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アリス・フェンリズが担架で運ばれていく。
学院のメイン闘技場は、先ほどの激闘の余韻と、これから始まる「未知の恐怖」への予感で、異様な静けさに包まれていた。
空は突き抜けるような青空だが、フィールドの空気は鉛のように重い。
「……第2試合! ルイ・コフィーン対ユーゴ・グレイス!」
アナウンスが響き渡ると同時、観客席からはどよめきにも似た歓声が上がった。
フィールドの西側ゲートから姿を現したのは、3学年序列5位、ユーゴ・グレイス。
長身痩躯の美男だが、その表情に笑みはない。彼は全身からバチバチと紫色の稲妻を迸らせ、極限まで集中を高めていた。
「……貧乏くじだな、俺も。初戦からラスボスとやらされるなんて」
ユーゴが自嘲気味に呟きながら、愛用の短剣を構える。
彼も上級契約者の中ではトップクラスの実力者だ。3学年5位という肩書きがそれを物語る。そんな彼の精霊の属性は『雷』。単純な破壊力だけでなく、神経伝達速度を加速させた超高速戦闘を得意とするスピードスターである。
並の相手なら、瞬きする間に勝負を決めることができる実力者だ。
だが、相手が悪すぎる。
東側のゲートから、ゆっくりと歩いてくる影があった。
学院の頂点に立つ男、生徒会長ルイ・コフィーン。
準備も何もしていない、そのままの状態で闘技場中央までやってくる。
整えられた制服に、黒い手袋。ただそれだけ。
散歩でもするかのような無防備な足取りで、ユーゴと対峙する。
「……魔力が感じられへんな」
観客席のナギが呆れたように声を漏らす。
これから戦うというのに、事前に魔力の練り込みもせずにこの場にやってきたのは舐めているか、あるいはそれが不要なほどの実力差があるか、そのどちらかだ。
「手加減は頼みますよ、会長」
「……善処しよう。だが、知っての通り、加減するのは『私』ではないからな」
ルイが短く答える。
その声音には、驕りも昂りもない。ただ事務的に、目の前の障害を処理しようとする静けさだけがあった。
『始め!』
審判の合図と共に、ユーゴの姿が掻き消えた。
「――『紫電』!!」
雷速。
肉体を雷の魔力で活性化させ、物理的限界を超えた速度で移動する。
人間の動体視力では追うことすら不可能な神速の一撃。
ユーゴは最初からトップギアだった。出し惜しみなどしていれば、その瞬間に負けることを理解していた。
(速い……ッ!!)
観客席のシオンの隣で、エルドが息を飲む。そのスピードはエルドが追い求める理想のスピードだった。
目で追えない。気づいた時には、ユーゴは既にルイの背後を取っていた。
精霊装具化により紫電を纏った短剣が、無防備なルイの首筋へと振り下ろされる。
必殺のタイミング。
誰もが、ルイが直撃を受けると思った。あるいは、防御が間に合わないと直感した。
だが。
「――出ろ、『ブラックエルゴ』」
金属が軋むような、耳障りな轟音が響いた。
ユーゴの短剣が、ルイの首まであと数センチのところで静止している。
いや、止められていた。
ルイの足元から伸びる「影」。
それが立体的に隆起し、漆黒のローブを纏った死神のような姿を形成していた。
闇王級精霊『ブラックエルゴ』。
その実体化した長く黒い腕が、ユーゴの全力の一撃を、素手で受け止めていたのだ。
「なっ……!?」
ユーゴが驚愕に目を見開く。
短剣から伝わる感触は、肉体のものではない。まるで鋼鉄の城壁を殴ったような反動が腕を痺れさせる。
『ギャハハハハハハハハハァァァア!!!久しぶりじゃぁネェか!こんなンじゃァ傷1つ付かねェヨォ!!!』
黒い腕がユーゴをそのまま投げ飛ばす。
はっきりと顔は見えないが、実体化されたそれはニタリと笑っているように感じた。
「速さは評価しよう。雷属性特有の初動の速さ、3年生でも随一だ」
ルイはブラックエルゴに視線を向けることもなく、淡々と評する。
彼は一歩も動いていない。防御姿勢すら取っていない。
すべては、影から現れた死神が行っている。
「始めてくれ」
ルイが口を開いたその瞬間、ブラックエルゴの周囲の空間が歪んだ。
