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第八話~高等部1年

翌年の4月になり、博和達は高等部に進学した。進学考査は至極簡単なものだったが、噂では落第した生徒もいたという。博和は武藤美幸の名前を探した――そして進学者名簿に彼女の名前をみつけたとき、幾分の安堵を覚えた。そして名簿は50音順であったので、三枝睦美の名は佐伯博和の後に記載されていた。

 進学してまもなく、博和は30代の数学の女教師に連れられて、教頭室に出向いた。博和はそれまで教頭がどのような人物か知らなかった。実際に面会してみると、総白髪だがやたらボリュームのある頭髪の、痩せて背がやや曲がった初老の男性だった。彼は座ったままテーブル越しにフルートのようなか細い声音で語りかけた。


「佐伯博和君、だね?君は数学が大変得意だそうだが?」

「はい、あぁ、まあそうですね。」


数学の教師が口添えした。


「彼は中学3年間を通して数学はトップ、ほぼ100点満点です。大手予備校の東大入試模擬テストでも上位5位以内をキープしています」


博和も、数学教師も黙り込み、教頭の次の言葉を待った。


「SSH、つまりスーパーサイエンスハイスクール指定をわが校は受けているのだが、来年で5年間の補助を打ち切られる。だが、率直にいうとアピールすべき成果が無いのが現実だ。なんとかして最終年度の来年までに何か画期的な成果を学校として挙げたい。そこで佐伯君に、国際数学オリンピックに出場してもらえればと思う。今年はもう無理だが、来年はどうかな?」

「なにか参考資料はありますか?」

「飯島君、持ってきているかね?」


数学教師は脇に挟んでいた数十ページ程の冊子を博和に手渡した。

博和はざっと目を通した。予選の仕組みや日程、過去の日本メダリストの出身校、そして問題例。特に問題例には慎重に眼を通した。


「……いいでしょう。今年の冬の予選に通れば、のはなしですが、来年参加しましょう」

「是非お願いする。健闘を祈るよ」


教頭は立ち上がり、博和と握手した。

教頭室から博和が出てくると、ちょうど昼休みだった。不意に背後から肩を突かれる。ふりかえると、睦美だった。低く囁くような声で、


「へーぇ、佐伯君て教頭室に呼ばれるようなすごいコトしたんだ?案外ワルなんだねぇ」


この頃になって、ようやく博和は睦美のペースに余裕を持って対応することが出来るようになった。


「違うんだ。これからすごいコトをするんだよ……ま、失敗するかもしれないけどね」

「なになに?屋上行って話そうよ」

「じゃあちょっと待ってて。弁当持ってくるから」


屋上に着くと、睦美と博和は並んでベンチに座った。睦美はいつぞやと同様に上質なサンドウィッチ、博和はコンビニ弁当。


「……で、これからするかも知れないスゴイ事って、なぁに?」

「う~ん、今言ったら失敗したときに恥ずかしいなあ……」


睦美は切れ長の瞳を大きく見開き、


「わたしにだけ教えてくれるならオッケーでしょ?誰にも言わないし、失敗しても絶対からかったりしないから」

「うん、」


博和はこめかみの辺りをかるく押しながら、


「まあ、国際数学オリンピックに出場したら、って言われたんだよ。来年の話なんだけどね」


睦美は、『ヒューウ』と軽く口笛を吹いた。


「それ、メダル獲ったら東大理3合格よりもスゴクない?」

「そのレベルまでいけば、ね。まあやるだけやってみるつもりだよ」


博和は弁当を食べ始めた。


「そいやさ、三枝さんだって受験資格は十分あると思うけど?」


睦美はやや俯き加減に、


「わたしは――駄目だなあ。最近数学に苦手意識持つようになっちゃった。複素数のあたりから具体的にイメージできなくなっちゃったんだよね」


睦美の成績が振るわないのは、博和もなんとなく知っていた。彼女の定期考査の順位は最近落ちてきて、今では5位以内に入るかどうか、というところなのだ。


「もうすぐ理系―文系コース分けがあるけど、たぶんわたしは文系だな」


博和は表情には現さなかったが、理系コースに行くつもりであった彼には、睦美のこの言葉は少々残念だった。ところで、睦美の進学志望先って何処の大学なんだろう?それについては彼女は何も言わなかった。まあさすがに今の段階でそこまで聞くのは失礼というものだろう。サンドウィッチを食べ終わった睦美は、長い髪を屋上の風になびかせながら、何処か空の一点をぼんやりと見つめていた。


