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聖女解任されました。ご迷惑をおかけしてごめんなさい! お世話になりました  作者: ロケマロ


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1/2

聖女の日々

西日が差し込み始めた王宮の執務室には、紙とインクの匂いが満ちていた。

 壁一面を覆う書棚には分厚い法典や記録簿が並び、中央の大机には、処理を待つ書類がいくつもの山を作っている。窓辺に置かれた時計の針が進む音と、紙をめくる音だけが静かな室内に響いていた。



 王太子ルシアンは、その机に向かっていた。

 濃紺の上着に銀糸の刺繍を施した正装姿で、癖のない黒髪はきちんと整えられている。端正な顔立ちには疲労の色が浮かんでいたが、姿勢を崩すことなく書類に目を通し、ちょうど自らの署名を入れて次の1枚へ手を伸ばしたときだった。



「殿下。少しだけよろしいですか?」

 前触れもなく扉を開け、顔を覗かせたのは聖女ミレイユだった。

 濃い栗色の髪を背中でひとつに束ね、神殿の白い聖衣をまとっている。ただし、清廉さを象徴するはずの衣の袖にも裾にも、小さな汚れや煤がついていた。

 華やかな美貌というわけではない。けれど、よく動く大きな茶色の瞳と柔らかな顔立ちは、人好きのするものだった。

 もっとも今、その目はルシアン本人ではなく、彼の肩の少し後ろへ向けられている。

 ミレイユを認めた瞬間、ルシアンの顔にありありと嫌気が浮かんだ。

 また来たのか。

 口に出されなくても、そう言われたのが分かった。


「よくない」

 即答だった。

 ミレイユは扉のところで立ち止まった。

「でも、今日は昨日より濃いんです」

 ルシアンが大きく眉を寄せた。文官たちが目を伏せる。また始まった、とおそらく皆が思った。

 ミレイユの視線の先では、ルシアンの肩から背中にかけて、墨を水に垂らしたような黒い靄がゆっくりと揺れている。

「昨日も時間を取った」

「はい。でも昨日祓ったのは昨日の分なので」

「意味が分からない」

「私もです。でも、また出ているんです」

「ミレイユ」

 低い声で名前を呼ばれた。

「私は仕事中だ」

「はい」

「君の妄想に付き合っている暇はない」

 妄想。

 そうなのだろうか。ミレイユには、あんなにはっきり見えているのに。



 最初に黒い靄を見つけたのは、2年ほど前だった。その頃は煙のような細い筋が見える程度で、祈ればすぐに消えた。

 だから安心していた。

 ところが、しばらくするとまた現れた。祓えば消えるが、また現れる。

 それを繰り返すうちに、靄は少しずつ濃く、大きくなっていった。最近では夕方に祓っても、翌日にはもうルシアンの周りにまとわりついている。

「少しで済みます。今日は本当に多いので」

「君はいつもそう言う」

 確かに言っている。

「では、殿下はお仕事をされたままでも」

「そういう問題ではない!」

 厳しい声に、ミレイユは驚いて肩を上げた。

 文官たちはさらに小さくなる。


「何度言えば分かる。私につきまとうな。執務室の前で待つな。寝室へ勝手に入るな」

「あ、あれは寝台の下に溜まっていたので」

「理由は聞いていない」

「はい」

「だいたい、君にしか見えないものを、私にどう信じろというんだ」

 それはもっともだった。

 ミレイユも逆の立場なら、たぶん困る。

「そうですよね」

「もう来るな。命令だ」

「でも、明日また出ていたら」

「来るなと言った」

「はい」

 今は無理そうだ。ミレイユは頭を下げた。

「お仕事中、失礼しました」




 扉を閉め、廊下へ出る。それから首をひねった。

 あれを明日まで放っておくのは、やはりよくない気がする。夜になれば、もっと濃くなってしまう。仕方ない。殿下の仕事が終わるまで、ここで待とう。

 待っている間に、地方神殿から届いた報告書を読めばいい。長椅子に腰を下ろし、抱えていた鞄から書類の束を取り出す。

 東部の村で井戸水が濁った。

 南の礼拝堂では聖具の光が弱い。

 西門の結界石は、次の月までは持ちそうにない。

