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学院の朝は薄い霧に包まれていたが、その静けさは昨日のものとは違っていた。
静寂というよりは、音が鳴る寸前の空白。生徒たちの足音は控えめで、それでもそのひとつひとつに色が宿っているように感じた。
序列が貼り出された翌日、生徒たちの歩幅、視線、呼吸、精霊の浮遊の仕方すらも変化していた。
同じ制服で同じ場所に立っているはずなのに、五百人はもうすでに五百の階層に分かれている。
上位者は肩の力を抜き、堂々と、ためらいなく歩く。視線は正面か、あるいはさらに上位の存在へ。
中位の者は探るように周囲を見る。敵か味方か、踏み台になるか、脅威になるかを無意識に探っている。
そして下位の者は、まだ名前を呼ばれない子供のように周囲の空気に遠慮し、表情を曇らせながら歩く。
精霊たちもまたその雰囲気に影響され、強い精霊ほど落ち着き、その主を誇るような高い位置に留まり、弱い精霊ほどきょろきょろと周囲を見回し、時に主の服の裾に隠れるように光を弱めていた。
今日から始まる授業は座学ではない。実技だ。精霊との連携、魔術の制御、攻撃、防御、魔術展開、判断速度、精神状態、それらすべてが透明な数字として評価され続ける授業。昨日貼り出された序列はただの序章に過ぎない。
今日からその数字は意味を持つ。意味を持つということは、疑われ、試され、奪われるということ。実力社会では数字は証拠であり、免罪符であり、武器にもなる。だが同時に――標的にもなる。
中庭へ向かう道を進みながら、私はその空気の流れを見ていた。
廊下にはざわめきがあり、その内容は心の声に近い。
「あいつが上?」「納得できない」「順位なんてすぐ変わる」
そんなありふれた嫉妬の中に、異質な囁きが混じっている。
「おい、例の9位は?」「来てないぞ」「逃げたんじゃないか?」「いや、機材を吹っ飛ばした処分で謹慎中って噂も……」
姿を見せない「9位」。
昨日の今日だ。誰もがその正体を暴こうと目を光らせていたが、結局、その席に座る者はいなかった。
不在という事実が、かえって不気味な存在感を放っている。
アリスは歩きながら深く息をついた。
「今日、間違いなく誰かやるね。ああいう数字見た後って、自分が“正しい側”だと思うやつが湧いてくる。」
その言葉は飾り気がない。それでいて、確信に満ちていた。
ルシアは穏やかな声で言った。
「数字は理解を与えます。自分の位置を理解し、他者の位置を理解し、そして――比較が始まります。比較が始まれば、必ず衝突が生まれる。」
私は何も答えなかった。答える必要もなかった。三人とも、もう理解している。この学院は競争して生き残る場所だ。戦う意思がない者は、制度に食われる。
訓練場へ足を踏み入れると、空気が一段階変わった。そこには魔術結界が張られており、空間そのものが魔力を吸い、循環し、制御している。床の石は硬質で、魔力を流すための淡い光が血管のように走っている。
過去の戦闘痕がうっすらと残っており、そこには焼け焦げた匂いが染みついていた。
磨かれても消えない傷跡は、ここが“授業の場”ではなく“実戦の訓練場”であることを証明している。
生徒たちは指示に従って並んだが、その整列に規律はない。そこにあるのは数字による並びだ。誰かが意識しているわけではないのに、自然と順位に沿った距離感が形成されていく。
その列の中で、私はふたりの生徒を見つけた。
エルド・ハリオン。42位。
立ち姿には無駄がない。動きに焦りも虚勢もない。精霊が二体、雷と風。普通なら二体の精霊持ちは制御が不安定になるはずだが、彼の周囲には不自然な揺れがなかった。精霊が主を信用している。それは力ではなく、経験が作る関係だ。
そしてその少し後ろに、
ミナ・ローレン。193位。
数字だけを見るなら中堅。しかし、彼女の精霊は小さいが揺らぎがなかった。弱い精霊ではなく、未熟な精霊。違いは大きい。
その空気の中、ひとつの影がエルドへ近づいた。その歩き方には余裕があった。
順位はエルドより上。肩に宿る火精は主よりも先に警戒し、挑発するように火花を散らす。その生徒は笑っていた。だがその笑顔には温度がない。
ただ相手を値踏みする者の顔だった。
「お前、42位の割に余裕あるな。」
声は軽い。しかし内容は重い。挑発ではなく宣告。自分が上、相手が下。勝敗は決まっている、という空気。
エルドは振り返らない。挑発を受け流すというより、そもそも自分に向けられた音として認識していないような静けさだった。
「返事くらいしろよ。順位があるってことは、立場もあるんだぜ?舐められたままじゃ示しつかねぇだろ。」
周囲の視線が集まる。精霊がざわめき、空気が少し重くなる。男の炎精は低く唸り、火の匂いが漂った。
そしてエルドはようやく振り返った。
表情に感情はない。ただ事実だけを語るための顔。
「……俺より高い順位の君が何のようだ? 挑む相手を間違えるな。」
その瞬間、男の目が変わった。
「へぇ……じゃあ教えてくれよ。お前が奪うべき席って誰のだ? 俺か?……それとももっと上か?」
その声には嘲りと期待が混じっていた。否定を待っている声だった。ミナが息を呑む音が聞こえた。訓練場の空気に魔力が混じり始める。結界が反応し、床の魔術式が微かに光る。
そしてエルドは言った。
「――君ではない。」
その視線は男を通り越し、私たち王級の席へ、そして――さらにその奥の、誰もいない空間へと向けられた気がした。
まるで、そこにあるはずの「脅威」を探すかのように。
その瞬間、男の魔力が爆ぜた。空気が熱を帯び、火精が唸り、訓練場が敵意を吸い込んだ。教師はまだ動かない。
学院では火花は許される。火になるまでは。
男は口角を吊り上げた。
「いいぜ。オーダーじゃなくても。今ここで証明してやる。」
その言葉は挑戦ではなく、処刑宣告に近かった。彼にとってエルドは超えるべき壁ではなく、踏んで進む足場だったのだろう。
しかし――エルドは、動かない。
「……戦う必要はない。」
男が嘲笑う。
「ビビったか?」
エルドは静かに首を振った。
「違う。」
雷精が光り、風精が低く鳴る。
そして。
「――」
刹那、男の魔力が急上昇し、熱が訓練場の空気を歪ませた。
だがその瞬間。
「そこまでだ。」
重く冷たい声が響き、すべての魔力が押し潰された。先ほどまで見ているだけだった教師だ。
その声だけで火精は萎み、挑発者の全身から魔力が引き剥がされるように消えていった。
教師は淡々と告げた。
「序列戦は制度の上で行われるものだ。数字に酔う者は沈む。……昨日の事故の二の舞になりたくなければ、頭を冷やせ」
男は舌打ちし、視線を逸らし、何もないように列へ戻る。だが空気は確かに変わった。
エルドは前を向き、ミナは胸に手を当て、小さく息をついた。
私はただ、それを見届けた。
火は消えたのではない。ただ――まだ燃える順番ではないだけ。
学院は動き始めている。
数字が支配し、誇りが揺れ、 魂が燃え始める場所として。