その週の金曜日、博和は美幸に呼び出された。


『大切な話があります』


スマホの画面にはそう表示されている。多分……あの校舎の窓から見た光景から話の中身はおおよそ予想できる。間の悪い不快な話で、ひょっとしたら、ほうっておいたほうがいいのかもしれない。しかし博和は他人のみならず自分にも誠実さを課す少年だったので、きちんと対応することにした。ただ、取り乱したりせずに、できるだけ無感動に、無表情に徹するすることに心掛けた。

 放課後、博和は美幸の教室に出向いた。美幸は一人で机に座っていた。博和の姿を見かけると、美幸は立ち上がった。


「博和、ひさしぶり」


そういうと美幸はゆっくりと近づいてきた。


「やあ」


博和は短く返した。美幸はまっすぐに博和の視線を捉えた。やや目じりの下がった大きな瞳。博和よりも小柄な体に不釣合いな程大きな胸と腰。太っているわけではないが、全体に肉付きのよい、男受けする体つき。博和は無意識のうちに睦美の引き締まった体躯と比べていた。


「あのね……あまりに突然なんだけど、言わなきゃいけないと思って……あたし、本当いうとね、博和のことが好きだったんだよ。ずっと昔から一緒で、いつまでもそれが続くと思ってた。多分、うちの親もそうだと思う」


博和は次の言葉を待った。美幸はまだ博和をみつめている。


「でもね……この学校に入ってから博和変っちゃったよ。昔は気弱で、あたしが引っ張ってあげなきゃダメだった博和は可愛いかったけど、今じゃ成績優秀で、みんな博和のこと知っていて、あたしなんかとは別世界の人って感じで、ね」


とうとうあからさまになってしまったか、と博和は感じた。美幸はやや瞳を伏せた。


「進学考査のときだって、博和は悠々とこなしたんだろうけど、あたしは必死になって勉強したんだ……高等部の先輩に教えてもらって」


博和は美幸の言葉より、自身の心に何か突き刺さるものがないか、それを探った。今のところは何も無かった。


「それでね……その先輩、家は横浜方面なのにわざわざ家に来ていろいろ教えてくれたんだ。その人、成績はそんなでもないけど、あたしを励まして人間的にリードしてくれる強い男の人なの。サッカー部の長田先輩ってひと」


博和はまるで他人事のように考えていた。『その長田先輩は、三枝さんに告白したんだぜ』と美幸に教えたらどうなるだろう?勿論博和はそれを実行に移すような無思慮さは持ち合わせていなかった。美幸がつぎに何を言うか、はっきり予想はできる。それゆえ、もはや博和にできるのは待つことだけだった。


「それであたし、ね……長田先輩と付き合うことにしたの。だから……これまでありがとう。ごめんね、ひろくん」


そういい残すと、美幸は教室を出て行った。短く、ほとんど一方的な会話だった。考え様によっては、美幸が無反応の博和相手に半ば呆れて、会話を打ち切った、ともとれる。実際、博和はなにも感じなかった。ただ、小学生低学年の頃の呼び名だった『ひろくん』を久しぶりに美幸の口から聞いたとき、それだけはちくりと心に刺さる言葉だった。

その日、博和は一人で帰宅した。そこで、意図せずにいろんな記憶が複雑な感情と共に、こみ上げてくるのを感じた。涙を流すこともなく、心をかき乱す何かがあるわけでもなく、ただしばらくはひとりになりたかった。結局、博和は幼馴染と別れてわずかにだが動揺してしまったのだ。



その後数日経ったある日の放課後。博和は図書室で小松左京の短編集を読んでいた。広い図書室には誰もいない。『くだんのはは』に差し掛かろうとページをめくった時、部屋に誰かが入ってきた。