 3つか。

 今日は少ない。よかった。



 書類を読み始めたところで、廊下の向こうから侍従が歩いてきた。ミレイユを見るなり、露骨に嫌そうな顔をする。

「まだいらしたのですか」

「はい。お仕事が終わるのを待っています」

 侍従がため息をついた。

「殿下は困ってらっしゃいます」

「そうですよね。なので早く祓って差し上げたいんです」

 侍従は何か言いかけ、やめた。何とも言えない、この表情。最近、いろいろな人によくこの顔をされる。でもミレイユには、理由がよく分からなかった。




     ◇




 ルシアンの仕事にようやく区切りがついたのは、夕刻の祈祷の時間が迫るころだった。

 執務室の扉が開き、ルシアンが出てくる。



 長椅子から立ち上がったミレイユを見て、今度は隠しもせず盛大なため息をついた。

「帰れと言ったはずだ」

「少しだけ」

「駄目だ」

「詠唱だけでも」

「そういう問題ではないと言っただろう!」

 ルシアンが足を止め、振り返った。

 その顔には、怒りと嫌悪があった。

「いい加減にしてくれ。婚約者なら何をしても許されると思うのか」

「そんなことは」

「寝室へ入り、執務室へ押しかけ、行く先々で待ち伏せする。周囲からどう見られているか、考えたことはないのか?」

 考えたことはなかった。

「申し訳ありません」

「私は君のそういうところが苦手だ」



 遠慮する気もないのだろう。こちらの目を見据えて言い切る姿を見ると、胸が少しだけ苦しい。

「もう放っておいてくれ」

 ルシアンは去っていった。

 背中の黒い靄も、一緒に遠ざかっていく。


 あんなにも濃い。どうしよう。

 考えているうちに、遠くから神殿の鐘が聞こえた。


「あ」

 夕刻の祈祷。

 今度はミレイユが走り出した。




     ◇




 神殿へ戻ったときには、夕刻の祈りを告げる鐘はとうに鳴り終えていた。

 ミレイユは長い回廊を駆け抜け、礼拝堂の重い扉を押し開けた。

 高い天井を持つ礼拝堂には、すでに大勢の神官たちが整然と並んでいた。正面の祭壇にはいくつもの燭台が灯され、その向こうでは色鮮やかなステンドグラスが、沈みかけた陽を受けて床に淡い光を落としている。


 静まり返った堂内に、勢いよく開いた扉の音が響いた。

 一斉に視線が集まる。

驚いた顔は、ほとんどなかった。またか、と呆れるような顔。露骨に眉をひそめる者もいれば、隣の者と目を合わせる者もいる。いつものことだった。

 ミレイユは肩で息をしながら、その場で足を止めた。

 走ってきたせいで髪は乱れ、白い聖衣の裾もくしゃくしゃになっている。袖には、昼間の聖具の浄化でついた煤が残ったままだった。



 祭壇の前に立っていた祈祷長が、ゆっくりと振り返る。

「なぜ貴女は時間を守れないのです」

「殿下のところに」

「また殿下ですか」

 祈祷長が額を押さえた。

「神殿の務めを疎かにしてよい理由にはなりません」

「はい」

「昨日は昼の祈祷を途中で抜けたそうですね」

「北門の結界石が割れたので」

「あなたが祈祷を抜けてよい理由にはなりません」

「すみません」

「謝ればよいというものではありません」

「はい」

「それから、その聖衣は何です」

 ミレイユは自分の袖を見た。

 煤で汚れている。

「昼間、聖具を浄化したときに……着替える時間がなくて」

「聖女なのですよ。もう少しご自分の立場をお考えください」

「はい」



 叱られたあと、祈祷が始まった。

 今日こそは歌詞通りに歌いたい。もちろん完璧に覚えている。なのに祈り始めると、いつも導かれるように別の言葉が出てきてしまうのだ。止めようとしても、元の歌詞に戻そうとしても、どういうわけかうまくいかない。今日も3番に入ったところで、違う言葉が口からこぼれた。

 まるで何かがミレイユを通して、歌に乗せて言葉を届けようとしているようだった。

 祈祷長がこちらを睨んでいる。あとでまた怒られる。分かってはいるのだが、自分ではどうにもできない。


 そのまま祈り終えると、礼拝堂に柔らかな光が差した。

 窓の向こうでは、もう太陽が沈みかけている。

 


