聖女の日々
西日が差し込み始めた王宮の執務室には、紙とインクの匂いが満ちていた。
壁一面を覆う書棚には分厚い法典や記録簿が並び、中央の大机には、処理を待つ書類がいくつもの山を作っている。窓辺に置かれた時計の針が進む音と、紙をめくる音だけが静かな室内に響いていた。
王太子ルシアンは、その机に向かっていた。
濃紺の上着に銀糸の刺繍を施した正装姿で、癖のない黒髪はきちんと整えられている。端正な顔立ちには疲労の色が浮かんでいたが、姿勢を崩すことなく書類に目を通し、ちょうど自らの署名を入れて次の1枚へ手を伸ばしたときだった。
「殿下。少しだけよろしいですか?」
前触れもなく扉を開け、顔を覗かせたのは聖女ミレイユだった。
濃い栗色の髪を背中でひとつに束ね、神殿の白い聖衣をまとっている。ただし、清廉さを象徴するはずの衣の袖にも裾にも、小さな汚れや煤がついていた。
華やかな美貌というわけではない。けれど、よく動く大きな茶色の瞳と柔らかな顔立ちは、人好きのするものだった。
もっとも今、その目はルシアン本人ではなく、彼の肩の少し後ろへ向けられている。
ミレイユを認めた瞬間、ルシアンの顔にありありと嫌気が浮かんだ。
また来たのか。
口に出されなくても、そう言われたのが分かった。
「よくない」
即答だった。
ミレイユは扉のところで立ち止まった。
「でも、今日は昨日より濃いんです」
ルシアンが大きく眉を寄せた。文官たちが目を伏せる。また始まった、とおそらく皆が思った。
ミレイユの視線の先では、ルシアンの肩から背中にかけて、墨を水に垂らしたような黒い靄がゆっくりと揺れている。
「昨日も時間を取った」
「はい。でも昨日祓ったのは昨日の分なので」
「意味が分からない」
「私もです。でも、また出ているんです」
「ミレイユ」
低い声で名前を呼ばれた。
「私は仕事中だ」
「はい」
「君の妄想に付き合っている暇はない」
妄想。
そうなのだろうか。ミレイユには、あんなにはっきり見えているのに。
最初に黒い靄を見つけたのは、2年ほど前だった。その頃は煙のような細い筋が見える程度で、祈ればすぐに消えた。
だから安心していた。
ところが、しばらくするとまた現れた。祓えば消えるが、また現れる。
それを繰り返すうちに、靄は少しずつ濃く、大きくなっていった。最近では夕方に祓っても、翌日にはもうルシアンの周りにまとわりついている。
「少しで済みます。今日は本当に多いので」
「君はいつもそう言う」
確かに言っている。
「では、殿下はお仕事をされたままでも」
「そういう問題ではない!」
厳しい声に、ミレイユは驚いて肩を上げた。
文官たちはさらに小さくなる。
「何度言えば分かる。私につきまとうな。執務室の前で待つな。寝室へ勝手に入るな」
「あ、あれは寝台の下に溜まっていたので」
「理由は聞いていない」
「はい」
「だいたい、君にしか見えないものを、私にどう信じろというんだ」
それはもっともだった。
ミレイユも逆の立場なら、たぶん困る。
「そうですよね」
「もう来るな。命令だ」
「でも、明日また出ていたら」
「来るなと言った」
「はい」
今は無理そうだ。ミレイユは頭を下げた。
「お仕事中、失礼しました」
扉を閉め、廊下へ出る。それから首をひねった。
あれを明日まで放っておくのは、やはりよくない気がする。夜になれば、もっと濃くなってしまう。仕方ない。殿下の仕事が終わるまで、ここで待とう。
待っている間に、地方神殿から届いた報告書を読めばいい。長椅子に腰を下ろし、抱えていた鞄から書類の束を取り出す。
東部の村で井戸水が濁った。
南の礼拝堂では聖具の光が弱い。
西門の結界石は、次の月までは持ちそうにない。
3つか。
今日は少ない。よかった。
書類を読み始めたところで、廊下の向こうから侍従が歩いてきた。ミレイユを見るなり、露骨に嫌そうな顔をする。
「まだいらしたのですか」
「はい。お仕事が終わるのを待っています」
侍従がため息をついた。
「殿下は困ってらっしゃいます」
「そうですよね。なので早く祓って差し上げたいんです」
