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静かに暮らしたい最強は、どうやら巻き込まれ体質のようです  作者: じゅくすい
第2章

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 風が、世界を切り刻んだ。



 鼓膜を食い破るような高周波の絶叫と共に、無数の風刃が空間そのものから溢れ出す。

 方向も、間隔も、秩序もない。

 ただ“あるべきでない質量”の魔力が、飽和して弾けた。


 それは、もはや攻撃というより災害だった。


 空気が裂け、断末魔のような音を上げる。

 遺跡の強固な石壁が、豆腐のように無音で削り取られ、砂へと還る。

 樹齢数百年を越える大樹が、根元からねじ切れて空へ舞う。


 視界を埋め尽くすのは、濁った翡翠色の暴風。

 触れるもの全てを原子レベルで分解する、死の嵐。


 ――だが。


 その破壊の中心地。

 嵐の目の中に、ひとつの光があった。


 【アナディオメネ】


 そう名乗った人型の何かは、一切の防御姿勢を取らない。

 煌めくプラチナブロンドの髪をなびかせ、ただ静かに、暴虐の嵐を見据えていた。


 襲いかかる数千、数万の風刃。

 物理法則に従えば、彼女の体は瞬時に肉片へと変わるはずだった。


 ――しかし。


 刃が彼女の肌に触れようとした、その刹那。


 パァン、と。

 風が、光の粒子となって弾けた。


 切断されるはずの空間が、切断そのものを拒絶したのだ。

 彼女の周囲だけ、世界が書き換わっている。

「傷つける」という概念そのものが、そこには存在しない。


 防御ではない。

 回避ですらない。


 存在の階層レベルが、決定的に違う。


『……構いません』


 アナディオメネの声は、轟音の中でもはっきりと響いた。

 命令ですらない。

 ただ、淡々とした許可。


『あなたが、どこまで逸脱したのか。

 その全てを、ここで示しなさい』


 挑発に応えるように、風がさらに唸る。


 ゴオォォォォォォォッ!!


 風精霊の輪郭が醜悪に膨張する。

 大気を喰らい、魔力を喰らい、黒い雷を纏った竜巻となって、一点――アナディオメネへと殺到する。


 ――限界を越えた出力。

 王級精霊すら凌駕しかねない、自滅覚悟の一撃。


 ナギが悲鳴を上げる。


「やめて……! もう……ッ!」


 だが、止まらない。

 風は、怒りでも悲しみでもない。ただ壊れている。


 そのすべてを、アナディオメネは受け止めた。

 一歩も引かず。

 瞬き一つせず。


 黒い竜巻が彼女を飲み込み――そして、霧散する。

 彼女の輝きを穢すことすらできずに、魔力が虚空へ溶けていく。


 シオンは、ただ立ち尽くしていた。

 飛んでくる瓦礫から身を守ることさえ忘れ、その光景に魅入っていた。


 戦闘を見ている、という感覚はない。

 理解しようともしていない。


 ――理解できないと、分かっているからだ。


(……これが、“本来の力”)


 ディアナが普段、力を抑えている理由。

 そして、決して表に出してはいけなかったもの。


 あれは魔法ではない。

 精霊術でもない。

 ただの“権能”だ。


 胸の奥で、何かが静かに確信へ変わっていく。


 そして。


 ふ、と。

 世界が、静かになった。


 風刃が生まれなくなる。

 魔力の奔流が、急激に弱まる。

 ピュールの全力が、彼女の前では無意味だと、世界自身が悟ったかのように。


『……十分ね』


 アナディオメネが、初めて一歩踏み出した。


 カツン。


 空間に、足音が響く。

 それだけで、空気が“落ちる”。


 重圧ではない。威圧でもない。

 裁定。

 原初の存在が、世界に対して下す絶対的な判断。


 アナディオメネの背後に、黄金の光が揺らめいた。

 その光が翼のように広がり、森全体を包み込む。


 それは、奔流ではなかった。爆発でもなかった。


 ただ――

 《愛》が、在る。


 その瞬間、ピュールの魔力が完全に押し潰された。


 ギチチチチッ……!


