聖女はもういない
3日間、何も起きなかった。
神殿では朝の祈祷が行われ、アデリアは正確に聖歌を歌った。
澄んだ声は一度も調子を外すことなく礼拝堂に響き、祈りの言葉も、所作もすべてが教本どおりだった。
祭壇の前に立つ姿は美しく、白い聖女服もよく映える。
祈祷を終えたアデリアを、神官たちは満足そうに見つめて、神殿長は何度も大きく頷いた。
「さすがは真の聖女様だ」
そんな声さえ聞こえた。
5日目。
東部の村から、井戸水が濁ったと報告が届いた。
7日目。
北門の結界石が割れた。
8日目。
治癒室で、軽傷者の傷の治りが遅いという話が出た。
それぞれ別の問題として処理された。
10日目。
ルシアンが会議中に頭痛を訴え、医師は疲労だと診断した。
12日目。
礼拝堂の蝋燭が何度も消えた。
窓は閉まっていた。
14日目。
南部から、聖具が一斉に光を失ったという報告が届いた。
◇
アデリアの執務机には、朝から書類が積み上がり続けていた。
祈祷を終えて部屋へ戻ったときには数枚だったはずが、昼を過ぎる頃には小さな山になっている。そのほとんどが、見覚えのない印章を押されたものだった。
「これは何?」
いちばん上の書類を取り上げると、控えていた神官が答えた。
「西部結界の報告書です。結界石の力が弱まっておりますので、聖力による補強をお願いしたいと」
アデリアは眉をひそめた。
「そういうことは、担当の神官がするのではないの?」
「通常の補修はいたします。ただ、今回は聖力を直接注ぐ必要があるため、これまでは前聖女様にお願いしておりました」
また、その名前だった。
アデリアは返事をせず、次の書類へ手を伸ばした。
治癒室から、治りの遅い患者を診てほしいという依頼。その下には地方神殿から届いた聖具の浄化依頼があり、さらに別の村からは、濁り始めた井戸水を見てほしいと訴えが来ている。
まだある。
祝福を求める嘆願書。弱った聖樹の調査。各地から届いた報告への返答。
書類をめくるたびに、同じ言葉が出てきた。
――前聖女様にお願いしていた。
アデリアの指が止まった。
「まさか、これを全部やれというの?」
神官はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「冗談でしょう?」
朝は日の出とともに祈祷を行った。その後は参拝者への祝福があり、昼前には治癒室にも顔を出している。それだけでも、アデリアが侯爵令嬢として送ってきた生活とは比べものにならないほど慌ただしい。
そのうえ、これだけの仕事を抱えろというのか。
「前の聖女は、本当にこんなことまでしていたの?」
「……はい」
「毎日?」
「すべてが毎日ではございません。ただ、各地で何かあれば、まずミレイユ様へ知らせることになっておりましたので」
「なぜ?」
神官は答えに詰まった。
なぜ、と改めて問われると分からなかった。
結界に異変があれば、ミレイユを呼んだ。聖具が弱れば、ミレイユへ知らせた。治癒室で手に負えない患者が出れば、やはり誰かが彼女を捜しに行った。
いつからそうなったのか、それさえ誰も覚えていない。
「もういいわ」
アデリアが書類を机へ投げ出した。
「私は雑用係になるために認められたわけではないわ」
苛立ちを隠そうともせず立ち上がり、そのまま部屋を出ていった。
残された神官たちは、誰もすぐには口を開かなかった。
机の上には、処理されないままの書類が残っている。
やがて1人が、その中から西部結界の報告書を手に取った。
「……これは、誰が担当していた?」
「だから、ミレイユ様が」
「そうではなくて。その前だ」
答えは返ってこなかった。
別の神官が、地方神殿から届いた記録をめくり始める。
調べてみると、妙なことが分かってきた。