「ミレイユ様!」

 祈祷が終わるなり、若い神官が駆け込んできた。

「治癒室に熱の下がらない子供が」

「行きます」

「ミレイユ!」

 祈祷長が呼んだ。

 治癒室のほうからは、もう一度「ミレイユ様」と呼ぶ声が聞こえた。

「すみません。お叱りは後でうかがいます!」

 頭を下げ、また走り出した。




     ◇




 聖女になって6年になるが、ミレイユはいまだに自分が聖女に向いているとは思えなかった。



 15歳のとき、故郷の礼拝堂で枯れかけた聖樹に触れた。翌朝、木いっぱいに花が咲いた。

 その噂を聞きつけた神官がほどなく村を訪れ、ミレイユは王都へ連れていかれた。

 そのまま聖女と認められ、王太子との婚約まで決まった。




 あまりに早く話が進んだので、本人は途中からついていけなくなった。

 やれと言われたことはやったものの、作法は何度覚えても間違えた。書類仕事は遅く、決められたとおりに歌わなければならない聖歌も苦手だった。

 毎日仕事に追われ、ゆっくり食事をとる時間もない。それでも仕事は終わらない。

 皆が言うように、きっと自分の要領が悪いのだ。

 本物の聖女なら、もっと上手にできるのだろう。





 半年ほど前、神殿へ知らせが届いた。

 ローデン侯爵家の令嬢アデリアが、病に伏せていた侍女に触れただけで熱を下げたという。さらに領地の礼拝堂で祈りを捧げた際には、聖力にしか反応しない聖具が強い光を放った。


