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風が、世界を切り刻んだ。
鼓膜を食い破るような高周波の絶叫と共に、無数の風刃が空間そのものから溢れ出す。
方向も、間隔も、秩序もない。
ただ“あるべきでない質量”の魔力が、飽和して弾けた。
それは、もはや攻撃というより災害だった。
空気が裂け、断末魔のような音を上げる。
遺跡の強固な石壁が、豆腐のように無音で削り取られ、砂へと還る。
樹齢数百年を越える大樹が、根元からねじ切れて空へ舞う。
視界を埋め尽くすのは、濁った翡翠色の暴風。
触れるもの全てを原子レベルで分解する、死の嵐。
――だが。
その破壊の中心地。
嵐の目の中に、ひとつの光があった。
【アナディオメネ】
そう名乗った人型の何かは、一切の防御姿勢を取らない。
煌めくプラチナブロンドの髪をなびかせ、ただ静かに、暴虐の嵐を見据えていた。
襲いかかる数千、数万の風刃。
物理法則に従えば、彼女の体は瞬時に肉片へと変わるはずだった。
――しかし。
刃が彼女の肌に触れようとした、その刹那。
パァン、と。
風が、光の粒子となって弾けた。
切断されるはずの空間が、切断そのものを拒絶したのだ。
彼女の周囲だけ、世界が書き換わっている。
「傷つける」という概念そのものが、そこには存在しない。
防御ではない。
回避ですらない。
存在の階層が、決定的に違う。
『……構いません』
アナディオメネの声は、轟音の中でもはっきりと響いた。
命令ですらない。
ただ、淡々とした許可。
『あなたが、どこまで逸脱したのか。
その全てを、ここで示しなさい』
挑発に応えるように、風がさらに唸る。
ゴオォォォォォォォッ!!
風精霊の輪郭が醜悪に膨張する。
大気を喰らい、魔力を喰らい、黒い雷を纏った竜巻となって、一点――アナディオメネへと殺到する。
――限界を越えた出力。
王級精霊すら凌駕しかねない、自滅覚悟の一撃。
ナギが悲鳴を上げる。
「やめて……! もう……ッ!」
だが、止まらない。
風は、怒りでも悲しみでもない。ただ壊れている。
そのすべてを、アナディオメネは受け止めた。
一歩も引かず。
瞬き一つせず。
黒い竜巻が彼女を飲み込み――そして、霧散する。
彼女の輝きを穢すことすらできずに、魔力が虚空へ溶けていく。
シオンは、ただ立ち尽くしていた。
飛んでくる瓦礫から身を守ることさえ忘れ、その光景に魅入っていた。
戦闘を見ている、という感覚はない。
理解しようともしていない。
――理解できないと、分かっているからだ。
(……これが、“本来の力”)
ディアナが普段、力を抑えている理由。
そして、決して表に出してはいけなかったもの。
あれは魔法ではない。
精霊術でもない。
ただの“権能”だ。
胸の奥で、何かが静かに確信へ変わっていく。
そして。
ふ、と。
世界が、静かになった。
風刃が生まれなくなる。
魔力の奔流が、急激に弱まる。
ピュールの全力が、彼女の前では無意味だと、世界自身が悟ったかのように。
『……十分ね』
アナディオメネが、初めて一歩踏み出した。
カツン。
空間に、足音が響く。
それだけで、空気が“落ちる”。
重圧ではない。威圧でもない。
裁定。
原初の存在が、世界に対して下す絶対的な判断。
アナディオメネの背後に、黄金の光が揺らめいた。
その光が翼のように広がり、森全体を包み込む。
それは、奔流ではなかった。爆発でもなかった。
ただ――
《愛》が、在る。
その瞬間、ピュールの魔力が完全に押し潰された。
ギチチチチッ……!
空間がきしむ音。
風が、圧縮される。
暴走していた力が、見えない巨大な手に包まれたかのように、一点へ、一点へと優しく、けれど強制的に収束していく。
悲鳴のような音。それすらも、途中で消える。
ピュールの輪郭が崩れ、光の粒となり、やがてその形は完全に失われた。
力は残っている。
だが、動かない。
――否。
許されない。
『ここまでです』
アナディオメネは、静かに告げる。
その黄金の瞳は、風精霊ではなく――“世界そのもの”に向けられていた。
『原初の《愛》たるアナディオメネが命じる』
一切の感情を排した、絶対の声。
万物が傅く、女神の勅命。
『私はその在り方を、ここで終わらせはしない』
ナギが、息を呑む。
『だが――』
わずかな間。
それは、情けでも躊躇でもなく、選択の猶予だった。
『これ以上、進むことは許さない。
直ちに鎮まり、もとある居場所に戻りなさい』
その言葉と同時に、黄金の光が弾けた。
風が、完全に止まった。
◆
「……ピュールが、消えた?」
呆気に取られるナギ。
あまりの光景に、思考が追いついていない。
横でその顛末を見守っていたエルドも、戦慄を隠せない表情で立ち尽くしている。
しかしすぐに正気を取り戻し、駆け寄る。
「……! シオン……! ピュールは……ピュールはどうなったん?」
「…………」
シオンは答えない。
答えはわかっているが、それを形容する言葉が見つからないからだ。
シオンに縋り付くナギを見て、アナディオメネと名乗った人型の何かは、ナギに語りかける。
『安心しなさい。彼――ピュールは、消えてはいません。ただし、現在の状態では、自立した存在を保てないだけです。私が一時的に預かります』
「シ、シオン?」
突然、光の粒子が煌めくその人型……いや、この世のものとは思えない絶世の美女に話しかけられ、ナギは混乱する。
「あ、ああ。大丈夫だよ。安心していい。彼女は僕の契約精霊なんだ。普段は猫なんだが、ちょーっと本気を出すと人型になっちゃうみたいだ」
そうシオンが告げると、アナディオメネは反応した。
神々しかった表情が、ふっと人間味を帯びて緩む。
『なによシオン。あなたが心配させたからでしょう?』
シオンに対しては少し砕けた口調になり、その信頼度が窺える。
とても先ほどまで、世界を圧するような戦いをしていたとは思えない。
ただし、行動は別だ。
アナディオメネがシオンに触れた瞬間、柔らかな光が溢れた。
胸の打撲痕も、内臓へのダメージも、砕けた骨すらも、時間を巻き戻すようにみるみるうちに癒され、完治していく。
ナギとエルドは、ありえない奇跡を見たかのように目を見開いた。
『これで、大丈夫ね。全く、心配させないで欲しいわ』
アナディオメネはシオンを回復させると、ふわりと光に包まれた。
粒子が収束し、再びあの小さな黒猫の姿に戻る。
『あなたの精霊は無事です』
猫の姿のまま、脳内に響く声だけは凛としていた。
『力を分解し、再構成可能な段階まで戻したのち、必ずあなたのもとへ返します。これは約束ではありません。私の役割です』
一瞬だけ、その存在から張りつめた何かがほどけたように見えた。
『――シオンの大切な友人である、【あなた】へのね』
ディアナは、最後にそれだけ言うと、ふいっとシオンの影の中へ姿を消した。
◆
森には、静寂だけが戻っていた。
ナギは、無意識に胸元を押さえていた。
そこにあったはずの気配が、ない。
物心ついた時から、ずっと当たり前に感じていた風の感触が、嘘みたいに遠い。
消えていない。
そう言われたはずなのに。
それでも、確かに――
自分の中から、何かがいなくなった感覚だけが、冷たく残っていた。