ミレイユに与えられた正式な務めは、これほど多くなかった。
最初は、聖女にしかできない浄化をひとつ頼んだだけだった。
次に、治癒を頼んだ。
それが終わった頃、別の神官が結界の補強を頼んだ。
地方から相談が届けば、聖女様なら何とかしてくださるのではないかと回した。
ミレイユは、そのたびに引き受けた。
できませんとも、忙しいとも、ほとんど言わなかった。
だから誰もが、自分が頼んだひとつの仕事しか知らなかった。朝の祈祷を終えた彼女が、その前に何をしていたのか。治癒室から出ていったあと、どこへ向かったのか。夜遅くに仕上げられた報告書の前に、いくつの仕事を終えていたのか。
誰も知らなかった。ただ、頼めば翌日には終わっていた。それが6年続いた。
いつしか、それが当たり前になっていたのだ。
机に積まれた書類を前にして、神官たちはようやく気づき始めた。自分たちは、聖女ミレイユが何をしていたのかを知らない。6年間、毎日のようにその姿を見ていたというのに。
◇
王太子付き侍従のハロルドがミレイユについて調べ始めたのは、ルシアンが3日続けてほとんど眠れなくなった頃だった。
最初は疲労だと思われていた。ところが、休息を取らせてもよくならない。夜になるとひどい頭痛を訴え、時折、部屋が寒いと言うようになった。暖炉には火が入っている。室温にも異常はない。王宮付きの医師が何度診ても、原因は分からなかった。
そんな折、ハロルドはふと思い出した。
――夕方は濃くなるんです。
何度も聞いた言葉だった。そのたびに、また始まったと思っていた。ハロルドだけではない。ルシアンも、王宮の者たちも、皆そうだった。
だが、今はもう、その話をする者はいない。
気になって神殿へ足を運んだ。
「前聖女は、毎日いつ頃こちらへ来ていたのです?」
尋ねられた若い神官は、少し考えてから首を傾げた。
「日によります。王宮から呼ばれることもありましたし、ご自分から向かわれることもありましたので」
「何のために?」
「殿下の……黒いものを祓う、と」
ハロルドは反射的に顔をしかめた。
「まだそんな――」
そこで言葉が止まった。まだ、ではない。そんなことを言う者は、もういないのだ。
「王宮から戻ったあとは?」
「地方神殿から届いた報告書をご覧になっていたと思います」
「夕刻の祈祷のあとにか?」
「はい」
おかしい。その時間、ミレイユは王宮にいたことが多い。ハロルド自身、何度も見ている。そう伝えると、神官は困ったように眉を寄せた。
「でしたら……戻られてからではないでしょうか」
「夜に?」
「おそらく」
気になって、さらに記録を調べた。
すると、もっと妙なことが分かってきた。地方神殿への返書には、夜遅くに処理されたものがいくつも残っていた。ところが翌朝の祈祷記録には、当然のようにミレイユの名がある。
日の出前には身支度を整え、祈祷の準備に入っていたという。その間にも、治癒室の記録、聖具の浄化、結界石の補強、祝福の依頼がある。どれかひとつなら、おかしくはない。
だが、日付を照らし合わせると、同じ日にいくつもの記録にミレイユの名が現れた。
ハロルドは、机の上に広げた記録を見つめた。
「……いつ休んでいたんだ」
誰にともなく呟いたが、答えられる者はいなかった。神殿の者たちは神殿でのミレイユしか知らない。王宮の者たちは、王宮へやって来る彼女しか知らない。地方の神官たちは、自分たちが送った依頼に返事をくれる聖女しか知らなかった。
そしてハロルド自身が知っていたのは、王太子の後を飽きもせずついて回るミレイユだった。
皆、そう言っていた。また聖女様が殿下を追いかけている、と。ハロルドも何度、呆れただろう。
けれど。
なぜ、彼女はルシアンを追いかけていた?
