32
――世界が、歪んだ。
破壊ではない。
衝撃でも、爆発でもない。
ただ――在り方そのものが、強制的に押し曲げられた。
音が遅れて消える。
視界が、上下の区別を失う。
「……っ」
ティコは、声にならない息を吐いた。
膝をついた感覚すら、途中で曖昧になる。
(……立ってる? 座ってる? それとも――)
分からない。
“重い”のではない。
“動けない”でもない。
世界が、「そう在れ」と強いてくる。
「……はは」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
「なに、これ……」
精霊装具化による身体強化も、雷による加速も、意味を成していない。
速さも、力も、技術も――
そもそも「使う前提」となる物理法則が、そこには存在しなかった。
「……理解不能、だな」
エリナは、歯を食いしばりながら立っていた。
魔力で無理やり踏みとどまっている。
だが、それでも分かる。
(これは、戦闘じゃない)
勝つか負けるか以前の問題だ。
次元が違う。
隣を見る。
シャルロッテは、珍しく笑っていなかった。
「……なるほどの」
低く、静かな声。
「これは“力”ではない。概念による圧殺じゃ。古代龍……ここまで至っていたとはの」
「それでも……」
「そうじゃな。それでもシオンが負ける未来は見えぬ」
視線の先。
黄金の粒子を纏った梟――ラジアは、微動だにしていなかった。
空間ごとひしゃげるような重圧の中心にいながら、まるでそこに“含まれていない”かのように。
『……ほう』
古代龍の声が、低く響く。
『押し潰されぬか。
ならば――』
翼が、再び動く。
さらに深く、世界を沈めようとする。
だが。
「――やめておけ」
その声は、静かだった。
命令でも、威圧でもない。
ただの、事実を告げる忠告。
シオンが、前に立っていた。
「それ以上やると、戻れなくなる」
古代龍の瞳が、細まる。
『……貴様』
声に、わずかな興味が混じる。
『先ほどから妙に落ち着いているな。
己が立っている場所を、理解しておるのか?』
シオンは、少しだけ視線を逸らした。
「……理解してるとは言わない」
一拍。
「でも――
壊れるのは、そっちだ」
ラジアの金の瞳が、さらに強く輝く。
『主よ』
低く、確信を帯びた声。
『終わらせるが――それでも構わないか?』
ラジアの問いは、確認だった。
勝利の宣言でも、挑発でもない。
「相手を存在ごと消去してもよいか」という、事務的な確認。
シオンは一瞬だけ、目を閉じる。
「……完全には、だめだ」
短く、しかしはっきりと。
「退かせるだけでいい。お前が全力を出す相手でもない」
『……了解した』
梟の翼が、静かに広がる。
「……っ!」
ティコが、思わず息を吸い込んだ。
膝をついていたはずの身体が、「立っている」という感覚を取り戻す。
「……戻った?」
魔力が、流れる。
地面が、地面として踏める。
「違う」
エリナが、低く言う。
「“戻された”んだ。
歪めていた圧力を、均された」
「……なるほどの」
シャルロッテが、目を細める。
「破壊も干渉もしておらん。
ただ――正しく在るように“定義し直した”だけじゃ」
視線の先。
ラジアは、重圧の中心に立ちながら、涼しい顔で佇んでいた。
『……ほう』
古代龍の声が、低く響く。
『我の圧力を、押し返したか』
翼が、ゆっくりと動く。
『否……違うな』
巨大な金色の瞳が、細まる。
『圧力を“否定”しておらぬ。
ただ、世界に通さぬよう整えたか』
その声に、初めて感情が混じった。
警戒と、困惑。
『妙な存在よ』
空間が、再び重くなる。
だが――先ほどとは違う。
潰すための圧力ではない。試すための、鋭利な刃のような圧力だ。
『ならば問おう』
古代龍が、一歩、踏み出す。
『その均衡、どこまで保てる?』
翼が、振るわれる。
隕石ではない。魔力でもない。
圧縮された“存在の重さ”そのもの。
「……来る!」
エリナが叫ぶ。
『主よ』
ラジアの瞳が、解析の光を放つ。
『均衡を維持する。
――衝撃は、受けよ』
翼が、再び広がる。
パァンッ――!!
