海紅豆
「渡さん、聞いてください」
「なんだ?」
「夢を見たんです」
「いい夢か?」
「はい、とっても」
「では、話さないでおけ」
「どうしてですか?」
「いい夢は人に話すとかなわなくなるからな」
「…意外と渡さんって、そういう迷信みたいなこと信じてますよね」
「馬鹿にしてるのか」
「そういうわけじゃありませんよ」
すずが花宮の家に住むようになってから、もう何年も過ぎた。
これといって二人の間に変わったこともなく、ただただ同じような日々を過ごしていた。
時は明治も終わりに差し掛かっていた。
「渡さん、明治が終わるそうですね」
「なぜだ?」
「このあいだ、井戸端会議をしている奥さんたちの話を聞いていましたら、もうすぐ次の時代がやってくるだろうって専ら噂で」
「ああ、それはただの噂話だろう。天皇陛下がもうじき崩御するとは決まったわけじゃないんだ。…それがどうかしたのか?」
「私、明治が終わらなければいいと思っています」
「そうか」
「このままずっと、渡さんと一緒に過ごしていければいいと思っています」
「そうか」
「これって、とても幸せな夢じゃありませんか?」
「…そうだな」
渡は、突然夢を語り出したすずに微笑んだ。
すずがいつも唐突なのは今に始まったことではない
「それで、渡さん」
「ん?」
「ちゃんと聞いてくださいね」
「何だ?」
「明治が終わったら、私は消えてしまうかもしれないんです」
「…どういう意味だ」
「私は人の信用で成り立つ生き物ですから、信じてもらえなくなったら生きていられません」
すずが、悲しげな目をした。
ああ、あの時と一緒だ。
駅前で話しかけたときの、色のない目。
「私がいるじゃないか。実際に私はお前が見えているわけだし、私は死ぬまですずを信じ続けるさ」
「それだけでは足りないんです」
一人だけの信用で私が一人生きていけるようなたやすい話ではないのです。
すずは、目を伏せた。
「仮に明治が終わったとしても、その途端にすずが消えてしまうわけではないだろう」
こんなことを言ってもすずを励ますことなどできないことはわかっていた。結局、すずは自分とは違うのだ。花宮はすずにかけてやる言葉を失った。
「もしも私が消えてなくならずにずっとあなたのそばで生きていけたら、なんて考えるんです」
贅沢ですよね。すずはそう言って、苦しそうな笑顔を見せた。
私はお前には笑ってほしいのに、どうして私はいつも大したことを言ってやれないのだろう。
「…なあすず」
「はい」
「私はずっと気づいていなかったのだが、やっとはっきりしたことがある」
「何でしょう」
花宮は、すずをまっすぐに見つめた。
あの時から何も変わらない白い肌、黒い髪。
「私にはお前が必要だ。もうお前のいない生活など考えられないんだ」
少しの間があってから、すずが笑って同意した。
「それはわかっています。私も同じですから」
本当は花宮もわかっていた。
すずが不安定なものであるのはわかっていたつもりだった。今までずっと一人だったのに、すずが一緒に暮らすようになってからはすずのいない生活など考えられなくなっていた。だからこそ、すずが見えなくなってしまった時の恐怖は測り知れなかった。
「すず、約束してくれ」
「はい」
「私の前から姿を消さないでくれ、頼む」
「…願わくは、貴方の隣で」