『殿下の周りに黒い靄があるんです』
同じことを、何度も言っていた。
『夕方になると濃くなるんです』
誰も信じなかった。ルシアンも。ハロルド自身も。
そのとき、もう1つ記憶が蘇った。
『お守りです。持っていてください』
いつだったか、ミレイユから小さな袋を渡された。断るのも面倒で受け取り、そのまま腰の小物入れに放り込んだはずだった。ハロルドは手を入れ、奥を探った。
指先に、小さな袋が触れる。
取り出して紐をほどくと、手のひらにしずく形の水晶が転がった。
「……何だ、これは」
記憶にあるものとは違っていた。
渡されたときは、向こう側が透けて見えるほど透明だったはずだ。
今は、水晶の中心が黒く濁っている。ただの汚れではない。墨を一滴落としたような黒いものが、水晶の内側でゆっくりと揺れていた。
ハロルドは動けなかった。
掌の上の小さな水晶を見つめているうちに、今まで別々だったものが、ひとつにつながり始める。
ルシアンの不調。夕方になると強くなる頭痛。誰も原因を突き止められない寒気。
そして、毎日のように王宮へ押しかけていたミレイユ。
『殿下の周りに黒い靄があるんです』
あれが妄想ではなかったとしたら。
ハロルドの背中を、冷たいものがゆっくりと這い上がった。
◇
アデリアは祈祷に現れなくなっていた。
初めからそうだったわけではない。
ミレイユが去ったあとも、アデリアは毎朝、定められた時刻に礼拝堂へ現れた。祭壇の前に立ち、決められた祈祷文を唱え、聖歌も楽譜どおりに歌った。声は美しく、作法にも間違いはない。水晶を光らせた聖力も本物だった。治癒を行えば傷は塞がり、祝福を施せば淡い光が生まれる。
それなのに、神殿では異変が増え続けた。
西部の結界を補修した翌日には、南門の結界石に亀裂が入った。濁った井戸を神官たちが浄化している間に、別の地区から同じ知らせが届く。治癒室を訪れる病人も減るどころか、日を追うごとに増えていった。
アデリアに集中していた仕事は、すでに各担当へ戻されている。
それでも追いつかなかった。仕事が多いのではない。異変そのものが、増えているのだ。
アデリアの苛立ちは日に日に募った。
「私は真の聖女なのよ」
いつしか、それが口癖になった。
けれど、そう口にするたびに、周囲の神官たちがわずかに目を伏せるようになったことには気づかなかった。
神殿そのものも、少しずつ様子を変えていた。廊下は薄暗く、石造りの壁から冷気が染み出してくる。以前と同じ数の燭台に火を入れているはずなのに、夜になると妙に暗い。
「……ここは、こんな場所だったか?」
ある朝、年嵩の神官が呟いた。隣にいた者は答えなかった。ただ、同じように礼拝堂を見回した。
以前は、朝になると歌声が聞こえていた。決して上手な聖歌ではなかった。途中で歌詞を間違えることもあれば、勝手に言葉を足すこともあった。祈祷長に叱られる声まで含めて、いつもの朝だった。
それなのに、あの声が礼拝堂に響く頃には、不思議と朝の光が満ちていた。夜勤を終えた神官が、今日は妙に身体が軽いと笑ったことがある。礼拝堂へ入ると頭痛が消えたと言った者もいた。廊下の花が季節外れに長く咲いていた年もあった。誰も、それを特別なことだとは思わなかった。神殿とは、そういう場所なのだと思っていたからだ。
けれど、違ったのではないか。神殿だから明るかったのではない。
毎朝ここで、あの娘が祈っていたからではないのか。
誰かがそう口にしたわけではない。
それでも同じ疑念が、神官たちの間に静かに広がり始めていた。
◇
アデリアが礼拝堂で声を荒らげたのは、それから間もなくのことだった。
その日も、祈祷は正しく行われていた。聖歌も間違えていない。最後の一節まで美しく歌い終え、アデリアが祭壇へ祈りを捧げる。
何も起こらなかった。薄暗い礼拝堂は、薄暗いままだった。誰かが息を吐く音が聞こえた。
それだけだった。
アデリアが振り返る。
並んでいた神官たちはすぐに頭を下げたが、遅かった。
