」

「分かればいい」

 皇帝はため息まじりにそう言って、シズクの頭を撫でる。

 普段は子ども扱いに複雑になるのだが、いまは撫でてもらえたことに安心した。

「姫宮。先程はあんな言い方をしたが勘違いはしないでほしい。俺は姫宮がラスシャータのことを知ろうとしていることを厭うているわけでは、けしてないのだ」

「はい」

 それはちゃんと分かっている。皇帝はシズクが城内の色々な場所に姿を見せるようになったことを知って、行動を控えるようにと注意はしたが本気でとめることはしなかった。

 だからシズクも城内を見て回り、ラスシャータの臣達と言葉をかわすのをやめなかった。

「俺は姫宮の行動を制限したいわけではない。だから本気で止めたりはしなかった。それにラスシャータことを知ろうとする姫宮の姿勢は姫宮の味方を増やす事にもつながるかもしれない、でも逆の可能性もある」

 皇帝は膝をまげ身をかがめてシズクと目を合わせる。

「姫宮の行動を嫌悪の目で見て害意を抱く者もいるのだ。ましてやラスシャータの者達を困らせるような真似をすれば、そんな者達を増長させかねない」

 シズクは改めて修練場の兵士達の表情を思い出す。

 手合わせを求めたときはラスシャータの剣術を体験したいという思いばかりがあり、兵士の様子などそんなに気にしていなかったが、思い返せば兵士はとても酷い顔をしていた。

 当然だ。手合わせを受けて万が一のことがあれば、罰をうけるのは兵士のほうなのだ。例えシズクに非があったとしてもだ。

 なぜならシズクは帝妃だから。

 それに兵士だけでなく、その場にいた他の兵士達やシズクの侍女達だって状況によっては罰せられることもあるのだ。

 そうなればシズクはラスシャータの人間から強い反感を買う。だから皇帝はシズクを強制的にあの場から連れ出した。

 シズクは皇帝が本気で怒った理由が自分のためだと気づいて、再び謝罪をする。

「勝手な振る舞いが過ぎました。本当にごめんなさい」

 深く深く、頭をさげる。

「……明日の昼だ」

 皇帝はシズクの頭を上げさせながら、唐突にそんなことを口にした。

「明日の昼に時間を作ろう。約束だからな」

「それって……」

 皇帝はそこで口の端を吊り上げ、笑みを見せる。

「剣術の相手をしてやる」

 シズクは顔を輝かせ、今度は感謝を表わすために頭を下げた。

「ありがとうございます」

「自分でそれなりの腕があるようなことを言っていたのだ。その腕前、しかと見せてくれよ」

「はい。それと陛下、もう一度修練場に行ってもよろしいですか?」

「なぜだ?」

 わずかに難色を示す皇帝にシズクは言う。

「兵士の方々に私のわがままで困らせたことを謝りたいのです」

 皇帝はシズクの求めに笑顔で応じた。

 皇帝と共に修練場に再び姿を見せた帝妃に、ラスシャータの兵士達はまたなにか起こるのかと身構えたが、とうの帝妃本人が丁寧に頭を下げて、先程は無理な頼みをして申し訳なかった、勝手な振る舞いが過ぎた、と謝罪してきたことに心から驚いた。

 これが王族の血を大事と考えるラスシャータの貴族であったなら、田舎の小国の皇女から謝罪をされてもとはねのけただろうが、兵士達は貴族などの富裕層の出ではなく平民出身の者達が大多数を占めていた。

 そんな彼らからすれば、小国とはいえ皇女の地位にある少女はやはり平民である自分達とは違う世界の存在という認識が少なからずあり、さらには三大覇王と畏れられる自国の皇帝の妃なのだ。本来間近で姿を拝することも叶わぬ相手である。

 その帝妃が修練場に現われ兵士に手合わせを求めてきたときは兵士達全員が戦慄したが、今度はそれを謝罪しに再び自ら足を運んでくるとは。

 帝妃の身分にあるのならば、例えなにかあったとしても兵士達に謝罪することなどしなくても良いのだ。もしも謝罪をするとしたとしても侍女や臣などに一言託すのが一般的であり、自分の口から直接詫びの言葉を言うなど考えられないことだ。ましてや頭を下げるなど。