大気が軋み、光さえもねじ曲がるような不快な重低音が響く。
『重力結界』
空から巨大な鉄塊が落ちてきたような衝撃。
ブラックエルゴを中心とした半径15メートルの地面が、一瞬にして陥没した。
「ぐ、がああああっ!?」
ユーゴが地面に叩きつけられる。
まるで巨大な万力で押し潰されたかのように、石畳が蜘蛛の巣状に砕け散り、砂煙が舞う。
雷速を誇るユーゴの機動力が、圧倒的な「重さ」の前に完全に封じられたのだ。
「くっ、そ……! 重力……魔法……かッ……!」
ユーゴが呻く。
指一本動かすのにも、全身の骨がきしむほどの重圧がかかる。
ブラックエルゴが支配する領域内において、重力は主の意のままだ。
ユーゴが誇る「速さ」は、「重さ」という物理法則の前に無力化された。
「――まだ抵抗できるか。やはりその順位は伊達ではないな」
ルイは感心したように頷く。
並の精霊使いなら、この重力波を受けた時点で内臓が破裂し、即死していてもおかしくない。
それを、ユーゴは全身から放電し、磁力による反発を利用して無理やり立ち上がろうとしていた。
凄まじい執念と魔力制御だ。
「そんな簡単に負け……られるかよ……ッ!! 『紫電擲槍』!!」
ユーゴが叫ぶ。
重圧に耐えながら、短剣を槍の形に変化させる。
投擲。
簡単に避けられるような速度でもない。本来なら必中。当たれば致命傷を負わせることも可能。
だが――
「無駄だ」
ルイはその槍に見向きもしない。
なぜなら、投げられたはずの槍は手から離れてすぐに地面へと叩きつけられていたのだ。
雷の槍は、結界内の超重力によって飛ばすことも叶わなかった。
あらゆる物理攻撃、魔法攻撃は、この空間では全く意味を持たない。それは一方的な蹂躙の始まりだった。
「な……飛ばない……?」
ユーゴの顔から、ついに血の気が引いた。
速さも通じない。
火力も通じない。
どうあがいても、目の前の「王」には届かない。
「魔術とはこう使う」
ルイが初めて、右手をゆっくりと持ち上げた。
それに呼応し、ブラックエルゴが巨大な鎌のような腕を振り上げる。
その掌に、底なしの闇が収束していく。
『キひひひひひィィィイ!『黒棺』!』
地面から、漆黒の「箱」が出現した。
それはただの闇の塊ではない。超高密度の重力が凝縮された、処刑の空間。
ユーゴの足元から伸びた影が、彼の体を包み込むように直方体の形を成していく。
「や、やめ……!」
ルイが目を細める。
ブラックエルゴの腕が振り下ろされた瞬間。
黒い棺が閉じた。
ユーゴの悲鳴が遮断される。
数秒の静寂。
やがて、黒い箱が霧のように霧散すると、そこには意識を失い、倒れ伏すユーゴの姿があった。
「勝者、ルイ・コフィーン!」
審判の声が響く。
会場は静まり返っていた。
歓声を上げる余裕すらなかった。
あまりの次元の違い。一方的な蹂躙。
恐怖すら覚えるほどの光景。
ルイは涼しい顔でブラックエルゴを影に戻すと、倒れたユーゴを一瞥もせずに踵を返す。
息一つ切れていない。
服の乱れ一つない。
一歩も動いていない。
これが、学院最強。王級契約者の中でも頂点に立つ男の実力。
「……化け物じゃねーか」
シオンは乾いた笑いを漏らすしかなかった。
喉が渇く。掌にじっとりと汗が滲む。
アリスとルシアの戦いが「人間同士の戦い」だったとするなら、これは「天災」だ。
戦うこと自体が間違いだと錯覚させるほどの、絶対的な格差。
「ユーゴ先輩も相当強かったはずだ。あのスピード、僕らなら反応すらできなかっただろう」
エルドが震える声で呟く。
ユーゴが弱かったわけではない。彼もまた、1年生から見れば十分に絶望的な強さを持っていた。
だが、ルイ・コフィーンという壁は、そのさらに遥か高みに存在していた。
「……アリス、生きて帰ってこれるかな」
「無理やろなぁ……」
ナギが遠い目をする。
ルシアも、アリスも、そしてユーゴも。
この『死のグループA』に放り込まれた時点で、彼らの運命は決まっていたのかもしれない。
絶対王者ルイ・コフィーン。
その深淵なる力の片鱗を見せつけられ、選抜戦初日の会場は、熱狂よりも深い畏怖に包まれていった。