 空間がきしむ音。

 風が、圧縮される。

 暴走していた力が、見えない巨大な手に包まれたかのように、一点へ、一点へと優しく、けれど強制的に収束していく。


 悲鳴のような音。それすらも、途中で消える。


 ピュールの輪郭が崩れ、光の粒となり、やがてその形は完全に失われた。


 力は残っている。

 だが、動かない。

 ――否。

 許されない。


『ここまでです』


 アナディオメネは、静かに告げる。

 その黄金の瞳は、風精霊ではなく――“世界そのもの”に向けられていた。


『原初の《愛》たるアナディオメネが命じる』


 一切の感情を排した、絶対の声。

 万物が傅く、女神の勅命。


『私はその在り方を、ここで終わらせはしない』


 ナギが、息を呑む。


『だが――』


 わずかな間。

 それは、情けでも躊躇でもなく、選択の猶予だった。


『これ以上、進むことは許さない。

 直ちに鎮まり、もとある居場所に戻りなさい』


 その言葉と同時に、黄金の光が弾けた。

 風が、完全に止まった。



「……ピュールが、消えた?」


 呆気に取られるナギ。

 あまりの光景に、思考が追いついていない。

 横でその顛末を見守っていたエルドも、戦慄を隠せない表情で立ち尽くしている。

 しかしすぐに正気を取り戻し、駆け寄る。


「……! シオン……! ピュールは……ピュールはどうなったん?」


「…………」


 シオンは答えない。

 答えはわかっているが、それを形容する言葉が見つからないからだ。


 シオンに縋り付くナギを見て、アナディオメネと名乗った人型の何かは、ナギに語りかける。


『安心しなさい。彼――ピュールは、消えてはいません。ただし、現在の状態では、自立した存在を保てないだけです。私が一時的に預かります』


「シ、シオン?」


 突然、光の粒子が煌めくその人型……いや、この世のものとは思えない絶世の美女に話しかけられ、ナギは混乱する。


「あ、ああ。大丈夫だよ。安心していい。彼女は僕の契約精霊なんだ。普段は猫なんだが、ちょーっと本気を出すと人型になっちゃうみたいだ」


 そうシオンが告げると、アナディオメネは反応した。

 神々しかった表情が、ふっと人間味を帯びて緩む。


『なによシオン。あなたが心配させたからでしょう?』


 シオンに対しては少し砕けた口調になり、その信頼度が窺える。

 とても先ほどまで、世界を圧するような戦いをしていたとは思えない。


 ただし、行動は別だ。


 アナディオメネがシオンに触れた瞬間、柔らかな光が溢れた。

 胸の打撲痕も、内臓へのダメージも、砕けた骨すらも、時間を巻き戻すようにみるみるうちに癒され、完治していく。


 ナギとエルドは、ありえない奇跡を見たかのように目を見開いた。


『これで、大丈夫ね。全く、心配させないで欲しいわ』


 アナディオメネはシオンを回復させると、ふわりと光に包まれた。

 粒子が収束し、再びあの小さな黒猫の姿に戻る。


『あなたの精霊は無事です』


 猫の姿のまま、脳内に響く声だけは凛としていた。


『力を分解し、再構成可能な段階まで戻したのち、必ずあなたのもとへ返します。これは約束ではありません。私の役割です』


 一瞬だけ、その存在から張りつめた何かがほどけたように見えた。


『――シオンの大切な友人である、【あなた】へのね』


 ディアナは、最後にそれだけ言うと、ふいっとシオンの影の中へ姿を消した。



 森には、静寂だけが戻っていた。


 ナギは、無意識に胸元を押さえていた。


 そこにあったはずの気配が、ない。

 物心ついた時から、ずっと当たり前に感じていた風の感触が、嘘みたいに遠い。


 消えていない。

 そう言われたはずなのに。


 それでも、確かに――


 自分の中から、何かがいなくなった感覚だけが、冷たく残っていた。

 

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