 兵士達は飛び上がるほどに恐縮し慌てて居住まいを正して、我先にとその場に膝をついていた。

 それに対しても帝妃は、そんなことをする必要はないと言い重ねて頭を下げてきたので、兵士達のなかで修練場での帝妃の勝手な振る舞いは当然帳消しとなり、目の前のこの少女が自国の帝妃であることが誇らしく思えてくる。

 国軍はラスシャータ帝国を、帝国で生きる無辜の民達を、帝国の象徴たる皇帝を守るために戦うのが使命である。

 そのため愛国心と民達を守る意思と皇帝への強い憧憬と畏敬の念が、兵士達の心のなかには深く根ざしている。

 いまそこに帝妃への敬慕の念が加わった。

 帝妃が皇帝と共に修練場を去り後宮へと戻ったあとで、兵士達はいつも以上に修練に励んだ。

 その表情はいずれも清々しくやる気に満ち溢れており、通りかかった政務を担当する臣達が不思議そうに首を傾げていたそうだ。

 かんかん、と激しく木剣がぶつかり合う音が、ラスシャータ城の頂きに近い位置にある広々としたテラスに響きわたる。

 木剣を手に打ち合っているのは大小2人の男と少女。格好はどちらも簡素で動きやすい軽装で、少女のほうは艶めく長い夜空色の髪を高い位置で結いあげている。

 少女が動くたびに髪とそれを結んでいる銀色の髪紐が揺れる様が美しい。

 両手で木剣を握り構え肩で息をしているのがシズクで、片手で木剣を遊ぶように持ち楽しげな笑みをうかべているのが皇帝だ。

 この木剣による手合わせは、誰が見ても明らかなほどにシズクが劣勢だった。

 それでもシズクは諦めた様子など微塵も見せずに果敢に皇帝へと向かっていく。

 力で劣るぶん速さの利点で優勢に持ちこもうとしているのか、駆ける速度も皇帝へと突き出される木剣の速さもなかなかのものではある。

 だが皇帝には、その速さも十二分に見切れる範囲内であった。最小限の動きだけでシズクの木剣をかわして、自分の木剣を軽く振り上げる。

「きゃあ!」

 シズクの短い悲鳴と共に彼女が握っていた木剣はくるくると回転しながら宙を舞い、弧を描きながらシズクの背後、やや離れた場所へと落ちていく。

 シズクが悔しげに息を吐きながら木剣を拾いに向かおうとするのをとどめ、皇帝が代わりに拾いに行く。

 昨日の約束通り、今日は皇帝に剣術の相手をしてもらっていた。

 てっきり後宮の庭でやるのかと思っていたが、連れてこられたのは城のテラスだった。だが逆に良かったのかもしれない。

 後宮の庭でシズクと皇帝が手合わせをしているのを侍女達が見たら、心労を募らせてしまうだろう。剣術をやるから動きやすいようにと、髪を結いあげてもらっていたときもセラとイアンヌの顔色は酷いもので、さしものアリーも心配そうな表情をしていた。

 それでもなにも言わずに送り出してくれたのは皇帝が一緒なのと、侍女達もシズクの行動に慣れてきたからだ。

 しかし、後宮から出て剣術の稽古をしていたら人の目につくのではないかとシズクは気にしたのだが、皇帝が案内してくれたテラスには人がめったに来ないので、その心配はないらしい。