侍従は何か言いかけ、やめた。何とも言えない、この表情。最近、いろいろな人によくこの顔をされる。でもミレイユには、理由がよく分からなかった。
◇
ルシアンの仕事にようやく区切りがついたのは、夕刻の祈祷の時間が迫るころだった。
執務室の扉が開き、ルシアンが出てくる。
長椅子から立ち上がったミレイユを見て、今度は隠しもせず盛大なため息をついた。
「帰れと言ったはずだ」
「少しだけ」
「駄目だ」
「詠唱だけでも」
「そういう問題ではないと言っただろう!」
ルシアンが足を止め、振り返った。
その顔には、怒りと嫌悪があった。
「いい加減にしてくれ。婚約者なら何をしても許されると思うのか」
「そんなことは」
「寝室へ入り、執務室へ押しかけ、行く先々で待ち伏せする。周囲からどう見られているか、考えたことはないのか?」
考えたことはなかった。
「申し訳ありません」
「私は君のそういうところが苦手だ」
遠慮する気もないのだろう。こちらの目を見据えて言い切る姿を見ると、胸が少しだけ苦しい。
「もう放っておいてくれ」
ルシアンは去っていった。
背中の黒い靄も、一緒に遠ざかっていく。
あんなにも濃い。どうしよう。
考えているうちに、遠くから神殿の鐘が聞こえた。
「あ」
夕刻の祈祷。
今度はミレイユが走り出した。
◇
神殿へ戻ったときには、夕刻の祈りを告げる鐘はとうに鳴り終えていた。
ミレイユは長い回廊を駆け抜け、礼拝堂の重い扉を押し開けた。
高い天井を持つ礼拝堂には、すでに大勢の神官たちが整然と並んでいた。正面の祭壇にはいくつもの燭台が灯され、その向こうでは色鮮やかなステンドグラスが、沈みかけた陽を受けて床に淡い光を落としている。
静まり返った堂内に、勢いよく開いた扉の音が響いた。
一斉に視線が集まる。
驚いた顔は、ほとんどなかった。またか、と呆れるような顔。露骨に眉をひそめる者もいれば、隣の者と目を合わせる者もいる。いつものことだった。
ミレイユは肩で息をしながら、その場で足を止めた。
走ってきたせいで髪は乱れ、白い聖衣の裾もくしゃくしゃになっている。袖には、昼間の聖具の浄化でついた煤が残ったままだった。
祭壇の前に立っていた祈祷長が、ゆっくりと振り返る。
「なぜ貴女は時間を守れないのです」
「殿下のところに」
「また殿下ですか」
祈祷長が額を押さえた。
「神殿の務めを疎かにしてよい理由にはなりません」
「はい」
「昨日は昼の祈祷を途中で抜けたそうですね」
「北門の結界石が割れたので」
「あなたが祈祷を抜けてよい理由にはなりません」
「すみません」
「謝ればよいというものではありません」
「はい」
「それから、その聖衣は何です」
ミレイユは自分の袖を見た。
煤で汚れている。
「昼間、聖具を浄化したときに……着替える時間がなくて」
「聖女なのですよ。もう少しご自分の立場をお考えください」
「はい」
叱られたあと、祈祷が始まった。
今日こそは歌詞通りに歌いたい。もちろん完璧に覚えている。なのに祈り始めると、いつも導かれるように別の言葉が出てきてしまうのだ。止めようとしても、元の歌詞に戻そうとしても、どういうわけかうまくいかない。今日も3番に入ったところで、違う言葉が口からこぼれた。
まるで何かがミレイユを通して、歌に乗せて言葉を届けようとしているようだった。
祈祷長がこちらを睨んでいる。あとでまた怒られる。分かってはいるのだが、自分ではどうにもできない。
そのまま祈り終えると、礼拝堂に柔らかな光が差した。
窓の向こうでは、もう太陽が沈みかけている。
「ミレイユ様!」
祈祷が終わるなり、若い神官が駆け込んできた。
「治癒室に熱の下がらない子供が」
「行きます」
「ミレイユ!」
祈祷長が呼んだ。
治癒室のほうからは、もう一度「ミレイユ様」と呼ぶ声が聞こえた。
「すみません。お叱りは後でうかがいます!」
頭を下げ、また走り出した。
◇
聖女になって6年になるが、ミレイユはいまだに自分が聖女に向いているとは思えなかった。
15歳のとき、故郷の礼拝堂で枯れかけた聖樹に触れた。翌朝、木いっぱいに花が咲いた。
