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掲示板の前から離脱したシオンは、足早に廊下を抜け、人の少ない中庭の方角へと「逃亡」を図っていた。
ナギという台風に巻き込まれ、周囲からは「9位の怪物」と噂され、精神的な疲労はすでに限界に近い。
誰とも顔を合わせたくない。
誰にも声をかけられたくない。
ただ静かに、植物のように光合成でもして、今日という厄日をやり過ごしたい。
そう切実に願っていた、その時だった。
「……シオン」
その願いを、氷のような鋭さで打ち砕く声が背後から落ちてきた。
(……ああ、終わった)
シオンの足が凍りついたように止まる。
振り返らなくても分かる。その声の主が誰なのか。
そして、自分がもう「詰んでいる」ということも。
恐る恐る振り返ると、そこにはひとりの女性教師が立っていた。
夜空を溶かしたような、黒に近い紺の髪。理知的で静かな瞳。
表情は能面のように変わらないのに、なぜか全身から“怒っている”というオーラが湯気のように立ち昇っている。
シオンの過去を知る唯一の人物。
「エリナ……」
「“先生”」
即座に訂正が入った。冷徹な声音だ。
「……エリナ、先生」
「よろしい」
これだ。
かつては家族同然に過ごした距離感ゼロの相手だが、学院内では“教師と生徒”という枠組みを鉄壁の守りで徹底してくる。
廊下にはまだ生徒の往来がある。エリナは無言でシオンの腕を掴むと、そのままズルズルと連行し始めた。
抵抗は無意味だ。この人は一度決めたら、テコでも動かない。
連れてこられたのは、中庭のさらに奥、植え込みに囲まれた死角のような通路だった。
「ここならいい。誰も聞いていない」
短く告げ、エリナは腕を組んだ。
その佇まいは教師というより、尋問官に近い。
「まず一つ、聞く。
……昨日、なぜ逃げた?」
「いや、壊れたから……」
「壊した、だろ?」
「違うって! 僕は何もしてない! ただ手を入れたら、機械が勝手に!」
「検査機は勝手に爆発したりしない。……お前なら分かるな?」
(なんでだろうね!? 僕も知りたいよ!!)
『自覚が足りないわねぇ』
(お前は黙ってて!)
脳内の天使と目の前の教師、両方からの板挟みに遭い、シオンは視線を泳がせる。
「……で、でもさ、エリナ先生。あんな派手に壊れたら、誰だって焦るでしょ? 弁償とか言われたら払えないし……」
シオンが小声で言い訳をすると、エリナは呆れたように眉間を押さえた。
「弁償なんてどうでもいい。問題はそこじゃない」
「え、どうでもいいの?」
「途中退席して逃げたせいで、試験後の“本登録手続き”が全部止まったんだよ。
おかげでデータはエラーのまま。名前欄は未入力、順位だけが“9位”で確定してしまった」
「……それって、もしかして」
「間違いなく、お前のせいだ」
(ぐっ……)
シオンは言葉に詰まった。
「それで掲示板が“空白の9位”になった。
私は貼り出す直前に気づいて修正しようとしたが……間に合わなかった。おかげで生徒たちの間で変な噂が広まっている。『見えない怪物がいる』とかな」
「……ごめんなさい」
「謝って済むなら世話はないが……まあいい」
エリナは小さく息を吐いた。
説教の熱が引くと、その瞳にわずかな色が戻る。
「……なぁシオン。お前、ひとつ勘違いしていないか?」
「なにを?」
「お前の入学は……一般枠じゃない。“私の推薦”で通しているんだぞ?」
「…………え?」
シオンは瞬きをした。
頭の中が真っ白になる。
普通に願書を出して、普通に筆記試験を受けて、普通に入学したと思っていた。
自分はただの、運良く合格した一般生徒だと。
「筆記の実力があるのは知っている。
だがお前の過去や、抱えている力の“特殊性”は、普通の入学枠で扱うにはリスクが大きすぎる。
だから私が理事会に掛け合って、保証人として名前を出したんだ」
「…………」
「お前を安全な場所に置くためだよ。
この学院なら、結界もあるし、監視の目もある。
お前に必要な“普通の生活”を与えられる、数少ない場所だからな」
エリナの言葉に、シオンの胸の奥で温かいものが広がった。
彼女は、昔からこうだ。
口うるさくて、厳しくて、いつも怒っているけれど――誰よりもシオンの身を案じてくれている。
だが同時に、強烈な気まずさも押し寄せてきた。
そんな恩人の顔に、入学初日から泥(と煤)を塗って逃亡したのだから。
「……ありがとう。でも……」
「“エリナ”じゃなくて」
「……ありがとう、エリナ先生」
「よろしい」
エリナは満足げに頷くと、教師の顔に戻った。
「感謝してるなら、手続き、今からやるぞ」
彼女は制服の内ポケットから、薄型の魔術端末を取り出した。
空中にホログラムが展開され、
**“未登録項目:氏名”**
という無慈悲な赤字が表示されている。
「あの、今ここで?」
「今だ。お前に任せたら、また何かしでかして二度と登録しないだろう?」
「いや、そんなことは……」
「あったから空白になったんだ」
「………………はい」
反論の余地はミジンコほどもなかった。
エリナが指先で操作し、シオンの名前を入力する。
端末が柔らかい受諾の光を放った。
《登録完了》
「これで、明日の朝にはデータが更新される。
正式に“9位:シオン”として掲示されるはずだ」
(……終わった)
シオンは天を仰いだ。
名前が出るということは、「あの空白の正体はこいつだ」と特定されるということだ。
今日の噂話の熱量を知っているだけに、明日の登校が憂鬱で仕方がない。
『安心して。もう手遅れよ?』
(傷口に塩を塗るな……)
肩を落とすシオンを見て、エリナは端末をしまうと、ふっと息を吐いた。
そして、シオンの頭にそっと手を置く。
ポン、ポン。
一定のリズムで優しく撫でる、昔と変わらない仕草。
「大丈夫だ。
本当に困ったことになったら、私がどうにかする」
その手の温かさに、シオンの張り詰めていた緊張が少しだけ解けた。
「……うん。ありがとう」
「ああ。
だから――」
「?」
エリナは、この世で最も美しい、そして最も恐ろしい笑顔で言った。
「二度と試験場を爆破するな。……いいな?」
「だから僕じゃないんだってば!!」
『絶対アナタよ?』
(ほんとに黙ってて!!)
◆
こうして、シオンの名前は正式に学院の記録へ登録された。
翌朝、掲示板には
**9位:シオン**
と、言い逃れようのない事実として表記されることになる。
正体不明の怪物から、名前持ちの怪物へ。
ランクアップしたのかダウンしたのか分からないが、一つだけ確かなことがある。
シオンはただ静かに暮らしたいだけなのに、世界はそれを許してくれそうにないということだ。