 城の最上階に近い位置にあるため王都を一望することができる、とても広いテラスは幼いころから皇帝の秘密の場所だそうだ。

 政務の小休憩や1人になりたいときに、いつもこのテラスに来て剣を振ったり景色をながめて皇帝は息抜きをするらしい。

 だからか、今日の皇帝はいつもより肩の力が抜けている気がする。昨日、本気で怒られたこともあってか、余計にそう思える。

「なかなかやるな、姫宮」

「手合わせを5回もやって一勝もできないどころか剣がかすりもしなかったのに、そんなことを言われても嫌味にしか聞こえません」

「これでも戦上手のラスシャータ帝国皇帝で三大覇王の1人だ。姫宮に勝ちを取られては俺の涸券に関わる」

「それはそうでしょうけれど」

 けれどシズクは本気で全力だったのに、皇帝はまるで児戯を楽しんでいるようだった。

 事実、陛下の剣術に対して私の剣術は子どもの遊びに等しかったのだろうけど。

 どんなに打ちこんでも軽くかわされ楽に止められ、何度も何度も木剣を弾き飛ばされた。

 シズクは皇帝の体に当てるつもりで木剣を振るったが、皇帝がシズクの体に木剣を向けることはただの一度もなく、狙うのはいつも木剣ばかり。

 それが分かって木剣を手放さないようにどんなに気をつけても、結局皇帝の撫でるような一振りで弾かれてしまう。

「悔しい……」

「そんな顔をするな。本当に姫宮の剣術の腕はなかなかのものだ」

 ラスシャータの兵士達に勝るとも劣らずといったところか。皇女の身分でこれだけ剣の腕がたつなど普通はありえないことだ。稀なる姫たるシズク本人は不服のようだが。

「ところで姫宮、一体誰に剣術を習ったのだ?前に言っていたカムイ国の将軍か」

 皇帝が拾ってくれた木剣を受けとりながら、シズクは否定の意をこめて首を横に振り、正しい答えを告げる。

「皇后様です」

「コウゴウサマ?」

 皇帝は言葉の意味が分からなかったわけではなく、信じられないという思いでシズクの言葉を繰り返したようだった。

「姫宮。俺の記憶と知識が正しければ、コウゴウサマというのは皇后様。つまりカムイ帝の第一の妃、カムイ国でいうところの正室にあたる人物を指す言葉だったと思うのだが」

「そうです。その皇后様が私に剣術の指導をしてくださった御方です」

 念のために皇后様の意味を並べてまで確かめてきた皇帝には少しばかり申し訳ないが、シズクの剣術の師匠が皇后様であることは覆りようのない真実なのだ。

「皇后様は下手をすれば私より稀なる御方ですので」

 遠くを見るようなシズクの目に、皇帝は笑みを消して固まった。

 このシズクをして稀なる方と言わしめるなんて、一体どんな女人なのだ?

「お話しましょうか?」

 シズクの言葉に、皇帝は好奇心に任せて頷いた。

 カムイ国の皇后はもともとは平民出であり、カムイ国の国軍の一兵士から将軍の地位までのぼりつめた女傑である。

 その強さたるや、カムイの軍の男達が束になっても叶わないほどで、兵士であること将軍であることはまさに彼女の天職と言えた。

 それはカムイ帝の正室として後宮に入っても変わることなく、皇后という地位にありながら彼女は城にいる時間はさほど多くはなく、カムイ国の領海を荒らす海賊を討伐するため、国軍の兵士達と共に船にのり海に出て船団を指揮しているのだ。

 つまり皇后になったあとも、軍の仕事をしているわけである。

「姫宮。念のために聞いておくが、皇后様はカムイ国の軍に属しているわけではないのだよな?」

「属してはおりません。ですが、やっていることは国軍の将軍の仕事ですね」

 現在、将軍の地位にある男もきちんとした実力をもつ立派な猛者なのだが、皇后が将軍であったころ海賊の討伐中に彼女に命を救われ、それから皇后の部下として長く彼女の下にいたためか、皇后に命令されると否とは言えないのだ。

 皇后として後宮に入る際、将軍職を辞したにも関わらず未だに現役を貫く彼女の剣を振るう姿は、とても凛々しくて美しくて、シズクは彼女に剣術の教えを請うたのだ。

 皇后は最初こそあまり乗り気ではなかった。

 皇后自身はもとは平民だが、シズクはれっきとした皇女なので、皇女として必要な教養や作法を身につけるべきではないかと思っていたからだ。

 しかしシズクに稽古をつけるうちに、そんな考えは次第に薄れていった。シズクが想像以上に剣術に優れていたからだ。

 それから剣術の稽古は本格的になった。皇后はもとは過去に将軍であったこととシズクが泣き言を言わずに稽古についてきたのもあり、その腕はめきめきと上達して最終的には現在の将軍と手合わせできるほどになったのだ。

 シズクが市井に降りて民の生活の様子を目にするようになったのも、思えばこのころからだったかもしれない。それも平民出の皇后から市井の話を聞いたのがきっかけである。

 そのため市井に降りるという皇族としてあまり良くはないシズクの行動が、皇后の口添えがあってのことだから、と認められたのだ。

「なんというか、ものすごく姫宮の御母堂らしい御方だな」

 皇帝は笑いに吹き出しそうになっているのを我慢しているのか、口許を手で覆っている。

 陛下の笑いのつぼが、私にはいまいち分からないわ。それに陛下、もしかしなくても勘違いしてる?

