第1話「ぼっちの聖域に、彼女は現れた」
四月の朝は、やけに眩しい。
成瀬悠は窓際の席に腰を落ち着け、誰も寄りつかない本の森——もとい、自分の机の上に積み上げた参考書の壁——の向こうで静かに目を閉じた。
完璧だ。
始業のホームルームまでまだ十五分ある。この時間が、一日の中で最も尊い。教室は朝特有のざわめきに満ちているが、悠のテリトリーだけは別世界だ。誰も話しかけてこない。友達がいない、などとネガティブに考える必要はまったくない。一人でいることを選んでいるのだから。
しかも好都合なことに、悠の隣の机はいつも空いている。クラスは三十五人。机は六列で並べられているから、どうしてもひとつだけ余る。その"余り机"が、今回の席替えで悠の隣に来た。隣に誰も座らない——ぼっちの聖域を守るうえで、これ以上の好立地はなかった。
「ね、隣座っていい?」
悠の思索は、澄んだ声によって唐突に断ち切られた。
目を開ける。
そこに立っていたのは——白瀬桜だった。
「……え」
「え、じゃなくて。隣、空いてるでしょ。座っていいかって聞いてるの」
白瀬桜。学年屈指の美人であり、クラスの中心にいつもいる、あの白瀬桜が、なぜか悠の机の隣の椅子を引いて、腰を下ろそうとしていた。男子生徒の七割が密かに「学校で一番かわいい」と思っている、その白瀬が。
「……自分の席あるだろ」
「三組の田中くんに捕まってる。あそこに行ったら十分は帰れないから」
なるほど。避難場所を探しているらしい。
悠は一秒だけ考え、それ以上考えるのをやめた。
「好きにしろ」
「ありがと」
白瀬はちゃっかり腰を下ろし、スマホを取り出してゲームを始めた。
悠は目を閉じ直した。
——のだが。
「ねえ、あなたって成瀬くんだっけ」
「そう」
「いつもひとりだよね」
「そう」
「友達いないの?」
悠は片目を開けた。
「いる。一人」
「一人って……それって友達って言えるの?」
「言える。質の問題だ、量じゃない」
白瀬は少し考える顔をして、「ふーん」と言った。
「変な人」
「よく言われる」
「褒めてないんだけど」
「知ってる」
そのまましばらく沈黙が続いた。悠は再び目を閉じ、白瀬はゲームに戻った。不思議と、不快な沈黙ではなかった。
◇ ◇ ◇
その日の放課後。
悠は購買で買ったパンを手に、屋上への扉を開けた。立入禁止の看板が出ているが、鍵が壊れたままなのは三年前から周知の事実で、こっそり使っている生徒も少なくない。もっとも、悠がよくここに来ることを知っているのは、おそらく一人だけだ。
「遅い」
金属製のフェンスにもたれかかり、間宮剛が片手を上げた。
「お前こそなんで先に来てるんだ」
「六限サボった」
「真面目にやれ」
「お前に言われたくない」
悠はフェンスの隣に腰を下ろし、パンの袋を開けた。コロッケパン。百二十円。シンプルにうまい。
「聞いたぞ」と間宮が言った。「今朝、白瀬さんが隣に座ったって」
「情報が早いな」
「まあ俺の情報網をなめないでほしい。で、どうだった?」
「どうって、何が」
間宮は呆れたように目を細めた。
「白瀬桜だぞ? 学年の女神様が突然隣に座ってきたんだぞ? 普通ドキドキするだろ」
「しなかった」
「……なんで」
「用があって座っただけだし、俺に関係ない」
間宮は天を仰いだ。
「お前、本当に感情ないの?」
「ある。今はコロッケパンがうまいという感情がある」
「そういうことじゃなくて!」
風が屋上を吹き抜けた。悠はパンをひとくち食べながら、空を見上げた。刷毛で引いたような薄い雲が、ゆっくり流れていく。
悪くない景色だ。
◇ ◇ ◇
翌朝。
悠が教室に入ると、また白瀬が隣の席に座っていた。
「……昨日の田中とやらは?」
「今日は二組の佐藤くんが机の前に来てる」
「お前、人気者なんだからうまくやれ」
「うまくやってるから疲れてるんでしょ」
白瀬はばっさりと言って、またスマホを取り出した。
悠は一秒だけ考え、それ以上考えるのをやめた。
「好きにしろ」
「ありがと」
昨日と同じ言葉。昨日と同じ温度。
悠は教科書を開いた。それだけだった。
◇ ◇ ◇
その日の昼休み。
悠がいつも一人で昼食を食べる、教室の隅の窓際——自称・ぼっち聖域——に向かおうとしたとき、廊下で待ち構えていた人物がいた。
「成瀬先輩!」
振り返ると、見知らぬ女子生徒が満面の笑みで立っていた。一年生のバッジ。栗色のセミロング。くりっとした大きな目がまっすぐこちらを向いている。
「……誰?」
「橘ひなたです! 先輩の料理、食べたことあります?」
「ない」
「え、でも昨日の家庭科室——」
「ああ」
思い出した。昨日、家庭科の授業の後、自分の練習用に残って作ったパスタを、頼まれてもいないのに食べていった一年生が一人いた。
「あれ、もらっていいとは言ってないんだが」
「それより!」橘は悠の言葉を颯爽とスルーした。「あの味、尋常じゃなかったです。先輩、将来どこかのシェフですか?」
「ただの趣味だ」
「趣味!? あのレベルが趣味!?」橘は両手を頬に当てて感動を表現した。「先輩に決めました」
「何を」
「お嫁さん候補です」
悠は三秒間、言葉の意味を咀嚼した。
「……意味がわからない」
「先輩のごはんをずっと食べたいので、先輩のお嫁さんになります」
「論理が飛躍しすぎている」
「愛に論理は関係ありません!」
橘は満足そうにうなずき、ぱたぱたと廊下を走り去った。
悠は取り残された廊下で、しばらく立ち尽くした。
鈍感な悠にも、さすがに今の状況がまずいことはわかった。
ただし「まずい」の定義が、悠の場合は人と少し違った。
(ぼっちライフが……脅かされている)
それだけだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
悠が教室に入ると、白瀬がまた隣に座っていた。
そしてなぜか、白瀬の隣に——水瀬凛が立っていた。
「おはよ、悠」
幼馴染の声。冷静で、少し低くて、昔から変わらない。
「……なんでここにいる。お前の教室、隣のクラスだろ」
「ちょっと用があって」
凛は悠の机の上に弁当箱を一つ、そっと置いた。
「作りすぎた。食べて」
「作りすぎたくらいなら自分で食べればいいだろ」
「私じゃ食べきれない量なの。捨てるのもったいないでしょ」
白瀬が弁当箱をじっと見て、凛を見て、悠を見た。
「……幼馴染?」
「そう」と凛が答えた。
「仲いいんだ」
「別に」と悠が答えた。
「普通に仲いいわよ」と凛が答えた。
二人の回答が見事にすれ違ったのを見て、白瀬は小さく笑った。
「ふふ。面白いね、成瀬くんって」
「面白くはない」
「面白いわよ」と凛が追いうちをかけた。
悠は額に手を当てた。
なぜ朝からこんなに騒がしいのか。
(ぼっち聖域の危機は、どうやら昨日だけじゃなかったらしい)
そう思いながら教科書を開いた悠は、気づいていなかった。
隣の白瀬が、弁当箱をじっと見つめながら、ほんの少しだけ唇を引き結んでいたことを。




