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朽名奇譚  作者: いちい
#2 理科準備室のホルマリン生首
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ヤンデレバースト2

 





 颯太は私の肩を、両方の手でしっかりと掴んだ。手を緩めたら私がいなくなってしまうとでも思っているかのように、強い力が込められている。

 あまりの強さで、骨が軋むようだ。


「秊、すぐに元に戻してやるから。……だから、また笑ってくれよ」


 颯太は笑っている。

 どこにも完璧なところなんか見当たらない、泣いているような顔だ。それでも、いつも颯太がクラスメイトや先生に見せているような、さっき浮かべていたような、完璧な笑顔よりも。

 ずっと、颯太らしかった。


 私は笑えない。


 そして颯太が、私の肩を。

 そのまま、ぽんっと、軽く。

 優しく叩いた。


 いつの間にこんな屋上の隅に来ていたのだろうか。背中がフェンスに当たる。フェンスは耳障りな音をたてて外れた。留め具が緩んでいたようだ。


 私は颯太と目を合わせたまま体を後ろに傾かせて、それで。

 黒い。

 物理法則のままに流れていく景色は、ただ黒かった。

 その中に、赤い月がぽっかりと浮かんでいて。

 月がとても明るい。


 颯太は笑っていた。泣いているような笑顔から、ホンモノの涙を一筋垂らしている。


 私は(かし)いでいく世界で、颯太に手を伸ばした。


 そして、私の体は不安定なまま静止する。


 体の半分以上が空中に投げ出されてしまっているのに、私が落ちることはなかった。重力が抜け落ちたかのように、私は宙に身を投げ出したまま停まっている。


 『今日は重力の定休日』。なんて、そんなわけない。


 貯水槽の向こう側から、足音がした。

 反対側に先客がいたのかとも思ったが、そうではないとすぐに気づいた。


 見るより先に、それが誰かなんていうのはわかりきっていた。

 特徴的なあの足音が聞こえていたのだから。


 彼はやはり自分のホルマリン漬けにされた頭部を抱えていた。


「良い夜ですね、秊」


 瑞樹は微笑んだ。


「あ、うん。こんばんは、瑞樹」


 こいつのことだからどこから湧いても不思議はない。だが、一応尋ねずにはいられなかった。


「どこから湧いたの?」


 どこから出てきたの?


「……湧いた、とはまた面白い表現ですね。どこからでてきたんでしょうか?」

「あ、ごめん。そ、その、えっとね? うっかり心の声と実際の発言が逆にー」

「……この状況でそんなことが言える神経を尊敬します。落としてあげましょうか?」


 私の体に重力が戻り、浮遊感に包まれる。

 が、それも一瞬のことで、私はすぐに空中に静止した。


「ああ、やっぱりこれ、瑞樹の仕業なんだね……」

「僕以外に誰がいるのか教えてほしいものですね。まさか、そこで顔を紅潮させている馬鹿だとは言いませんよね?」


 すっかり忘れ去られていた颯太を見る。

 颯太は瑞樹が指摘したように、顔を赤く染めていた。


「おまえはっ……!」


 颯太の怒号もどこ吹く風、瑞樹はにやりと笑った。

 その様はなんというか、実に七不思議らしかった。

 怪しくて、恐ろしくて、そのうえおぞましい笑みだ。


「あんな浅はかなことをした人物に、おまえ呼ばわりしてほしくありません。……そうですね。手を出してこないなら見逃してあげようと、思っていましたが。彼は徹底的にトドメを刺してほしいようですので、望み通りにしてあげましょう」


