23
高い天井から、柔らかな光が差し込んでいた。
白い石で整えられた広間は静かで、足音さえも遠慮がちに響く。
窓の向こうには、手入れの行き届いた庭園が広がっていた。
人の気配は少ない。
けれど、ここが常に見張られ、守られている場所だということだけは、子どもでも分かるほどだった。
「ナギ」
呼ばれて、振り返る。
そこにいたのは、母だった。
柔らかな色のドレス。少し困ったような笑顔。
近くにいるはずなのに、距離があるように感じる。
「そんなに急がなくていいのよ」
声は、優しい。
けれど、その声がどこから聞こえているのか分からない。
「今日は、おめでたい日なんだから」
おめでたい日。
そうだったはずだ。
何かを祝う日だった気がする。けれど、何を祝うのかが思い出せない。
周囲を見回すと、先ほどまでいなかったはずの大勢の人がいる。
けれど、誰一人として顔が見えなかった。
影のように立っているだけで、声も、気配も薄い。
胸の奥が、ざわつく。
「……お母さん?」
呼びかけた瞬間、風の音が止んだ。
空の色が、わずかに暗くなる。
鈴の音が、遠ざかる。
「ナギ」
母が、もう一度名前を呼ぶ。
その声は、さっきよりも低く、硬かった。
「聞いて。よく、聞いて」
母が一歩、近づこうとする。
けれど、その動きが途中で止まる。
見えない何かが、母とこちらの間に割り込んだ。
母の表情が変わる。
恐怖ではない。怒りでもない。
――決意だ。
「約束して」
その瞬間、母の姿が急に近づいた。
手を取られる。強く、震える手。
「どんなことがあっても、生きなさい」
強い口調だった。
「振り返らなくていい。選ばなくていい」
言葉が、胸に突き刺さる。
「あなたは、あなたのままでいい。あなたの幸せが私の幸せなんだから」
次の瞬間。
背中を、強く押された。
世界が反転する。
「――お母さん!!」
叫んだ声は、途中で掻き消えた。
光が潰れ、音が歪み、足元がなくなる。
最後に見えたのは――
その場に立ち竦む母の姿。
それでも必死に手を伸ばし、叫んだ瞬間だった。
◆
「お母さん!」
ナギは、跳ね起きた。
喉がひりつくほど渇いている。
大量の寝汗で、制服が肌に張り付いて冷たかった。
「……なんや……夢、かいな……」
荒い呼吸を整えようとする。
だが、すぐに気づいた。
ここが自分のベッドでも、実習先のテントでもないことに。
薄暗い部屋。薬品の匂い。
そして――。
「ようやく目を覚ましたか、ナギ・ハイデンシュローム」
「……っ!」
低い声。
ぼやけている視界の先、白衣を着た男の姿があった。
ナギは普段では考えられない速度で思考を回転させる。
ここはどこか。目の前の男は誰か。なぜ自分はここにいるのか。
「……久々に聞いたわぁ、その名前。アンタ、どこかで会うたことあるん?」
震えを押し殺し、努めて軽い口調で返す。
「はじめましてだ。ナギ・ハイデンシュローム。いや……ハイデンシュローム王国第一皇女よ」
「なんや、全部知っとるんか。……何が目的や?」
「目的か。単純だよ」
男は、白衣のポケットに手を入れたまま淡々と言った。
「君は“素材”として、非常に価値が高い」
「……素材?」
「王族の血。若年。精霊適性が高く、しかも自我が強い」
まるで実験レポートを読み上げるような口調。
「壊れにくく、観測しやすい。理想的だ」
「……それがなんやっていうんや」
「なぁに、それこそが我々の目的に一致しているということだよ」
「だからその目的を教えろって言ってんねん」
「我々が世界を統べるための第一歩さ。君はそのための糧となる。悪いようにはしない。君の価値は我々が保証しよう」
「人をなんだと思ってんねん」
「人は人だよ。だからこそ価値がある」
男は、ほんの少しだけ首を傾げる。
その仕草には、人間らしい感情が欠落していた。
「王級精霊との契約は、本来“選ばれた個体”にしか成立しない」
「そんなん当たり前やろ。あんなんがうじゃうじゃいてたまるかい」
「だが、もし――」
一拍、間を置く。
「条件を揃え、環境を整え、無理やり“成立させられる”としたら?」
ナギの背筋に、冷たいものが走った。
「……アホな話やな」
「そうだ。だから面白い」
男は、初めてわずかに笑った。
「君たちはこれを“奇跡”だと思っている。だが我々は、それを“再現可能な現象”に変えたいだけだ」
静かに、結論を告げる。
「君は、そのための実験体だ。ナギ・ハイデンシュローム」
「そないなこと聞いて『わかりました!』なんて答えるやつはおらんやろ! ピュール!」
名前を呼んでも、相棒の風精霊からの応答がない。
身体を動かそうとして、ようやく気づいた。
動かない。
手首と足首に、何かが触れている。
鎖ではない。冷たくも重くもない。
だが、確実に“固定”されていた。
力を込めると、空気がわずかに歪む。
同時に、頭の奥がじんと痺れた。
「無駄だよ」
白衣の男が、興味深そうに告げる。
「それ以上動くと、精神側に負荷がかかる。身体ではなく、“契約領域”にね」
ナギは奥歯を噛みしめた。
――精霊に干渉する拘束。
聞いたことはある。だが、実物を体験するのは初めてだった。
「物理的な拘束でないから、事故も起こるまい。そこで大人しくしていろ。すぐに終わらせる」
「なにをするつもりや」
ナギは、抵抗が無駄だと悟ると、即座に時間稼ぎへシフトした。
情報を引き出し、隙を窺う。それしか生き残る道はない。
「安心したまえ。悪いようにはしないと言っただろう。むしろ喜ぶかもしれないな。君は今から王級精霊契約者となるのだ」
「……っ!」
ナギは気づいた。
反応しないピュール。無数の違和感。そして、部屋全体に満ちている異常な魔力濃度に。
それは新しい力を得る予兆ではない。
今ある絆が、上書きされようとしている気配だ。
「おい! アンタ、ピュールになにしたん!」
「なにもしてないさ。今は……ね」
白衣の男はナギから少し離れると、両手を広げて叫んだ。
「さぁ! 我々の第一歩だ! 世界の始まりだ! 喜べ! 笑え! そして慄け!
人類が到達できる最高地点をお見せしよう!」