「あの陛下。思い違いをされているようなので申し上げますが、皇后様は私の実の母ではありません」 

 皇帝は虚を突かれたような表情になる。やはり皇后がシズクの実の母と思っていたようだ。話していた内容や口ぶりから勘違いするのも無理はないが。

「私、側室の娘ですから」

 自分で言うのもなんだが、シズクの内面は皇后の影響を大きく受けているので、実の母とは似ておらず皇后によく似ているのだ。

 実の母はカムイ国の貴族の娘で、生まれつきそんなに体が丈夫ではなく、シズクを産んでからは床に伏していることが多くなった、儚げ美しさを持つ穏やかな春の陽光のような人だ。

 ちなみに3人いる側室のなかの3番目の側室の娘で、第三皇女だ。3ばかりでややこしい。

「正室と側室で4人も妃がいるのか?御前会議で御姿を見たときのカムイ帝は色を好むような方にはおもえなかったが」

 ひとりごとに近い皇帝の言葉にシズクは苦笑する。

 皇帝の目は間違っていない。そもそもカムイ帝が側室を3人も迎えたのには、カムイ帝が望んでのことではなく別の理由があった。

 カムイ帝がまだ帝に即位する前、当時はまだ国軍の将軍であった皇后は、突然彼から求婚された。

 次期帝からの求婚はその実逆らうことのできない命令であり、また数多の女性が望む最高の地位を手に入れることができる道でもあるが、彼女ははっきりと、明確に、なんのためらいもよどみもなく、言いきった。

 一介の将軍である私と次期にカムイ国の帝であらせられる貴方様ではあまりにも身分違い、それに平民出の小娘に皇族が求婚など気でも狂ったかと、家臣達や民衆の心を悪戯に惑わすことになりましょう。単なる揶揄であったとしても、そのようなこと二度とおっしゃられてはなりません。

 臣としての礼儀こそ守ってはいるが、とりつくしまもない断り方である。いわゆる脈無しというやつだ。

 しかしカムイ帝はあきらめなかった。

 カムイ帝は何度も何度も彼女に求婚しては袖にされ、やんわりと拒否され、きっぱりと突き放され、振られ続けた。それを繰り返すうちに次期帝と将軍でありながら、求婚しては振られてついでにぶっ飛ばされる男と、振ると同時にぶっ飛ばす女という図式ができていた。

 次期帝にそんな真似をしたら普通処刑されそうなものだが、そこはカムイ国。

 今日もやってるなー、とのんびり見守られていた。あげくカムイ帝があきらめるか、皇后が落ちるかで賭けている人達もいたくらいだ。その人達も皇后にぶっ飛ばされたそうだが。

 そんなやりとりを何十回目も繰り返し続けて、カムイ帝は粘り勝ち、ようやく求婚を受けいれてもらえた。

 しかし問題が起きた。婚姻を結んで何年たっても、皇后に懐妊の兆しが一切見られなかったのだ。

 家臣達は世継ぎが生まれないことに表情を曇らせて、国の未来を案じた。そしてそれはもとは国に仕える立場であった皇后にひとつの決断をさせた。

「側室を迎えろ」

 でなければ、私は後宮から下がる。側室を迎えるならば、お前の妻として、カムイ国の皇后として一生カムイ帝であるお前の側にいてやる。

 真剣に、真面目に、真顔で、反論など許さないという雰囲気を圧力に変えてカムイ帝を押し潰さんばかりに、皇后は仁王立ちして宣言した。

 皇后の求めにカムイ帝はもちろんすぐに了承などしなかった。何度も何度も繰り返し求婚を断られ続けても、あきらめることなくようやく妻にした相手がいるというのに、それなのに他の女を側室に迎えるなど。

 側室を迎えろ、嫌だ、この問答を繰り返し続けて何日経ったか、とうとうしびれをきらした皇后が本当に後宮を下がろうとしたところで、カムイ帝はしぶしぶではあるが1人目の側室を迎え入れた。

 カムイ帝は望まずして迎えた側室に冷たく接することはしなっかたが、線引きはしていた。その証拠に側室との間に子どもが1人産まれると、その側室のもとに渡ることは二度としなかった。