「あ、居た居た。佐伯君!」


入ってきたのは睦美だった。彼女は校内では目立たぬよう、人気の無い場所を選んで博和に話しかけるのが常だった。睦美は博和の向かいの席に座った。


「うん?」

「お姉ちゃんに聞いてきたよ、数学オリンピックのこと。お姉ちゃんの同級生にもメダリストが何人か居るって」

「さすがに理3なら居るだろうね」

「……でね、ネットでチェックした過去問をみせたら、お姉ちゃんなら出来るっていうの」

「すごいねぇ、三枝さんのお姉さんは!」

「お姉ちゃんが言うには、大学レベルの数学の知識は必要なくて、すべて高校の範囲で解ける筈だって。あ、でも今の日本の学習指導要綱から外れた平面幾何と関数等式、あと組み合わせ問題は出題範囲だってさ」

「情報ありがとう。助かるよ」


博和は睦美に微笑みかけた。だが睦美のほうは怪訝そうな表情で、


「……あれ?なんかあった?」

「いや……何もないけど、僕がどうかした?」


もし、美幸との間の事を見抜いたのだとしたら、凄まじい洞察力だ。だが判るわけが無い。


「佐伯君、なんか疲れてる感じ。夜眠れないの?気にしてる事があるとか?」


成る程、そう来たか。たしかに博和は美幸に別れを告げられてからというもの、眠りが浅くなり、過去の明晰夢をみるようになっていた。こんな症状は一時的なもので、すぐ元通りになると思っていたのに。


「あの……あのさ、もしなにか深刻な悩み事があるなら……わたしで良かったら……」

「ありがとう三枝さん。でもホントになにもないよ。最近ちょっと調べることが多くて、まあそれで睡眠時間が短いくらいかな」

「そう、それなら良かった!」


睦美の微笑みを、博和は真正面から見つめた。中等部1年の頃から大人びた美貌だった彼女だが、今の睦美はその美しさがさらに洗練されたように思える。眉目と鼻梁の線はシャープになり、切れ長の瞳と相まって全体的にすっきりした顔立ちになっている。恵まれた体躯と均整のとれた長い手足が、長身の睦美をさらに玲瓏とさせていた。だがその美貌は同時に独特の威圧感を醸し出していて、おそらく友人といえるのは極少数の女子だけ。それも定期考査に睦美を頼りにする程度だ。容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能なのに、学校行事を徹底的に無視するせいか、かなりの女子が三枝睦美を快く思っていない。しかも多くの男子に想いを寄せられているにもかかわらず、そっけない態度で素気無く拒絶する。さらには自分の彼女を振ってでも睦美に告白してしまう男子生徒もいるおかげで、睦美を憎悪する女子生徒も少なからずいる始末だった。でも今、こうして二人で話していると、特別な仲というわけではないが、睦美は――それは素の状態なのか、それとも何かを隠すための擬態なのか――は判然としないが、しかし極めて自然体に思えた。


「……ところでなんの本読んでいたの?」


博和は本の表紙を見せた。


「小松左京かぁ。わたし、『果てしなき流れの果てに』は何回も読んだなあ」

「あ、三枝さんは小松左京知ってるんだ!」

「勿論。佐伯君はどれが好き?」

「『復活の日』かな。暗い話だけど」

「うっわ!ちょっとそれは引いちゃうぞ。じゃね!」


睦美は入ってきたときと同様に、唐突に図書室を後にした。



 GW連休後最初の週のとある放課後。博和は久しぶりに体を動かしたくなり、テニス部の午後練が無い日を見計らって学校の壁打ちボードでひとりテニスを楽しんでいた。校庭ではラグビー部が、そして校舎裏のプールでは水泳部が練習をしている頃合だった。博和は集中していると時間を忘れてしまう。あっという間に2時間以上が過ぎていた。そろそろ人声も少なくなり、日も暮れかけて、博和は借りていたラケットを返そうと体育用具倉庫に向かった。ラケットを借りるときには開いていた正面扉が、どうやら中から鍵がかけられているようで、開かない。そこで倉庫の裏側に回り、外部から鍵掛けされている裏扉を開けようとした。幸いなことに、誰かが閉め忘れたのか、普段掛かっている鍵は解錠されたままだった。静かに扉を開けると、どこなくムンとした臭い、埃臭と違うなにか生々しい臭いが漂ってきた。


『人がいるのかな?』


もしそうなら、と博和は思い、そっとラケットを置いた。だが何かが聞こえてくる。リズミカルな何か……人の呼吸音だろうか?


