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「魔力反応、消失」
その文字を書き終えたところで、アリアはペンを止めた。
正確ではない。
だが、他に記す言葉が見つからなかった。
机の上には、外部実習に関する報告書が積まれている。
数値、地形、時系列、関係者。
どれも整然としているはずなのに、この一文だけが異様に浮いていた。
魔力反応が消えた。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
そんな事例は、記録上ほとんど存在しない。
ペン先を置いたまま、アリアは一度だけ目を伏せる。
脳裏に浮かんだのは、報告対象の名だった。
【ナギ】
外部実習に参加していた生徒の一人。
中級精霊契約者。
特筆すべき戦績があったわけではない。
少なくとも、あの場に至るまでは。
肉体的損傷は確認されていない。
骨折、裂傷、内臓損傷――いずれも該当せず。
魔力回路も安定しており、回復術の対象になるような異常はなかった。
だが。
精霊の気配が、ない。
測定器は沈黙し、感知魔法も反応しない。
契約精霊を失った場合に見られる反動も存在しない。
消失ではない。
しかし、存在しているとも言い切れない。
その中間。
理屈として成立しない空白状態が、確かにそこにあった。
アリアは報告書に視線を戻しながら、ゆっくりと続きを書き足す。
――当該生徒は、事情聴取に応じている。
ただし、事案発生時の詳細説明は困難と判断。
ここで、再び手が止まった。
「困難」。
それは、あまりに事務的な表現だった。
実際には、もっとはっきりした兆候があった。
声が詰まり、視線が揺れ、言葉を探す前に沈黙が訪れる。
記憶が欠けているわけではない。
忘れているわけでもない。
触れること自体が、重いのだ。
アリアは王級として、多くの事象を見てきた。
戦闘後の疲弊。恐怖による混乱。
それらとは、どこか違う。
あれは――
喪失に近い反応だった。
失ったと、まだ認めきれていない何か。
それでも、確実に手の届かない場所へ行ってしまったもの。
アリアは、報告書の行間に視線を落とす。
当該生徒は、療養措置とする。
外部実習および戦闘行動からの一時離脱。
この判断に、異論は出なかった。
それ自体が、事態の深刻さを物語っている。
誰も「すぐに復帰できる」とは言わなかった。
精霊の状態については、限定的な情報のみが共有されている。
消失ではない。破壊でもない。
ただし、現時点では当該生徒による感知・呼応は不可能。
詳細な所在および管理状況については、
当該報告書の管轄外。
――管轄外。
その言葉を書きながら、アリアはわずかに眉を寄せた。
理解できないからではない。
理解してしまったからだ。
これは、学院の手を離れている。
そして、その事実を誰も否定しなかった。
表向きの処理は、暴走事故による収束。
外部実習中に発生した想定外事案。
だが、内部的には――未解決。
終わったとは、とても言えない。
報告書の最後に、アリアは一文を書き加える。
本事案は、今後の動向を注視する必要がある。
ペンを置き、深く息を吐いた。
窓の外は、いつもと変わらない学院の風景だ。
静かで、平穏で、何も起きていないように見える。
けれど。
(……あれは、ただの事故じゃない)
確証はない。
だが、王級としての勘が、静かに警鐘を鳴らしていた。
この件は、ここで終わらない。
そして――
次に動くのは、
あの場で、最も“何も語らなかった”人物だ。
アリアは、静かに報告書を閉じた。
◆
療養棟の廊下は、やけに静かだった。
外部実習の前線拠点とは違う。
人の気配はあるはずなのに、足音も、話し声も、どこか遠い。
ミナは、胸元で書類を抱えたまま、無意識に歩調を落としていた。
隣を歩くエルドも、同じだった。
剣を帯びていない姿のエルドは、いつもより少し小さく見える。
それだけで、この場所が「戦場ではない」のだと、嫌でも思い知らされた。
――ナギは、この奥だ。
魔力の測定値は、正常。
外傷もない。
身体的には、問題はない。
報告書には、そう書かれていた。
だが。
ミナの足は、ある部屋の前で完全に止まった。
扉の横に設置された札。
簡素な文字で、こう記されている。
《面会不可》
一瞬、視線がそこに縫い止められる。
理由は、分かっていた。
説明も、不要なくらいだ。
精神的ショックによる魔力不安定。
過度な刺激は、回復を阻害する恐れあり。
形式ばった文言の裏にあるのは、
「今は、誰にも会わせられない」という、ただそれだけの事実。
ミナは、喉の奥で小さく息を詰まらせた。
昨日まで、同じ場所を歩いていた相手だ。
隣で話して、笑いあって。
それなのに、今は――扉一枚の向こう側にいても、会うことすら許されない。
「……」
エルドは、何も言わなかった。
ただ、扉を一度だけ見て、それから静かに視線を落とした。
言葉にする必要がないほど、この状況を理解している顔だった。
ミナは、そっと扉に近づく。
ノックはしない。
許可も、求めない。
ただ、そこに立つ。
(……ナギさん)
声には出さない。
出せば、何かが壊れてしまいそうだった。
ここに来る前、何を言うか考えていた。
「無事でよかったです」とか、「すぐ元気になります」とか。
でも、それらは全部、この扉の前では意味を失った。
言葉を届ける段階にすら、いない。
それが、現実だった。
ミナは、ゆっくりと一歩下がる。
「……今日は、ここまでだな」
エルドの声は、低く、淡々としていた。
だが、拒絶ではない。
むしろ、これ以上踏み込ませないための、区切りだった。
ミナは、小さく頷く。
視線は、最後まで扉から離れなかった。
何も起きない。
物音ひとつ、しない。
中にいるナギが眠っているのか、目を開けて天井を見ているのか――それすら、分からない。
分からないまま、背を向ける。
廊下を歩き出した瞬間、胸の奥に、重たいものが落ちた。
これは、別れではない。
だが、再会でもない。
“待つしかない時間”が、始まったのだと。
ミナは、そう理解した。
振り返らずに歩く。
振り返れば、きっと、立ち止まってしまうから。
療養棟の廊下は、最後まで静かなままだった。




