25
走りながら、ミナは何度も測定器を確認していた。
水晶盤の針は、ありえない動きをしている。
振り切れるほどではない。だが、一定の方向へ引っ張られ続けている。
(……C区の数値じゃない)
息が乱れる。
だが、脚は止めない。
エルドの判断は正しかった。
これは調査ではない。事件だ。
森を抜け、遺跡前線拠点の石造りの建物が見えた瞬間、ミナはさらに速度を上げた。
受付を無視し、一直線に学院関係者用の区画へ向かう。
「緊急報告です!」
声が少し裏返った。
それでも構わない。重要なのは、正確に、早く伝えることだ。
「C区で、想定外の魔力反応を確認しました!
精霊由来と思われます! 出力は――」
言葉を続けようとして、ミナは口を閉じた。
空気が、違う。
背後。
ほんの数歩離れた場所。
――そこに、いた。
「……ミナさん?」
静かな声。
振り返ると、そこにはアリアが立っていた。
隣には序列第三位、アリス・フェンリズ。
そして少し後ろに、見慣れない二人の生徒。
その全員が、同じ方向を見ている。
森の奥。
ミナが測定器を握りしめる。
「……もう、気づいていたんですか?」
アリアは、小さく頷いた。
「ええ。こちらに来る途中から、違和感がありました」
アリスが、腕を組む。
「これ、精霊だよね。しかも――」
言葉を切り、視線を細める。
「かなり荒れてる」
ミナの喉が鳴った。
「……C区では……ありえません」
「だから戻ってきたんだ」
アリスの声は、落ち着いていた。
だが、その瞳は完全に“戦場を見る者”のものだった。
「詳しく教えてください、ミナさん」
ミナは一度、深く息を吸った。
頭の中を整理する。3人の顔が浮かぶ。
シオン。エルド。ナギ。
(……間に合って)
そう願いながら、ミナは状況を説明し始めた。
◆
風が、壊れていた。
叫びでも悲鳴でもない。
ただ、感情だけが剥き出しになったような、荒い魔力の塊。
「ピュール……ピュール……!」
呼んでも、返事はない。
名前を呼ぶたび、風は強くなる。
止めたいのに、近づけない。
「やめて……お願いやから……!」
視界が滲む。
涙なのか、風のせいなのかも分からない。
そのとき。
「――ナギ!!」
聞き覚えのある声。
びくりと身体が跳ねる。
「……シ、オン……?」
振り向くと、崩れた石壁の向こうに二つの影が見えた。
剣を構えたエルド。
そして、息を切らして立ち尽くすシオン。
その姿を見た瞬間。
張り詰めていた何かが、音を立てて切れた。
「……わからん……」
足から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
「わからんねん……!」
声が裏返る。
「なんもわからんねん!!」
頭を押さえる。
「目、覚めたらここにおってな!」
「変なとこで!」
「怪しいやつがおって!」
言葉が、追いつかない。
「ピュールに……ピュールになにかされてしもて……!」
視線が、暴走する風へ向く。
「急に……急に、ああなって……!」
呼吸が乱れる。
「止まらんねん……!」
「呼んでも……言うこと、聞いてくれへん……!」
声が、震えに震える。
「なんでや……?」
「なんでなんや……!」
そこで、エルドが一歩前に出た。
「……“怪しいやつ”とは?」
低く、鋭い声。
ナギは顔を上げる。
「白衣着た男や……」
「全部知っとった……名前も、家も……!」
エルドの目が、細くなる。
「……実験、か?」
ナギは、縋るように頷いた。
「そうや……」
「王級がどうとか……素材とか……」
言葉にした瞬間、背筋を冷たいものが走る。
エルドは、シオンと一瞬だけ視線を交わした。
「……厄介だな」
その声には、はっきりとした警戒があった。
そして。
『……来るわ』
ディアナが黒猫の姿で、シオンの目の前に現れる。
空気が、変わる。
ナギは、再び風の中心を見る。
「……ピュール……」
祈るように、名前を呼ぶ。
その声が届くかどうかも分からないまま。
だが、確実に。
ここから先は、精霊同士の領域だった。
◆
暴風が、空間を引き裂く。
風精霊――いや、もはやそれと呼ぶには歪すぎる存在が、遺跡の森を中心に荒れ狂っている。