空気が割れたような音がした。
だが、衝撃は来ない。
打ち消されたのではない。
押し返されたのでもない。
“通るべきでない場所”を失い、重さが、世界に定着できなくなったのだ。
まるで、最初から攻撃などなかったかのように、因果が滑り落ちていく。
「……っ、なにそれ……」
ティコが呆然と呟く。
エリナは、確信する。
(あんなもの……防御なんかじゃない。
世界の前提を、自分に都合よく書き換えているだけだ)
「これは……」
シャルロッテが、低く笑う。
「妾の終災より、よほど性質が悪いの」
『……面白い』
古代龍が、喉を鳴らす。
『力で押すのではない。理で通さぬか』
巨体が、ゆっくりと後退する。
これ以上やれば、自らの存在定義すら危ういと悟ったかのような動きだった。
『よかろう』
翼が、大きく広がる。
『貴様の勝ちだ。今日のところは、退こう』
古代龍はそう言うと、エリナ達に目を向ける。
『いいものを見せてもらった。感謝するぞ。次があれば、更なる決死の覚悟で向かってくると良い』
ドォォォォンッ!!
翼が、空を裂く。
古代龍は音速を超える速度で、雲を突き破り、特S区の彼方へと消えていった。
◆
静寂が、戻る。
風の音だけが、やけに大きく聞こえた。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
「……終わったん、ですか?」
ティコが、小さく尋ねる。
「ああ」
エリナが、息を吐きながら答える。
「シオンに助けられたな。……私たちも、まだまだということだ」
シャルロッテは、シオンを見る。
その目は、どこか楽しげで、そして少しだけ哀れんでいるようにも見えた。
「……つくづく、罪な男じゃの」
シオンは、肩の力を抜いた。
「ふぅ……。いいところで退いてくれた。ありがとう、ラジア」
『あの程度の敵、造作もない。主がいるからこその力だ』
「もっと穏便に済めばよかったんだけどね」
『それは』
ラジアは静かに言う。
『主が立つ場所が、それを許さぬ』
金の粒子が、ゆっくりと薄れていく。
ティコが、ゆっくりと周囲を見回す。
足は、まだ少し震えていた。
だが、それは恐怖よりも――理解が追いついていないことによる震えだった。
「……生きてます? 私」
「透けてはいないぞ」
エリナが冗談めかして短く答える。
その声はいつも通り冷静だったが、視線はまだ、完全に前を離れていない。
「ただ――」
一拍。
「“運が良かった”」
「……ですよね」
ティコは乾いた笑いを浮かべる。
「私、さっきまで“戦ってる”つもりでしたけど……」
言葉を探し、やがて諦めたように続けた。
「戦場に立つ資格すら、なかった気がします」
沈黙。
それを破ったのは、シャルロッテだった。
「それでよい」
珍しく、からかうような調子ではない。
「気づいた者から、世界は変わる。
今日、お主は一つ賢くなっただけじゃ」
「賢く……?」
「“勝てない相手がいる”と知った」
シャルロッテは、くくっと喉を鳴らす。
「それは、強者の入口じゃ」
ティコは、思わずシオンを見る。
さっきまで戦場の中心にいたはずの少年は、もういつもの無気力そうな表情に戻っていた。
特別な余韻も、達成感もない。
まるで、面倒な仕事を一つ片づけただけのような顔。
『主よ』
静かな声が、シオンの肩口から響く。
ラジアが、金の粒子を纏ったまま、低く頭を下げた。
『均衡は保たれた。
だが――』
金の瞳が、遠くを映す。
『再び歪みが生じれば、
今度は“戻す”だけでは済まぬ』
「分かってる」
シオンは、短く答える。
「だから、あんまり出たくないんだ」
ラジアは、わずかに嘴を歪めた。
それは、笑みのようにも見えた。
『それでも、呼ばれれば応じよう』
その言葉を最後に、梟の姿は光へと溶けていく。
完全に消える直前、ラジアはもう一度だけ、シオンを見た。
『――主が壊れる前に、な』
光が、消えた。
後には、ただ静かな森だけが残っていた。