その噂を聞きつけた神官がほどなく村を訪れ、ミレイユは王都へ連れていかれた。
そのまま聖女と認められ、王太子との婚約まで決まった。
あまりに早く話が進んだので、本人は途中からついていけなくなった。
やれと言われたことはやったものの、作法は何度覚えても間違えた。書類仕事は遅く、決められたとおりに歌わなければならない聖歌も苦手だった。
毎日仕事に追われ、ゆっくり食事をとる時間もない。それでも仕事は終わらない。
皆が言うように、きっと自分の要領が悪いのだ。
本物の聖女なら、もっと上手にできるのだろう。
半年ほど前、神殿へ知らせが届いた。
ローデン侯爵家の令嬢アデリアが、病に伏せていた侍女に触れただけで熱を下げたという。さらに領地の礼拝堂で祈りを捧げた際には、聖力にしか反応しない聖具が強い光を放った。
王都へ招かれたアデリアが測定用の水晶に触れると、水晶は眩いほどに輝き、神殿は騒然となった。
聖女は、同じ時代に2人現れない。
それが神殿の常識だった。
ならば、どちらが真の聖女なのか。
侯爵令嬢のアデリアは美しく、立ち居振る舞いも完璧だった。
聖歌も祈祷の言葉も間違えない。
聖力測定の水晶も、確かに光った。
どちらが真の聖女なのかを見極めるため、議会で審議されることになった。
そのことはミレイユも知っていた。
けれど、朝から晩まで仕事に追われる彼女に、経過を知らせる者はいなかった。
ルシアンからも、何も言われなかった。
◇
その日の夕方、アデリアから呼び出された。
王宮の一角に、アデリアのための部屋が用意されているらしい。
案内された部屋へ入ると、アデリアはすでに待っていた。
淡い色のドレスを隙なく着こなし、艶やかな髪も美しく結い上げられている。少し前まで聖具の浄化に追われ、煤のついた聖衣のまま走り回っていた自分とはずいぶん違う。
やっぱり、聖女というのはこういう人なのかもしれない。
ミレイユは素直にそう思った。
机の上には、1枚の書類と指輪が置かれていた。
王家からミレイユへ贈られた婚約指輪と、よく似た意匠だった。
「聖女の解任と、婚約の解消ですか?」
差し出された書類を読んで、ミレイユは尋ねた。
「ええ」
アデリアが嫣然と微笑んだ。
「議会で正式に決まったんですって。真の聖女は私。だから殿下とあなたの婚約は解消されて、私が新しい婚約者になったの」
「いつ決まったんですか?」
「正式には2日前よ」
「2日前……」
ミレイユは瞬いた。
「殿下もご存じなんですか?」
「いやだわ。当然でしょう」
昨日もルシアンに会った。
一昨日も会っている。
何も聞いていない。
もっとも、昨日も怒られただけだった。今日にいたっては、もう来るなと命令された。
なら、話す必要もないと思われていたのかもしれない。
「ほら。ここに書いてあるでしょう?」
アデリアが書面の一箇所を指した。
「あなたの聖女としての資格を剥奪する、と」
「剥奪……」
ミレイユは書類へ顔を近づけた。
小さな文字を追う。
確かに書いてある。
聖女としての資格を剥奪する。
王太子ルシアンとの婚約を解消する。
神殿における聖女としての務めを解く。
「本当だ」
「何?」
「本当ですね。ここにちゃんと書いてあります。剥奪って」
思わず顔を上げた。
嬉しそうな声が出た。
アデリアが怪訝そうにミレイユを見る。
「……そうよ」
「じゃあ、もう聖女じゃないんですね?」
「だからそう言っているでしょう」
アデリアは少し苛立ったように書類を指で叩いた。
「用意ができ次第、神殿を出るようにとも書いてあるわ」
「すぐってことですか?」
「ええ」
ミレイユは黙った。
すぐ。
ということは。
「明日の朝の祈祷は?」
「出なくていいわ」
「治癒室も?」
「関係ないでしょう」
「地方神殿からの報告書は?」
「知らないわよ」
「夜の結界確認も?」
「ない!」
「王宮から呼ばれても?」
「来ないで。二度と殿下に近づかないでちょうだい」
全部ない。
ミレイユは頭の中で、明日の予定を思い浮かべた。
朝の祈祷。
治癒室。
聖具の確認。
昼の祝福。
地方から届く報告書。