「へ、へあッ、へ、へあッ、へあッ」


それと同時に女の甘い息遣いが時折混じる。


「あッ、あッ、あ、」


なんだろう?逆らいがたい好奇心に駆られて、博和は跳び箱の影に隠れて、倉庫の中を見渡した。はじめは暗闇の中で何も見えなかったが、次第に目が慣れてくると、マットの上に人がうつ伏せで横たわっているのがおぼろげに見えてきた。鋼線をより合わせたような、たくましい背中で男とわかる。そしてもうひとり、いる。暗い倉庫の中でもはっきりわかる白い腕が、男の首に巻きついている。男は誰かを組み敷いているのだ。しかも腰がゆっくり、小刻みに動いている。つまり、それは……


「あん、ああんッ、あんッ、先輩、長田先輩!」


それは博和が聞いたことのない甘くせつない嬌声だった。だが、博和はそれが誰の声音か非常に良く知っている。


男に抱かれているのは美幸だった。


ふと博和は頬に涙が伝っていることに気付いた。それは常に冷静沈着さを旨とする彼自身のプライドを、いたく傷つけた。そっと立ち上がると、急いで裏扉をあけて外に出た。2、3歩歩いたところで、博和は猛烈な吐き気を催した。あの光景ごときでここまで動揺するとはあまりに情けないと彼は自分自身を軽蔑した。だが実際に博和は背を曲げ、腹を押さえてしばらく蹲った。吐き気が引くと、よろめきながら、壁打ちボードのわきに置いてある鞄を手に取った。それは鉛の塊のように重く感じられて、校門までの道のりが果てしなく遠く思えた。


『あれぇ?地面が近づいてくる……』


彼は足がもつれるように倒れてしまった。そのままどれほど時間が過ぎただろうか。周囲はすっかり暗くなり、部活をしていた生徒も帰る時間帯になった。


「あッ、人が倒れてる!」


知らない女子生徒の声が遠くから聞こえる。


「倒れてる人、あの佐伯くんじゃない?」

「おい、身動きしねーぞ、やばいンじゃね?」


倒れた博和の周りに、部活帰りの生徒が10人程集まってきた。


「何があったんですか?」


聞き覚えのある声。


「ああ、一年の佐伯だよ。倒れてる」


誰かが駆け寄ってきた。カルキの匂いに混じった微かな甘い体臭。


「佐伯君!どうしたの、大丈夫?」


睦美は博和の腕をとり、肩を貸して立ち上がらせようとした。が、博和は吐き気が再びこみあげて激しく嘔吐してしまった。


「おいおい本格的にやべーぞこれ!今頃日射病かぁ?」

「とりあえず保健室連れてかないと。でも先生まだいるかな」


校舎一階の職員室にはまだ煌々と明かりが灯っていた。


「わたしが保健室へ連れて行きます。みなさん、すみませんが道を空けてください」


睦美はよろめく博和になんとか肩を貸し、いまにもふたりしてころびそうな不安定な姿勢で立ち上がった。


「あれ、一年の三枝だろ?あいつが人助けなんてするんだ……」


睦美はそのまま引きずるようにして博和を校舎へ連れて行った。幸いなことに保健室は一階で、この姿勢で階段を登る必要が無いのは有難かった。睦美は壁のスイッチを押して保健室の天井灯を点けると、カーテンを開いてベッドの上に博和を横たえた。博和は目を閉じてフゥフゥと呼吸していた。


