ヤンデレバースト
6月のある日。下校のチャイムがとっくに鳴らされたころ、屋上は静かに夕日を浴びていた。
よく晴れた空がどこか懐かしいような橙色になって、雲がその光を浴びて、蜂蜜色の綿菓子みたいだ。
貯水槽の下に腰を下ろす。頭を壁に預けて、校舎を俯瞰する。
もう私の目的は果たしてしまった。喜ばしい、ずっと目指してきたことなのに、心はいまだ揺れていた。
このまま元の場所に帰ってしまって良いのだろうか。
それが私の心の中で谺している悩みだった。
眼下には、駆けずりまわってきた校舎が一望できる。そのどこにも、溢れている思い出は瑞樹とのものだ。
私といる時は楽しくて、生きているようだったと語った瑞樹。
あの時の、届かないものの眩しさに目を細めたような表情が、私の目に焼き付いている。
このざまでは、否定することはできない。
私はやはり、瑞樹が好きなのだ。
性格が悪いし口も悪いし、おまけに気味も悪い。自分でもそうとは分かっている。だが、もうどうしようもない。
捕まってしまったのだから。
このまま帰れば瑞樹とはもう会えないだろう。だが、残ったら残ったで、家族や友人たちを残していくことになる。
どちらが良いとも言えない。
どちらも選べるなら選びたいが、それは無理。
あちらを立てればこちらが立たず。
答えの出ない問いを胸に、学校を見ながら思い出を想起する。
唐突に、屋上の扉が軋んだ。誰かが来たのだろう。珍しいことに、この学校は屋上には鍵がかけてあるわけでもなく、自由に生徒が出入りできる。だが、どうせ表側の人間には私なんて見えないのだから、構わず思考を続ける。
すると屋上のコンクリートの地面に、黒い影が落ちた。顔を上げると、颯太が立っている。
「そ、うた……」
この前あんな別れ方したせいで気まずく、颯太から視線を外した。
「久しぶりだな、秊」
明るく爽やかな調子で、彼は言った。
その呼びかけがどこかおかしいような気がして、颯太を見る。
いつも颯太は私のことを『姉さん』と呼んだ。もう一人弟が出来たみたいで、それが嬉しかったのだが……。
稔は冷めたところのある子だったから掴みきれない部分があったのに対して、颯太はとても素直だから分かりやすくて、私にとっては居心地が良かった。
多分、『何をしてほしいか』、『どんな言葉や反応を望んでいるか』が当時としては分かりやすくて、自分の言動を装いやすかったのだろう。
改めて考えると、大切な存在ができた今となっては、かつての私の振る舞いの残酷さがよく理解できる。
そう親しくない人や他人に対してなら、相手の期待する行動をとるのも間違っていない。
だが、自分を特別だと思ってる人に対してなら、それはひどく残酷だ。
それはつまり、その場しのぎで適当にあしらっているだけなのだから。相手のことなんてどうでも良いのだと。
「……なんで名前で呼ぶの?」
「そんな冷たい言い方はよしてくれよ。秊はそんな風に俺に接しないはずだぜ?」
颯太はにこやかに笑った。あの時のことなどなかったかのように。
颯太の言う秊と私は同じではないのだと思う。
颯太は欲しい言葉を、反応をくれる『秊』を求めているだけであって、この子が見ているのは『私』ではない。
自分の理想の秊を、私を透かして投影している。
颯太は言った。
「少しばかり確認したいことがあったんだ」
颯太の笑顔は前のように歪んではいない。にこやかな笑顔だった。
口角の上がる角度、目の細め具合、仕草、筋肉の緊張……全てにおいて完璧だった。
普通ではありえないくらいに。
完璧すぎて、空虚。
颯太はゆっくりとした足取りで近付いて、私とあと一歩というところで止まった。
彼は、目を細める。
笑顔の完璧さが、わずかに崩れた。
私は貯水槽に手をついて一歩後ずさる。
颯太は、上辺だけの明るさで言う。
「そんなに警戒するなんて、どうしたんだ?」
「どうしたってことはない、けど」
颯太が痛ましそうに目を伏せる。
「ああ、可哀想な姉さん。やっぱりあいつに何か吹き込まれたんだな」
「あいつって……?」
颯太は敵意を滲ませた。
「しらばっくれないでくれよ、あの生首だ。……理科準備室のホルマリン生首。姉さんの方が良く知ってるはずだぜ? あんなにずっと一緒で、仲良くやってたもんな」
「一緒にいた時間は長かったけど……」
一歩、後ずさる。
颯太が一歩、距離を詰める。
「秊はあいつと関わってからおかしくなった。前みたいに、示し合わせたみたいにぴったりなじむ言葉じゃなくて、嫌なことばかり言うようになった」
「それは、気付いたからだよ。今までの私はいいかげんな人間だったんだって。その場さえ取り繕えれば良くて、ホントは相手のことなんてどうでも良かったんだって」
「そんなことないッ」
颯太は悲痛なまでに頑なだ。
彼の否定は、まるで悲鳴のようだった。
彼は本当にそう思っているのだろうか。私には、違うと思いたいだけのように聞こえた。
だから、颯太が否定する隙も与えないよう、きっぱりと言い切る。
颯太を傷付けてしまうとはわかっていても。
「ううん、そうだよ。私はただ、変わったの。こっちに来て、瑞樹も含めていろんな人に会って。変われたんだ」
「……そんなことないだろ!!」
私はもう、何も言えない。
私がいくら言葉を費やしても、颯太には通じなかった。
私は颯太をじっと見つめた。
颯太は私と目が合うと、辛そうな顔をした。
彼は歪んでしまった表情で、私との距離を詰める。
「やめてくれ……。そんな……そんな目で、見ないでくれ……。なあ、やっぱり秊、あいつになんかおかしなこと言われたんだろ? だからこんな……」
これ以上聞きたくなかった。
私は颯太が話し終えるのも待たずに声を上げる。
「違うよ。私は変わったの。変えられたんじゃない」
颯太は泣き出す直前のような顔で、私に手を伸ばした。