木々が軋み、地面が抉れ、空気そのものが押し潰されるような圧を帯びていた。
「ピュール……!」
ナギの声は、悲鳴に近い。
縛られたままの身体を必死に起こし、荒れ狂う風の中心を見つめている。
そこにいる“それ”が、かつての契約精霊だということは、誰の目にも明らかだった。
だが――
制御は、完全に失われている。
「……っ、これは……」
エルドが歯を食いしばる。
「王級に近い。いや……近い、で済ませていい段階じゃない」
風の刃が、地面を抉って飛び散る。
防御に回した剣が、嫌な音を立てて弾かれた。
シオンは、一歩前に出た。
ディアナの魔力が、すでに周囲を覆っている。
抑えている――そう表現するのが正しかった。
『……厄介ね』
ディアナの声が、いつもより低い。
『無秩序に暴れているくせに、核だけは守っている。
力だけ先に膨れ上がった、最悪の形よ』
「……そういうことか」
シオンは、短く息を吐いた。
ディアナの動きは明らかに鈍い。
攻めていないのではない。
攻められないのだ。
守りながら。壊さないように。
なおかつ、王級に近い出力を相手に。
それがどれほど無茶か――シオンには、嫌というほど分かっていた。
「ディアナ」
呼びかけると、視線がこちらを向く。
「抑えなくていい」
その言葉に、ナギが振り返る。
「……シオン?」
だが、シオンは視線を逸らさない。
「こっちは大丈夫だ。僕たちで引き受ける」
風が、さらに強まった。
ピュールの魔力が、怒りとも悲鳴ともつかない波動を放つ。
それでも、シオンは続けた。
「だから――」
一拍。
「ピュールを、できる限り無傷で止めてくれ」
ディアナが、目を細める。
『……随分、難しいことを言うじゃない』
「分かってる」
即答だった。
「でも、あいつはナギの精霊だ。壊す選択肢は、最初からない」
短い沈黙。
次の瞬間、ディアナの魔力が一段、深く沈んだ。
『……いいわ』
声が、冷たく澄む。
『なら――
あなたたちは、死なないで』
その言葉と同時に、ディアナは踏み出した。
風と風が衝突する。
だが、それは破壊ではなく、圧殺だった。
王級に近づきかけた精霊の暴走を、正面から“押さえ込む”という選択。
風精霊が飛ばしてくる魔力の塊を、同じ威力、同じ質量、同じ魔力量で正確にぶつけて相殺している。
「なんて戦いだ……」
エルドは自分の身を守ることも忘れて戦いに魅入る。
「あれがシオンの本気……。お願いや! どうか! どうかピュールを助けて!!!」
ナギが希望を見出したかのように声を上げる。
しかし、その声に反応したのか、風精霊の動きが不規則に歪んだ。
「危ない!!!!」
――飛んできた。
砕けた岩片ではない。
風に圧縮された“破片”が、弾丸のような速度でシオンを襲う。
「シオン!」
エルドの声が届くより早く、
――衝撃。
胸を、貫くような痛み。
息が、一瞬止まった。
身体が、後方へ吹き飛ばされる。
「……っ!」
地面に叩きつけられ、視界が揺れる。
熱が、遅れてやってくる。
赤。
自分のものだと理解するのに、少し時間がかかった。
『シオン――!?』
ディアナの声が、はっきりと動揺を帯びた。
「…っ……」
「大丈夫かシオン!」
シオンはディアナとエルドの声になんとか反応する。
「……大丈夫だ」
シオンは、ゆっくりと立ち上がった。
痛みはある。だが、それ以上に、胸の奥が静かだった。
「……ごめん、ディアナ」
血を拭いながら、呟く。
「やっぱり……加減、きつかったな」
視線を上げる。
そこに宿るものは、もはや“抑制”ではなかった。
『……ええ』
ディアナが、静かに応える。
『だから、ここからは――』
――空気が変わる。
圧が、消える。
風が、止まる。
全てが沈黙した。
姿が変わる。
猫の姿形をしていたディアナの輪郭がほどけ、圧倒的な存在感をもつ『人の形を借りた、人ではない何か』が、風精霊を見据えていた。
言葉を紡ぐ。
『――原初の《愛》たるアナディオメネが命じる。
その在り方を終わらせはしない。
だが、これ以上進むことも許さない。
直ちに鎮まり、もとある居場所に戻りなさい』




