朽名2
「いや、俺はそれに関しては何も知らない。俺に分かるのは、去年の祭りで俺がやったことと、朽名についての断片的な情報だけだ」
「そう、なの……」
「……それよりさ。あれからどんなことがあったんだ? みんなはどうしてる?」
「あのね、私、大学に受かったんだよ。第一志望の九重大学教育学部。それに、みんなも元気なの。パパとママは稔がいなくなってから……あっ、稔は失踪したことになってるんだよ。それで随分沈んでたんだけど、夏にはご飯も食べられるようになってきてたの。颯太は──」
颯太のことを話そうとすると、稔は露骨な嫌悪を見せた。
「姉ちゃん、颯太のことはいいから」
「どうして?」
「……万一姉ちