第8色
第8色
夕刻過ぎの黄昏。大禍時。逢魔時。街を辛うじて見下ろせるホテルの一室に、紅峰斎はいた。
夕陽による最後の一筋が、彼女の頬を照らす。柔らかく、温かく。そして、ゆっくりと、消えて行く。
端整な顔立ちに似合わぬ、打ち消された表情。本来であれば丸く大きな黒紅瞳も、何かを押し殺すように凛と細められている。
紅みがかった黒い髪が揺れる。無風の室内で、僅かに。微かに。揺れる。意識の外で、一房の灰色が斎の視界を掠めた。
思い出す。楽しかった日々を。
思い出す。共に過ごした時を。
思い出す。周りに居てくれた、友人を。
―――だというのに。
斎は思い出せない。あれだけが思い出せない。それが何であるかさえも思い出せない。ともすれば、思い出せないことすら思い出せない。
あれだけが……あなただけが……。
凍り付けに、されてしまった。
否。してしまったのは自分。紅峰斎、本人だった。
そういう夢幻を持ってしまった。そして、それは成就した。一人の犠牲と、独りの代償を背負って。
それでも、この灰白色だけは消したくない。消すことが出来ない。消えてくれない。
苦痛と忘却の狭間、封印の境界で揺れる斎を、いとおしくも哀れだと、狂おしいほど未熟だと、まだ可憐な少女であるのだと理解する。
理解する。
理解する。
理解する。
理解する。
理解する―――だけ。
それに寄り添うことも、まして代わってやる事も出来はしない。
これは彼女の夢幻、彼女の夢幻。彼女の夢幻なのだから。
眼下に映る生の営み。目まぐるしく変わる感情の奔流。暴風雨。その中で生まれてしまう、どうしようもない程の翳り。斎は、それを―――。
これ以上は野暮だ。いや、今後の楽しみとしよう。いつ訪れるか、それも含めて。
「行ってくる」
誰もいない部屋に、空虚な声が抜けていく。返してくれる人間はいないというのに。
それでも、斎はもう一度、か細く、自嘲気味に。
「行って……きます」
噛み締めながら、そう、呟いた。