 そのため、側室が1人子どもを産むたびに、また新たに側室が後宮に入ることなった。

 むしろ皇后のほうが側室のもとに足しげく通った。

 皇后は側室に自分は貴方の姉であり貴方は自分の妹だと言って接し、側室に子が生まれればそれこそ我が子のように可愛がった。

 そのこともあり、皇后と側室達は姉妹のように仲が良く、後宮は女達と子どもの笑い声で満ちていた。

 だが問題は解決しなかった。側室を3人も迎えても、生まれてくるのは皇女ばかり。世継ぎとなる男児はいっこうに生まれなかった。

 そんななか長年、子どもを産めずにいた皇后もとうとう懐妊したのだが、産まれてきたのはやはり皇女である女児。そこでカムイ帝は皇后に言った。

「もう側室を迎えるのはやめにしないか」

 皇后であるお前と側室が産んでくれた4人の皇女、もう充分じゃないか。別に絶対に男児を世継ぎにしなければならないということはないだろう。大陸全土を見てみろ、名君である女王もいる。この4人のなかの誰かをカムイ国の世継ぎにすればいい。

 カムイ帝は皇后が産んだ4人目の娘を両腕で抱き上げて、姉2人と近くに控えていたシズク達とその母である側室達を順番に目に映し、最後に皇后をまっすぐ見た。

 シズクの記憶のなかで、皇后が声をあげて泣くのを見たのは、あのときの一度きりだ。

 シズクは眼下に広がるラスシャータの王都のさらに向こう、故国であるカムイ国の方角を見つめる。

 ラスシャータに嫁いでからカムイ国のことを思い出した数は、片手の指の数にも満たない。

 このことを皇后様が知ったら薄情だって拗ねてしまわれるかもしれないわ。

 シズクがカムイ国に嫁がなければならなくなったとき、皇后はカムイ帝を絞め殺さんばかりに怒っていた。

 そのことを思い出してシズクはクスリとちいさく笑う。

 嫁いだその日はさっさと離縁されればカムイ国に帰れると思っていたのに、いつの間にかラスシャータのことを知ろうとしていて、なにより皇帝のためになにかできないか、皇帝に笑ってもらうためにできることをするのがシズクの仕事だと思うようになっていた。

「……行ってみたいものだ」

 その皇帝がシズクと同じように、けれどシズク以上に焦がれるような目をして王都の向こうを見つめていた。

「カムイ国ですか……?」

「そうだな……」

 皇帝は静かに笑うが、それはシズクが望んだ皇帝の笑顔ではない。それと同時にシズクには皇帝の笑顔の意味を悟った。

 皇帝は行けないのだ。三大覇王と畏れられ大陸の3分の1を手に入れたとしても、自分の意思で自分の望むまま自分の望む場所には行けない。

 彼が皇帝である限り、彼は真実の意味でどこかに行くことはできないのだ。

 それに気づいたとき、シズクは口走っていた。

「私が連れて行ってあげます」

 皇帝が行けないのならシズクが連れて行けばいい。皇帝がシズクをラスシャータの城下町に連れて行ってくれたように、今度はシズクが。

「私が陛下をお連れします、必ず」

 シズクだって皇女でいまはラスシャータの帝妃でもある。連れて行くと言ったところで簡単にはいかないだろう。でもいつか必ず、皇帝の望む場所に彼を連れて行く。

「……そうだな、連れて行ってくれ。カムイ国は姫宮の故郷だからな」

 皇帝がいつものようにシズクの頭を撫でようとする前に、シズクは彼の手をとり自らの小指と彼の小指を絡めた。

「これは?」

「指きりです。カムイ国では約束をするときこうするんです」

 シズクが小指だけをたてて他の指を曲げるのを真似しながら、皇帝は興味深そうに指きりする小指をみつめている。

「約束を破ったら拳骨を百万回されて針を千本飲んで小指を切らなきゃいけないんですよ」

「それは恐ろしいな」

「でしょう?だから指きりした約束は絶対に守らなきゃいけないんです」

 怖がるふりをしておどける皇帝にそう言って、シズクは絡め合った小指に力をいれる。

「だから絶対に私が陛下をカムイ国に連れて行きます」

 そしてカムイ国以外の、陛下が望む場所にも。もともと私は行動的すぎる稀なる姫なのだから、それくらいできなくてどうする?

「約束です」

「約束、だな……」

 皇帝は静かに笑う。その笑みはシズクが望んだ笑顔だった。

 

 

 


 


 

 














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