「何よ」
誰も答えない。
「何なの、その顔」
「アデリア様」
「私の祈祷に何か問題でも?」
「いえ、そのようなことは」
「だったら何よ!」
甲高い声が礼拝堂に響いた。手にしていた楽譜が床へ落ちる。
「ちゃんとやっているでしょう! 祈りも、聖歌も、全部教えられたとおりに!」
そのとおりだった。誰も否定できない。アデリアは何も間違えていなかった。
それなのに、以前のようにはならない。アデリア自身も、それが分かっていたのだろう。
「私は真の聖女なのよ!」
楽譜を拾い上げ、両手で引き裂いた。
「どうして私がこんな思いをしなければならないの! もっと大切にされるべきでしょう!」
止めようとした神官の手を振り払い、泣きながら礼拝堂を出ていった。
翌日、アデリアは祈祷に現れなかった。その次の日も。
やがてローデン侯爵家から、娘は心身を休めるため療養に入った、との知らせだけが届いた。
それきり、アデリアが神殿へ戻ることはなかった。
◇
「前聖女を捜せ」
ルシアンがそう命じたとき、誰も彼の顔を見なかった。
捜索は、とっくに始まっていたから。
ミレイユが神殿を出た翌朝まで王都の宿にいたことは、すぐに分かった。宿の者によれば、その日の午後、彼女は王都を出ている。
そこまでは追えた。
問題は、その先だった。乗合馬車の利用記録には名前がない。主要な街道の宿場にも、それらしい宿泊記録は残っていなかった。
ただ、王都を発つ前、宿で見知らぬ一行と言葉を交わしていたという証言だけがあった。
「その者たちは何者だ」
報告を受けたルシアンが尋ねた。
「分かりません。宿の者も、初めて見る方々だったと」
「馬車は?」
「数台あったそうです。ただ、紋章も見慣れないものだったと」
「行き先は」
「それも聞いていないそうです」
ルシアンの眉間に深い皺が寄った。
「街道を調べろ」
「すでに人を出しております」
「では関所だ。王都から出られる道をすべて――」
「そちらにも問い合わせております」
ルシアンは黙った。
机の上には、すでに各所から届いた捜索報告が並んでいる。見つからない。
たった1人の女だ。
6年間、ほとんど毎日のように顔を合わせていた。王宮へ来るなと言ってもやってきて、帰れと言っても廊下で待っていた。
その女が今は、どこにいるのかさえ分からない。
「……1人の人間が、これほど跡形もなく消えるものなのか」
苛立ちを抑えるように吐き出した声に、答える者はいなかった。
「殿下」
ハロルドが静かに声をかけた。
「本日はもうお休みください」
「まだ仕事がある」
「お顔の色がよくありません」
「医師は何と言っている」
「疲労だと」
「なら問題ない」
書類へ手を伸ばそうとして、指先が止まった。
視界が揺れた。
机に手をつく。
「殿下?」
「……寒い」
ハロルドが暖炉を見た。火は十分に燃えている。部屋の中にいるほかの者は、誰も寒さなど感じていない。窓の向こうでは、西の空が赤く染まり始めていた。
夕暮れだった。
この時間になると、決まって現れる者がいた。
『殿下』
聞くだけで苛立った声。
『今日は昨日より濃いんです』
仕事をしていても構わずやってきた。追い払っても、しばらくするとまた現れた。
『少しだけ』
『駄目だ』
『詠唱だけでも』
『そういう問題ではないと言っただろう!』
何度言っても諦めなかった。だから、鬱陶しかった。つきまとうな。放っておいてくれ。君の妄想に付き合っている暇はない。私は君のそういうところが苦手だ。
自分が口にした言葉を、ルシアンはひとつひとつ覚えていた。
「ハロルド」
「はい」
「……あれは、まだあるか」
ハロルドには分かったらしい。
少し迷ってから、自分の腰の小物入れに触れた。
「私のものは、こちらに」
取り出された小袋から、しずく形の水晶が現れた。以前は透明だったそれは、今では中心から黒く濁っている。ルシアンはしばらく見つめたあと、自分の机へ目を向けた。