 王都へ招かれたアデリアが測定用の水晶に触れると、水晶は眩いほどに輝き、神殿は騒然となった。

 聖女は、同じ時代に2人現れない。

 それが神殿の常識だった。

 ならば、どちらが真の聖女なのか。



 侯爵令嬢のアデリアは美しく、立ち居振る舞いも完璧だった。

 聖歌も祈祷の言葉も間違えない。

 聖力測定の水晶も、確かに光った。

 どちらが真の聖女なのかを見極めるため、議会で審議されることになった。

 そのことはミレイユも知っていた。



 けれど、朝から晩まで仕事に追われる彼女に、経過を知らせる者はいなかった。

 ルシアンからも、何も言われなかった。




     ◇




 その日の夕方、アデリアから呼び出された。

 王宮の一角に、アデリアのための部屋が用意されているらしい。

 案内された部屋へ入ると、アデリアはすでに待っていた。



 淡い色のドレスを隙なく着こなし、艶やかな髪も美しく結い上げられている。少し前まで聖具の浄化に追われ、煤のついた聖衣のまま走り回っていた自分とはずいぶん違う。

 やっぱり、聖女というのはこういう人なのかもしれない。

 ミレイユは素直にそう思った。



 机の上には、1枚の書類と指輪が置かれていた。

 王家からミレイユへ贈られた婚約指輪と、よく似た意匠だった。




「聖女の解任と、婚約の解消ですか?」

 差し出された書類を読んで、ミレイユは尋ねた。

「ええ」

 アデリアが嫣然と微笑んだ。

「議会で正式に決まったんですって。真の聖女は私。だから殿下とあなたの婚約は解消されて、私が新しい婚約者になったの」

「いつ決まったんですか?」

「正式には2日前よ」

「2日前……」

 ミレイユは瞬いた。


「殿下もご存じなんですか?」

「いやだわ。当然でしょう」

 昨日もルシアンに会った。

 一昨日も会っている。

 何も聞いていない。


 もっとも、昨日も怒られただけだった。今日にいたっては、もう来るなと命令された。

 なら、話す必要もないと思われていたのかもしれない。



「ほら。ここに書いてあるでしょう?」

 アデリアが書面の一箇所を指した。

「あなたの聖女としての資格を剥奪する、と」

「剥奪……」

 ミレイユは書類へ顔を近づけた。

 小さな文字を追う。

 確かに書いてある。



 聖女としての資格を剥奪する。

 王太子ルシアンとの婚約を解消する。

 神殿における聖女としての務めを解く。



「本当だ」

「何?」

「本当ですね。ここにちゃんと書いてあります。剥奪って」

 思わず顔を上げた。

 嬉しそうな声が出た。



 アデリアが怪訝そうにミレイユを見る。

「……そうよ」

「じゃあ、もう聖女じゃないんですね?」

「だからそう言っているでしょう」

 アデリアは少し苛立ったように書類を指で叩いた。



「用意ができ次第、神殿を出るようにとも書いてあるわ」

「すぐってことですか?」

「ええ」

 ミレイユは黙った。



 すぐ。

 ということは。


「明日の朝の祈祷は?」

「出なくていいわ」

「治癒室も?」

「関係ないでしょう」

「地方神殿からの報告書は?」

「知らないわよ」

「夜の結界確認も?」

「ない!」

「王宮から呼ばれても?」

「来ないで。二度と殿下に近づかないでちょうだい」


 全部ない。


 ミレイユは頭の中で、明日の予定を思い浮かべた。

 朝の祈祷。

 治癒室。

 聖具の確認。

 昼の祝福。

 地方から届く報告書。

 夕方には王宮へ行って、夜には結界を見て回る。

 それが。

 全部、ない。



「……では」

 思わず確認した。

「明日の朝、起きなくていいんですか?」

「は?」

「朝の鐘で」

「好きにすれば?」

 胸の奥で、何かがほどけた。



「本当に?」

「何なの、あなた」

「すみません」

 笑ってはいけない。

 聖女を解任された。

 婚約者でもなくなった。

 たぶん、悲しむところなのだと思う。


 でも。

「ありがとうございます」

 どうしても声が弾んだ。

 アデリアがぽかんとした。

 その顔を見て、ミレイユはようやくもう1つ大事なことを思い出した。




「あ、そうだ。殿下のことなんですけど」

「……殿下?」

「最近、黒い靄がすごく濃くなっていて」

「靄?」

「殿下の周りにあるものです。夕暮れ時は特にひどくて」

 アデリアは一瞬黙った。



「……ええ。もちろん知っているわ」

「よかった!」

 ミレイユは思わず笑った。


 初めてだった。

 見えると言ってくれた人は。

「私、ずっと心配だったんです。毎日祓っているのに、前より戻るのが早くなっていて。今日も結局、祓えなくて」

「ちょ、ちょっと」

 アデリアが遮ろうとしたが、ミレイユは止まらない。

「だから本物の聖女様が来てくださって、本当によかったです。これでもう安心ですね」

「待って。何の話を」

「今までご迷惑をおかけして、すみませんでした」


 ミレイユは深々と頭を下げた。

「お世話になりました!」




     ◇




 荷造りは、すぐに終わった。

 聖女として与えられた衣装も装飾品も置いていく。

 持っていけるのは、王都へ来たときから持っていた鞄と普段着が3着。それから、母の櫛くらいだった。

 引き継ぎについては、何も言われていない。

 真の聖女がいるのだから、きっと必要ないのだろう。




 部屋を出る。

 誰も見送りには来なかった。

 それも当然だ。

 急に決まったことなのだから、皆仕事中なのだろう。


 廊下で何人かの神官とすれ違った。

「お世話になりました」

 頭を下げると、驚いた顔をされた。

 決定を知っている者もいれば、まだ知らない者もいた。

 けれど、引き止める者はいなかった。


 礼拝堂の前を通る。中から聖歌が聞こえてきた。

 アデリアの声だった。

 美しい。旋律も、言葉も正しい。自分のように途中で歌詞を忘れたり、勝手な願い事をつけ足したりもしない。ミレイユはしばらく立ち止まって聞いていた。

「やっぱり、私じゃなかったんだなあ」

 小さく呟く。

 少しだけ、寂しかった。6年間やってきたことが、今日で終わる。けれど、それ以上に安心した。

 これなら大丈夫だ。

 ルシアンの黒い靄も、真の聖女ならきっと祓える。

 

ミレイユは礼拝堂に向かって深々と一礼し、再び歩き出した。

 

 正門を出る。

 そこで一度だけ振り返った。6年間暮らした神殿が、夕暮れの中にそびえている。

「お世話になりました」

 もう一度、頭を下げた。それから王都の雑踏へ歩き出した。




     ◇



 翌朝。

 ミレイユは宿屋の鐘で飛び起きた。

「遅刻!」

 布団を跳ね除ける。朝の祈祷。顔を洗って、聖衣に着替えて――


「あ」

 聖衣はない。祈祷もない。

 しばらく寝台の上に座っていた。やがて、もう一度布団をかぶる。

「……寝ていいんだった」



 次に目覚めたときには、昼近くになっていた。

 階下へ降りると、宿の主人が笑った。

「よく休めたかい?」

「それはもう」

 遅い朝食を頼んだ。

 焼きたてのパンと、湯気の立つスープが運ばれてくる。

 ミレイユはスープをひと口飲んだ。

 温かい。もうひと口。まだ温かい。結局、最後まで温かかった。途中で鐘が鳴っても、誰も自分を呼ばない。食事を中断して走っていく必要もない。それだけのことが、妙に嬉しかった。


「今日はどうするんだい?」

 宿の主人に聞かれた。

「そうですねえ」

 考えてみる。

 帰る場所はある。故郷へ戻ればいい。けれど、今すぐ帰らなければならない理由もなかった。

 6年間、王都と神殿と王宮を行き来するばかりだった。


「とりあえず、王都を出てみようと思います」

「行き先は?」

「まだ決めてません」

「……そうかい」



 その日の午後。

 6年間ほとんど離れることのなかった王都を、ミレイユは1人で出た。

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