夕方には王宮へ行って、夜には結界を見て回る。
それが。
全部、ない。
「……では」
思わず確認した。
「明日の朝、起きなくていいんですか?」
「は?」
「朝の鐘で」
「好きにすれば?」
胸の奥で、何かがほどけた。
「本当に?」
「何なの、あなた」
「すみません」
笑ってはいけない。
聖女を解任された。
婚約者でもなくなった。
たぶん、悲しむところなのだと思う。
でも。
「ありがとうございます」
どうしても声が弾んだ。
アデリアがぽかんとした。
その顔を見て、ミレイユはようやくもう1つ大事なことを思い出した。
「あ、そうだ。殿下のことなんですけど」
「……殿下?」
「最近、黒い靄がすごく濃くなっていて」
「靄?」
「殿下の周りにあるものです。夕暮れ時は特にひどくて」
アデリアは一瞬黙った。
「……ええ。もちろん知っているわ」
「よかった!」
ミレイユは思わず笑った。
初めてだった。
見えると言ってくれた人は。
「私、ずっと心配だったんです。毎日祓っているのに、前より戻るのが早くなっていて。今日も結局、祓えなくて」
「ちょ、ちょっと」
アデリアが遮ろうとしたが、ミレイユは止まらない。
「だから本物の聖女様が来てくださって、本当によかったです。これでもう安心ですね」
「待って。何の話を」
「今までご迷惑をおかけして、すみませんでした」
ミレイユは深々と頭を下げた。
「お世話になりました!」
◇
荷造りは、すぐに終わった。
聖女として与えられた衣装も装飾品も置いていく。
持っていけるのは、王都へ来たときから持っていた鞄と普段着が3着。それから、母の櫛くらいだった。
引き継ぎについては、何も言われていない。
真の聖女がいるのだから、きっと必要ないのだろう。
部屋を出る。
誰も見送りには来なかった。
それも当然だ。
急に決まったことなのだから、皆仕事中なのだろう。
廊下で何人かの神官とすれ違った。
「お世話になりました」
頭を下げると、驚いた顔をされた。
決定を知っている者もいれば、まだ知らない者もいた。
けれど、引き止める者はいなかった。
礼拝堂の前を通る。中から聖歌が聞こえてきた。
アデリアの声だった。
美しい。旋律も、言葉も正しい。自分のように途中で歌詞を忘れたり、勝手な願い事をつけ足したりもしない。ミレイユはしばらく立ち止まって聞いていた。
「やっぱり、私じゃなかったんだなあ」
小さく呟く。
少しだけ、寂しかった。6年間やってきたことが、今日で終わる。けれど、それ以上に安心した。
これなら大丈夫だ。
ルシアンの黒い靄も、真の聖女ならきっと祓える。
ミレイユは礼拝堂に向かって深々と一礼し、再び歩き出した。
正門を出る。
そこで一度だけ振り返った。6年間暮らした神殿が、夕暮れの中にそびえている。
「お世話になりました」
もう一度、頭を下げた。それから王都の雑踏へ歩き出した。
◇
翌朝。
ミレイユは宿屋の鐘で飛び起きた。
「遅刻!」
布団を跳ね除ける。朝の祈祷。顔を洗って、聖衣に着替えて――
「あ」
聖衣はない。祈祷もない。
しばらく寝台の上に座っていた。やがて、もう一度布団をかぶる。
「……寝ていいんだった」
次に目覚めたときには、昼近くになっていた。
階下へ降りると、宿の主人が笑った。
「よく休めたかい?」
「それはもう」
遅い朝食を頼んだ。
焼きたてのパンと、湯気の立つスープが運ばれてくる。
ミレイユはスープをひと口飲んだ。
温かい。もうひと口。まだ温かい。結局、最後まで温かかった。途中で鐘が鳴っても、誰も自分を呼ばない。食事を中断して走っていく必要もない。それだけのことが、妙に嬉しかった。
「今日はどうするんだい?」
宿の主人に聞かれた。
「そうですねえ」
考えてみる。
帰る場所はある。故郷へ戻ればいい。けれど、今すぐ帰らなければならない理由もなかった。
6年間、王都と神殿と王宮を行き来するばかりだった。
「とりあえず、王都を出てみようと思います」
「行き先は?」
「まだ決めてません」
「……そうかい」
その日の午後。
6年間ほとんど離れることのなかった王都を、ミレイユは1人で出た。