 瑞樹はホルマリンの瓶を持っていない方の手で、引きずっていた大鉈を持ち上げた。

 体の方は男の子にしては華奢なので、片手で持ち上がるはずはないのだけれど、彼は軽々とそれを持ち上げた。

 まだ、刃先を浮かせただけだ。

 構えてはいない。


 瑞樹は颯太との間合いを笑顔のままに詰めていく。速度が速いわけではない。ただ普通に歩いているだけ。

 だが、颯太は動けないようだ。


 私は瑞樹が暴走しやしないかと、はらはらしていた。

 だがそれ以上にこうも思っていた。


 瑞樹よ、それは良いけどまず私を下ろしてはくれないものか。

 物言いたげな視線を瑞樹に送る。すると、私の体は宙を泳ぐように、穏やかに屋上に戻っていった。


 横目で瑞樹を見ると、彼はちらりと私を見て、また颯太の方に歩いていった。


 少し安心する。

 瑞樹が空気を読んでくれたということは、今日は機嫌が良いということだ。

 もし颯太に危害を加えるようなら止めようと思っていたが、このぶんならそう酷いことにはならないだろう。


 瑞樹は颯太を鉈の範囲に収めると、言った。


「さて、何か言うことはありますか? この家畜が」

「だ、誰が家畜だ」

「おや、違いましたか? それはすみません。欲しい言葉(エサ)のためにせっせと自分を繕って、飼い主が気に食わないことをしたからとその手を噛んだじゃないですか。ですからてっきり、鶏かと……。ほら、よく鳴きますし」

「お、俺はただ……」


 たじろぐ颯太に、瑞樹は笑顔で追い討ちをかけていく。


「君、秊なんてどうでも良いんですよね?」

「そんなこと、あるわけねえ!」

「事実、君が必要としていたのは自分に都合の良い言葉をくれる人、でしょう? 彼女である必要はなかった。違いますか?」

「ちっ、違う! 俺はずっと秊を見てきたんだ、秊を一番理解しているのは俺だ!」

「果たしてそうでしょうか? 君はさきほど、変化を望んでいた秊を突き落としたじゃないですか。それが、自称一番の理解者のすることですか?」


 言っていることはまっとうなのに、なんていうドS仕様。


 颯太は興奮した様子で、学ランのポケットに右手を入れた。何かを握りしめているようだ。拳の形が布越しに見えた。


 だが、ここで瑞樹が颯太の耳元に瓶を近づけたからか、やりとりは聞こえなくなった。


 瑞樹はその腕を押さえて、ポケットの中をちらりと一瞥したようだ。


 中身は気になるが、あんなことをされた後で彼らに接近することは、私にはできなかった。

 瑞樹が颯太に何事かを囁いているらしいが、よくわからない。


「それ……彼女の写真ですか。目線がカメラにあっていませんね。もしかして、隠し撮りですか?」

「……!!」


 瑞樹が何事かを言うと、颯太の顔色はみるまに青くなっていった。


「……変態」


 何を話しているのか、さっぱり聞こえない。まあ、瑞樹が今すごくイイ顔で微笑んでいるので、ろくでもないことではあるのだろうと思う。


「彼女にこのことを暴露されたくなければ、今すぐここを去って、今後彼女に近づかないでくださいね? ついでに言うと、あの屋上のフェンスも、君が留め具を緩めるなり外すなり、前もって工作したんですよね。偶然外れるとは思えませんし。もし僕の視界に、秊の近くで君の姿が映ったら…………うっかり、口が滑ってしまうかもしれません」


 颯太は瑞樹を見て、それから私に視線を移し、悄然(しょうぜん)と頷いた。


 瑞樹は満足そうに微笑み、鉈を引きずって戻って来た。

 瑞樹の後ろで、颯太が膝をつく。


 勝者は明らかだった。


「み、瑞樹? なんだか颯太、凄い打ちひしがれてるけど、何やったの……?」

「いいえ、何も?」


 それ以上、瑞樹を問い詰めることはできなかった。瑞樹の笑顔は、それを言葉もなく封じていたからだ。


 颯太は心配だが、やはり近付くのは躊躇われる。

 私は瑞樹に連れられて、屋上から去っていった。



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