「私のものも、どこかにあるはずだ」
ハロルドが引き出しを調べ、奥から小さな袋を見つけた。
「こちらでしょうか」
差し出された袋を、ルシアンが受け取る。紐をほどいた。息が止まった。
ハロルドのものより、はるかに黒い。
透明だったはずの珠は、もうほとんど光を通さないほど濁っていた。
なぜ、こんなものを渡されたのだったか。
『お守りです。持っていてください』
そう言っていた。
必要ないと答えた気がする。それでも置いていったのだ。そして、毎日のように同じことを言い続けていた。
『殿下の周りにあるんです』
『夕方になると濃くなるんです』
『昨日祓ったのは昨日の分なので』
『最近、戻るのが早くなっていて』
妄想ではなかったのか。誰にも見えなかっただけで。彼女には、本当に見えていたのか。
ルシアンは黒く染まった珠を見つめた。
もう1つ、思い出す。
『私じゃ力不足なのかもしれません』
違う。
今なら分かる。力不足だったのではない。祓っても、翌日には戻ってくるものを。
彼女は毎日、祓っていたのだ。自分に疎まれ、追い払われても。それでも翌日には、またやってきた。
「……ミレイユ」
名前が口からこぼれた。
返事はない。当然だった。来るなと言ったのは、自分なのだから。
小さな音がした。ルシアンは掌へ目を落とした。
黒く染まった珠に、細い亀裂が走っている。
ハロルドも息を呑んだ。
「殿下、それを――」
言い終えるより先に、亀裂が広がった。しずく形の輪郭が崩れる。水晶の欠片が落ちると思った。だが、ルシアンの掌からこぼれたのは、真っ黒な粉だった。
さらさらと指の隙間を抜け、机の上へ落ちていく。
その黒を見つめたまま、ルシアンの身体が傾いた。
「殿下!」
ハロルドが駆け寄る。床へ倒れる寸前で抱き止めたが、すでに意識はなかった。
開いたままの掌には、黒い粉だけが残っていた。
その日、王太子ルシアンは倒れた。
◇◇
窓から差し込む午後の日差しが、開いた本の上に落ちていた。
ミレイユは寝台に背を預け、夢中になって頁をめくっていた。
王都を離れてから、ずいぶん遠くまで来た。
今いるのは、いくつもの街道を通り、国境まで越えた先にある大きな屋敷の一室だった。
初めてこの部屋へ案内されたときには、何かの間違いではないかと思った。寝台だけでも神殿で使っていたものよりずっと大きい。床には足が沈みそうなほど厚い絨毯が敷かれ、大きな窓からはよく手入れされた庭園と、その向こうに連なる山々まで見渡せる。
本が読みたいと言ったら書庫へ案内された。そこには、端から端まで読むのに何年かかるのか分からないほどの本があった。今読んでいるのは、この土地に伝わる古い物語だ。
もう少し。
この章だけ。
そう思いながら頁をめくっていると、扉が叩かれた。
「はい」
返事をすると、扉が開いた。
「あら。また本を読んでいたの?」
入ってきた婦人を見て、ミレイユは慌てて寝台から下りた。旅先で偶然出会い、ここまで連れてきてくれた人だった。年の頃は、ミレイユの母よりいくらか上だろうか。旅の途中では飾り気のない服を着ていたので気づかなかったが、ここへ来てからというもの、身につけているものはどれも上質で、屋敷の者たちは皆、彼女に深々と頭を下げる。
どうやら、かなり偉い人らしい。
「そのままでいいのよ」
「でも」
「私が勝手に来たのだから。座っていて」
そう言われて、ミレイユは素直に寝台へ戻った。婦人は向かいの長椅子に腰を下ろす。
「どう? こちらの暮らしには慣れた? 不自由していることはない?」
「全然ありません。こんなによくしていただいて、本当にありがとうございます」
婦人は楽しそうに目を細めた。
「馬房の柵の修繕を手伝ったんですって?」
「あ、はい」
「厨房では山ほど豆を剥いてくれたとか」
「はい」
「あとは?」
「そうですね。庭師さんと薬草を植えました」
「みんな喜んでいたわ。あなたとやると、とても楽しいって」
