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巨大な結界の揺らぎを抜けると、そこには別世界が広がっていた。
荒涼とした岩肌も、視界を遮る濃霧もない。
柔らかな陽光が降り注ぎ、色とりどりの花が咲き乱れる、まさに桃源郷のような光景。
「うわぁ……綺麗……」
アリスが煤けた顔で感嘆の声を上げる。
その先には、木造の家屋が立ち並ぶ小さな集落があった。
「ここが、ナギさんの故郷……」
「うん。……ただいま、みんな」
ナギが懐かしそうに目を細めた、その時だった。
「――お? その声はナギちゃんか!?」
「ナギちゃんが帰ってきたぞー!!」
畑仕事をしていた村人の一人が声を上げると、瞬く間に集落中から人々が飛び出してきた。
鍬を持ったおじさんや、洗濯物を干していたおばさん、子供たちまで。
彼らは一様に笑顔で、ナギたちへと駆け寄ってくる。
「お帰りナギちゃん! 元気にしてたか!?」
「えらい男前連れてきたなぁ!」
「学院に行ったんちゃうんか? 休みか?」
「え、あ、ちょ、みんな落ち着いて……!」
揉みくちゃにされるナギを見て、アリアが少しだけ目を見開く。
「……意外ですね。霊峰の隠れ里というから、もっと閉鎖的な場所かと思っていましたが」
「ほんまにね。みんなええ人らなんよ」
ナギが苦笑しながら答える。
彼女が「ある事情」から身分を隠してこの里に預けられたことを、この善良な村人たちは誰も知らない。
ただの「元気な里の娘」として接してくれる彼らの優しさは、ナギにとって何よりの救いだった。
だが。
その和やかな空気を、一陣の“暴風”が切り裂いた。
ドォォォォォン!!
大気が爆ぜるような音と共に、凄まじい風圧が里を駆け抜ける。
殺意すら感じる烈風に、アリアとイオリが即座に反応した。
「ッ……アリス、下がって!」
「ナギ様、後ろへ!」
アリアが前に出て氷壁を展開しようとするが、それよりも早く、風の発生源――集落の奥から、一人の女性が姿を現した。
豪奢な着物をラフに着崩し、片手には大きな扇子。
年齢不詳の美貌と、周囲の空気を支配する圧倒的なプレッシャー。
「騒がしい思たら……どこのアホ弟子が帰ってきたんかい」
彼女が扇子を広げると、暴れ狂っていた風が一瞬で凪いだ。
完璧な魔力操作。
アリアの頬を冷や汗がつたう。
(……何という魔力密度。この人が、ナギさんの……)
里の人々が、一斉に居住まいを正す。
「ミナモ様!」
「ミナモ様、ナギちゃんが帰ってきはりました!」
里の長にして、ナギの魔術の師、ミナモ。
彼女はナギの前に立つと、ジロリと値踏みするように視線を巡らせた。
「学院に入学してまだ一年も経っとらんやろ。なんや、もう退学にでもなったんか?」
「ちゃ、違いますって!」
「ほな何や。まさかホームシックで泣いて帰ってきたわけやないやろうな?」
ミナモが扇子でパンッ、とナギの額を軽く叩く。
軽口を叩いてはいるが、その瞳は笑っていない。
『何かあったのか』――ナギの秘密を知る唯一の保護者として、その目は鋭く事態を探っていた。
「……色々あってん。師匠に、助けてほしくて」
ナギが真剣な表情で告げる。
ミナモはふと視線を外し、ナギの後ろで警戒を解いていないアリアたち、そして最後にシオンへと目を向けた。
「……なるほどな。ワケありの客人付き、っちゅうことか」
ミナモはパチンと扇子を閉じ、短く息を吐いた。
重苦しい沈黙が流れる。
だが、それを破ったのは里の人々だった。
「まぁまぁミナモ様! 硬い話は後にして、今日は祝いましょうよ!」
「せっかくナギちゃんが友達連れて帰ってきたんですから!」
「酒や酒! 今夜は宴会やー!」
村人たちが口々に叫ぶ。
その能天気とも言える明るさに、ミナモの張り詰めていた気が削がれたようだった。
