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表向きには、通常通り全てが滞りなく行われていた。
序列戦の熱も冷め、次の序列戦に向けて各自調整をしていく。
ただ、その平穏な日常の皮の下で、鋭敏な感覚を持つ数名は、密かに巻き起こっている一連の事件に対して、既に疑念を抱き始めていた。
シオンは中庭の端で立ち止まり、空を見上げていた。
雲は薄く、空は高い。
季節は、確実に夏へ向かっている。
「ディアナか」
『ただいま。シオン』
シオンの頭の中に、聞き慣れた甘い声が響き渡る。
「無事なのか?」
『ええ。でも、まだ終わっていないわ』
「終わっていない?」
『あの風精霊を「完全に」元に戻すことはできなかった。核の修復は終わったけれど、意識が戻らない。それはそれで、暴走のリスクが消えたという意味ではプラスかもしれないけれど……目覚めるための“鍵”が必要ね』
「……鍵?」
ナギの契約精霊の治療にあたっていたディアナが、シオンの元に戻り進捗を伝える。
『鍵と言っても、物理的なモノではないわ。何か、きっかけのようなものね。あの子の根源を強く刺激する何かがあれば、それで大丈夫だと思うわ』
「結局、何が必要なんだ? お前でも具体的に出ないとなると、僕には分からないぞ」
シオンはその場で、しばらく動かなかった。
ディアナの言葉が、頭の中で何度か反芻される。
完全には戻っていない。
だが、失敗でもない。
そして必要なのは、「鍵」。
それも、どこかへ探しに行く類のものではなく――
条件が揃えば、自然と起きる“きっかけ”。
「……相変わらず、抽象的だな」
小さく息を吐く。
だが、不思議と苛立ちはなかった。ディアナがこう言うときは、大抵こちらが“気づく側”になるよう誘導している時だ。
『分かりやすく言えば』
ディアナが、少しだけ言葉を選ぶように続ける。
『あの精霊は、まだ“帰る理由”を持っていないのよ』
「理由……?」
『ええ。力でも、魔力でもないわ。精霊が、もう一度そこに在ると決めるための“約束”のようなもの』
「でも、それが何かは分からないんだろ?」
『契約者本人なら、何か知っているんじゃないかしら? あの子がその精霊と、どこで出会い、何を感じたか』
「……ああ、ナギか。分かった。聞きに行ってみよう」
◆
病棟の窓から差し込む光は柔らかく、時間の流れを曖昧にしていた。
白いカーテンが微かに揺れる。少し離れたところには学院の建物が見えるが、今のナギたちには、あの喧騒が酷く遠いものに感じられた。
「ナギさん、調子はどう? 痛いところとかないですか?」
「なんや、看護師みたいなこと言うんやなミナは。もう痛いところはあらへんで。大丈夫や」
「大きな怪我がなくて安心した。あの時のことを思い出すと、どうしても心配が勝ってしまう」
「なかなかのトラウマを見せてしもたようで悪かったな」
病棟の一室で、ナギとエルド、そしてミナは談笑に耽っていた。
先日まで面会謝絶だったナギも、徐々にではあるが精神的な回復を見せている。
「面会謝絶なんて言われた時はびっくりしましたよ。すごい大きな怪我でもしてたんじゃないかって」
「……それなんやけどな。怪我は擦り傷や切り傷が多くて痛いのは間違いなかったんやけど、意識ははっきりしてたし、面会謝絶するくらいの状態でもなかったんや」
「なら、どうして面会できなかったんだ?」
「それがウチにもわからんねん。ティコ先生っちゅう若い女の先生が、お医者さんに『面会は拒否するように』って言ってたところだけ見てたんやけど……理由は教えてくれへんかったわ」
ナギは、少しだけ眉を寄せる。
それが自分の身を守るための措置だったとは、まだ知る由もない。
「でも、こうやってすぐに二人に会えるようになってよかったで。ちゃんと現実に戻ってきた感じがするわ」
「それならよかった」
エルドが短く頷く。それは慰めではなく、安堵の確認だった。
「……精霊の方は?」
エルドの問いに、ナギは一瞬だけ言葉に詰まった。
ほんの一瞬。だが、ミナはそれを見逃さなかった。
「……正直に言うと、よう分からへん」
ナギは、困ったように笑う。
「呼びかけても、おらんのや。胸にぽっかり穴が空いているみたいな……そんな感じ」
「怖いんですね」
ミナの表情が僅かに曇る。
「……そうかもしれへんな。自分にとって大切な半身を失った。そんな感覚や」
ナギは胸元に手を当てた。
そこに在るはずの温かみがない。
部屋に、短い沈黙が落ちた。
ミナは、空気を変えるようにそっと話題を振る。
「そういえば、もうすぐ夏休みだよ。
学院も少し静かになるし」
「夏かぁ……」
ナギは、窓の外を見た。
青々とした木々が風に揺れている。
「……ウチのことは気にせんといてな。みんなでどっか遊びに行ったら、思い出話だけ聞かせてくれたら嬉しいわ」
少し寂しそうにナギが呟く。
「必ずみんなで遊びに行きましょうね!」
「ああ。また来る」
「ありがとうなぁ。二人とも」
面会時間が終わり、エルドとミナが部屋を出ていく。
パタン、と扉が閉まると、部屋には再び静寂が戻った。
ナギは一人、ベッドの上で膝を抱える。
忙しい。事情がある。
来られない理由はいくらでも思いつく。
それを分かっているからこそ、自分の中に生まれた感情を、どう扱えばいいのか分からなかった。
命を救われた。
あんな無茶をしてまで、助けてくれた。
だからこそ――一番に顔が見たかった。
「……薄情もん」
誰に聞かれるわけでもなく、小さく呟いた。
その声は、寂しさに震えていた。