「私も楽しかったです」
婦人が笑い出し、ミレイユもつられて笑った。
「初めて見るものばかりで、面白いんです」
釘の打ち方が悪いと厩番に笑われた。やり直したら、今度は上手だと褒められた。
厨房で豆を剥いたのも楽しかったし、薬草にも知らない種類がたくさんあった。
「今まで、やらなきゃいけないことばかりだったので」
口にしてから、ミレイユは少し考えた。
「頼まれると、何でもやらなきゃいけないと思ってたんです。私もよくなかったんです」
「そう思う?」
「はい」
今でも、困っている人を見れば放っておけないと思う。頼まれれば、きっと気にもなる。
けれど、ここでしていることは少し違った。
誰かに命じられたわけでも、今日中に終わらせなければならないわけでもない。疲れれば休めるし、お腹が空けば食事に行ける。
何より、自分がやってみたくてやっている。
「今は、やりたいことをやらせてもらえて、ありがたいです」
そう言うと、婦人はしばらくミレイユを見つめ、それから穏やかに微笑んだ。
窓の外から鳥の声が聞こえた。静かで、穏やかな午後だった。
しばらくして、婦人がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、あなたが以前いた王都のことだけれど」
ミレイユは顔を上げた。
婦人の声が、それまでとはほんの少し違っていた。
「その後のこと、知りたい?」
その言い方で、何かあったのだと分かった。
神殿だろうか。それとも、王宮だろうか。
ミレイユは少しだけ考えて、首を横に振った。
「……いいえ」
婦人が意外そうに眉を上げた。
「いいの?」
「気にはなりますけど、いいです」
ミレイユは膝の上の本を閉じた。
「何かあったって聞いたら、私にできることがあるんじゃないかって考えると思うんです」
そうしたら、きっとまた気になってしまう。
頼まれれば引き受けて、終わらなければ食事を後回しにして、眠る時間を削る。
同じことを繰り返してしまう気がした。
「だから、聞かなくていいです。それに――」
少し前までなら迷ったかもしれない。けれど、その言葉は自分でも驚くほどすんなり出てきた。
「戻っても、きっとまた怒られるだけです」
婦人がわずかに目を見開いた。
「そもそも、あちらにはちゃんとした聖女様がいらっしゃいますから」
「…………そうね」
妙に長い間があった。
気になって顔を上げると、婦人は何かを言いたそうな顔をしていた。
けれど、やがて柔らかく微笑み、ゆるく首を横に振った。
「分かったわ。では、この話はここまでにしましょう」
「はい」
「邪魔をしたわね。本の続きをどうぞ」
婦人は立ち上がり、扉へ向かった。
「ああ、そうだわ」
振り返ったので、ミレイユも顔を上げる。
「夕食まで、まだずいぶん時間があるから、好きに過ごしてちょうだい」
「はい。ありがとうございます」
婦人は満足そうに頷くと、今度こそ部屋を出ていった。
扉が静かに閉じる。
ミレイユは膝の上の本に目を落とした。
さて、何をしよう。
本の続きを読んでもいい。庭へ行ってもいい。厨房を覗いたら、また何か面白いことをしているかもしれない。どれにしようかと考えているうちに、なんだか楽しくなってきた。
窓の外には、知らない土地の夕暮れが広がっている。
やがて、遠くで鐘が鳴った。
ミレイユは顔を上げた。
それだけだった。
もう、追われるように走り出す必要はない。
しばらく鐘の音に耳を傾けてから、ミレイユは読みかけの本を開いた。
本作のもとになったショート動画です。
よろしければご覧ください。
「聖女解任-こうして聖女は旅立った-」
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「聖女解任その後-気づくのが遅かったんだ-」
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