「さて、と。外野もいなくなったし、ちょっと具合診ないとね」


立ったまま睦美は左手を自分の額にかざし、右手を博和の額に置いた。


「う~ん、熱は無いみたいだな」


次に睦美は左手で前髪をかき上げ、膝をついてそのまま自分の額を博和の額に、こつん、と当てた。30秒ほどそうしていただろうか、睦美は


「うん、やっぱり熱は無い」


と言って、カーテンの外から診療医用のリクライニングチェアを転がしてベッドの脇に置き、自分はそこへ座った。


「三枝さん、服汚してしまった?ごめんなさい」


うっすら瞼を開いた博和はかすれ声で睦美に謝った。


「いやいや、大丈夫だから気にしないで。ほとんど汚れなかったし、それにこんなシャツくらいどうでもいいよ」


睦美はリクライニングチェアに腰掛て、じっと博和を見ていた。博和の鞄はベッド脇に置いてある。ややあって、彼女は尋ねた。


「……何があったの?」

「大したことじゃない」

「呆れた。佐伯君だからそういうと思っていたけれど、でもそんなわけないでしょ。熱も無い健康な男子高校生が吐いて倒れる?絶対何かあったでしょう?」


睦美は腕組みをして博和の次の言葉を待っている。


「ちょっと……長い話になるよ。それでも良い?」

「もちろん、いいよ。わたしが解決できるかもしれないし」


博和は全てを語った……幼馴染である美幸が、いつのまにか自分から距離を置くようになったこと、幼馴染だった頃の思い出、そして美幸のほうから別れを切り出したこと、それがボディブローのように博和のメンタル面にダメージを与えたこと、そして今日体育用具倉庫で美幸と例の先輩がセックスしている現場を見たこと、を訥々と語った。

睦美は黙って聞いていた。そして黙ったまま数回頷いた。そしてかなりの間をおいてようやく口を開いた。


「……わかった」


その一言だった。ひょっとして睦美は僕をひどく心も身体も弱い、低俗な人間だと馬鹿にしているのかもしれない。博和は不安になった。だが睦美は伏目がちに首を傾けただけで、しばらくぴくりとも動かなかった。そしてようやく、彼女はハミルトンの機械式腕時計を見ると、


「もう大丈夫?時間も遅いし、帰る?」

「ああ、もういいよ。もともと体が原因じゃあないからね」


博和はベッドから降りると、鞄を抱えて


「今日はありがとう、三枝さん。僕の個人的な話までつき合わせちゃって。じゃ」


睦美は慌ててリクライニングチェアから立ち上がると、


「一人で帰るつもりだったの?だめよ、一緒にタクシーで帰ろ?」


睦美はスマフォでタクシー会社に電話をかけた。呼び出し音が鳴る中、睦美は


「近所なんだから、気を使わなくていいのに」


と告げた。

 タクシーに乗ると、博和はまた気分が悪くなってきた。睦美はそれを察したのか、


「やっぱり具合悪い?ここ、枕代わりにしていいよ」


とスカートの上をぽん、と叩いた。博和は幾分の恥かしさと緊張を自覚しつつ、そうっと睦美の二本の太腿の上、スカート越しに頭を載せた。睦美の甘く官能的な体臭が濃厚に漂ってくる。睦美はそんな博和の髪をそっと撫で続けた。彼は緊張よりもリラックスが上回るのを自覚した。

 タクシーが睦美の家に到着すると、睦美は料金を支払った。博和には割り勘など求めもしなかった。睦美はタクシーが走り去っても、すぐには家にはもどらず、そのまま立っていた。


「今日は本当にいろいろお世話になっちゃったね。三枝さんには感謝する」


そこで言葉が途切れた。それから睦美は微笑した。口もとがほころび、ほとんどそれとわからぬように、かすかに彼女の体はゆらいで一歩、二歩と博和に近づき、彼に寄り添うまでになった。そしてまじまじと博和の目を見つめて、睦美は両腕で彼の肩をつかんだ。その左腕は伸びてゆき、博和の首の後ろに絡まった。そして右手は、彼の頭を優しく包み込んだ。博和の喉元にはなにか固まりのようなものがこみあげてきた。二人の唇が合わさったらどうなるのか、2種類の物質を結合することにより未知の化学反応が生成するのではないか、その瞬間を博和は息を殺して待った。先に口付けを仕掛けてきたのは睦美のほうだった。両腕で博和の頭部をしっかりとホールドして、最初はついばむように、そして次第に大胆に口腔内に舌を挿しいれ、彼女の舌は彼の舌に大蛇のごとく絡みついた。そして博和は、今この瞬間に比べれば、今日見た光景や美幸との思い出など極々些細なことと思い知った。このキスで、睦美は博和の全てを洗い流し、極めて満ち足りた感覚を呼び起こしたのだ。

どのくらいキスをしていたのかわからない。だが睦美は、始めたときと同様に、終わるときも自分から身をひいた。一瞬、ふたりの唇の間に銀糸のつり橋が架かる。彼女はどことなく寂しそうに微笑みながら、三枝邸の豪奢な門をくぐった。


「三枝さんッ!」


博和は叫んだ。睦美が振り向く。


「僕は……三枝さんのことが……」


睦美は人差し指を口元に当て、


「言わなくていい。知ってる」


とだけ答えて消えていった。


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