ユィン
【ユィン】
人の立ち入らぬ山の深奥に、赤子が一人いた。
その赤子は高価な絹で織られた産着にくるまれ、大樹の下に寝かされていた。
静寂と闇、獣達の息遣いしか存在せぬ山の奥で、赤子は鳴き声一つ上げずに、大樹の下で横になりながら虚空を見つめ佇んでいた。
(…………)
赤子は声には出さぬが、確かな意識をもって思考していた。自分が何者なのか、ここがどこなのか……と。
それからどれくらい時が経ったであろうか。赤子は空腹を感じだした。その感覚が何なのか、何と言えば良いものなのか、赤子にはわからなかったが、空腹感を感じた。
(…………)
赤子が空腹感を感じてからしばらくすると、幼い子狼を三匹つれた牝狼が現れた。
その牝狼は己の張った乳を、我が子であろう幼い狼に与える前に、大地に佇む人間の赤子に与えようと乳を赤子の口元にもっていった。赤子は出された乳に吸い付き、夢中で吸った。
牝狼が立ち去ってからしばらくすると、赤子は便意を催した。その感覚も何かは赤子にはわからなかったが、体の生理機能の命ずるままに排泄した。
(…………)
不快なものを感じた。普通の赤子の様に、泣き叫ぶわけではなかったが、排泄物に汚れた部分が、不快でたまらなかった。
赤子がそう意識してからまたしばらくすると、小熊をつれた大きな熊が現れた。
母熊なのであろう。赤子の産着を器用に脱がすと、小熊の尻をなめるように赤子の尻をなめて綺麗にした。そして牝狼同様、赤子の世話を終えると、静かに立ち去った。
腹が満ち、不快感の消えた赤子は、自然と睡魔の誘いに導かれて眠りに落ちた。
季節は春であったが、産着に包まれただけの赤子が眠るには肌寒かった。赤子が寒さを感じるまでもなく、今度は大きな鷹が舞い降り、その大きな翼を広げ赤子を包み込んだ。赤子はそれに気づいているのか気づいていないのか、静かに笑みをたたえながら眠った。
夜に地を這う虫も蛇も、その赤子と赤子を包む鷹を避けて通り、辺りの獣達はその眠りを妨げぬ様に息を潜めた。そして日が登った。
赤子は数日も経つと、まるで数年たった程に成長した。
獣達は赤子の急速な成長にあわせるように、木の実を届け、魚を届けた。赤子が更に成長すると己の身を差し出した。
赤子は七日間で七歳程に成長した。
その間も獣達は世話を続けており、男児となった赤子はそれを不思議に思うでもなく、獣達の施しを受けていたが、意識の奥底に何かを感じた。
(これは……なんだろう……)
男児はその感謝の気持ちを表す言葉を持っていなかったが、その意識は獣達には伝わっていた。
獣達は、男児を神の様に崇めている風にも見えたし、我が子以上に愛おしい存在であるかの様に愛し守っている様にも見えた。そして、男児の意識が獣達に伝わるように、獣達の意識も男児に伝わっていた。
(…………)
男児の心の奥底に、意識の中に、またも新たな感情が芽生えた。男児は後に成長してから、その感情を表す仲間や家族と言う言葉を学んだが、今はまだ知らなかった。だが、何というかは分からぬだけで、その感情は強く男児の中に根付いた。己の食事の為に命を差し出す獣に、感謝し、涙を流すほどに……。
男児が七歳程の体に成長し、己の手足で事をなせるようになると、成長は止まった。いや、普通の速度にもどったと言うべきか。こうして、瞬く間に半年がたった。
その男児と獣達の穏やかな暮らしは、突然に、男児の怒りの爆発で破られた。
男児が見た事もない姿の生き物達が山に分け入り、山に暮らす獣達を次々と殺していったのである。
人間を初めてみる男児であったが、その姿を見たとき、それらが山の獣達が怖れ忌み嫌う人間という者であると直感で感じ取った。
(どうして……どうして!)
獣達も襲い合い、相手の命を奪ったが、それは全て生きる為であった。だからこそ獣達は必死に生き、他の獣を殺して命を奪い、それ故に己の命が他の獣の命の糧となる運命を受け入れていた。
しかし、人間達から感じる感情の波動は、殺戮を楽しみ、命を奪う事に感謝もなければ、己の命を他に捧げる覚悟もないものであった。
とりわけ、人間達の中でも様々な色をした派手な姿の者からは、忌まわしい程の嫌な感情の波動を感じた。
目の前で家族とも言える獣達が追い立てられ殺され、そしてそれをただ快楽と感じる波動を男児が感じたとき、男児の中で何かが弾けた。
(……!)
それは男児の中の何かが壊れたのか、それとも何かに目覚めたのかは分からなかったが、何かが弾けた。それと同時に、男児の体を黒い闘気が、闇よりも深く暗く、凶々しい闘気が包んだ。
黒い闘気に包まれた男児はその姿を異形へと変えると、怒りと破壊を具現化した様な咆哮を轟かせ、荒れ狂う魔物と化して人間達に襲い掛かった。
「グウオォォウォウゥオォー!」
それは戦いでも、狩りでもなかった。初めて感じた怒りと言う感情に支配され、魔物と化した男児は命の尊さも奪う事への感謝も忘れ、ただ殺戮と破壊を撒き散らした。
(……! ……!)
怒りに支配され人間達を殺した男児は、破壊と殺戮と流された血によって更に狂った。その激情の赴くままに山を駆け巡って麓におりた男児が見た物は、大勢の人間の姿であった。
愛する山の獣達を殺した者と同じ姿であるというだけで、男児は麓に住む人間達にも襲い掛かった。
男児の心の中には、怒りと悲しみが満ち溢れていた。愛する獣達を殺された怒り、失った悲しみ。そして激情のままに命を奪う己への怒りと、それを止められない苛立ち。その感情の渦が男児の姿をより強靱な肉体に、魔物に変えていった。
主人公、ユィンの登場です!
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