「……はぁ。しゃあないな」
ミナモは呆れたように肩をすくめ、ナギに向かってニヤリと笑った。
「ほな、説教は後回しや。……まずは歓迎したる。よう帰ってきたな、ナギ」
◆
日が落ちると、里の広場には巨大な焚き火が焚かれ、宴が始まった。
テーブルには里で採れた山菜の天ぷらや、川魚の塩焼き、猪肉の鍋などが所狭しと並べられている。
「んー! おいしい! なにこれ、このお芋甘い!」
「アリス様、口の周りが汚れていますよ。……ですが、確かに絶品ですね」
アリスがリスのように頬を膨らませ、イオリがそれを甲斐甲斐しく世話する。
最初は警戒していたアリアも、村のお婆ちゃんたちに囲まれ、「あんた肌綺麗やねぇ」「都会の服はすごいのぉ」と褒めちぎられて、まんざらでもない様子でいた。
平和な夜。
死闘が嘘のような穏やかな時間が流れている。
そんな喧騒から少し離れた場所で、シオンは猪汁を啜っていた。
隣には、里の人々に挨拶回りを終えたナギが腰を下ろす。
「……ふぅ。みんな元気そうでよかったわ」
「いい里だな。ナギが帰りたがるのも分かる」
「へへ、そやろ? 何もないとこやけど、私の自慢の故郷やねん」
ナギが嬉しそうに笑う。
焚き火の光に照らされたその横顔は、学院で見せる表情よりもずっと幼く、柔らかい。
と、そこへ。
「あ! ナギねーちゃんだ!」
ドタドタと小さな足音が近づいてきた。
鼻水を垂らした男の子と、その後ろに隠れる数人の子供たちだ。
「お、ケン太か。大きくなったなぁ」
「へへーん、もう5歳だぞ! ……って、あれ?」
男の子――ケン太は、ナギの隣に座るシオンを見上げ、不思議そうに首を傾げた。
そして、子供特有の残酷なまでの純粋さで、爆弾を投下する。
「ねぇねぇ、このお兄ちゃん誰? ナギねーちゃんの彼氏?」
「ブッ!!」
ナギが飲んでいた茶を盛大に吹き出した。
顔を一瞬で真っ赤に染め、両手をバタつかせる。
「か、かかか、彼氏ちゃうわ! アホなこと言うな!」
「えー? だってすっげー近くに座ってるじゃん。父ちゃんと母ちゃんもそうやって座るぞ?」
「そ、それはたまたまここが空いてただけで……! な、シオン! あんたからも言うたって!」
ナギが助けを求めるようにシオンを見る。
シオンは椀を置き、淡々とした口調で答えた。
「残念ながら違うぞ。俺はただの荷物持ちだ」
「荷物持ち? なんだよー、つまんねーの」
ケン太は唇を尖らせるが、すぐにシオンの膝に乗っていた黒猫に気づき、「あ! 猫だ!」と興味を移した。
ディアナが「触るな小僧」と言わんばかりにシャーッと威嚇するが、子供たちはキャッキャと笑いながら追いかけっこを始めてしまう。
「……あー、びっくりした……」
嵐が過ぎ去り、ナギが大きなため息をつく。
まだ耳まで赤い。
「子供の言うことだ。気にするな」
「……あんたは落ち着きすぎやねん。もっとこう、動揺とかないんか?」
「事実じゃないからな」
「む……」
シオンのそっけない返答に、ナギは少しだけ唇を尖らせた。
否定してほしいけれど、即答されるとそれはそれで面白くない。複雑な乙女心だ。
そんな二人の様子を、少し離れた縁側から眺めている人影があった。
ミナモだ。
彼女は一升瓶を片手に、ニヤリと口角を上げる。
「……ほう。ただの荷物持ち、ねぇ」
彼女の目は誤魔化せない。
ナギがシオンに向ける信頼の眼差しも、シオンがナギを守るように常に半歩引いた位置にいることも。
「ま、ナギが選んだ男ならええけどな」
ミナモは盃を干すと、手招きをした。
「おい、ナギ。それとそこの荷物持ちのボウズ。……酒はもうええやろ。ちょっとツラ貸さんかい」
場の空気が、スッと変わる。
ナギの背筋が伸びた。
「できれば、人目のないところでお願いします。」
シオンがそう告げると、ミナモは立ち上がりついてこいと言いながら歩き出した。




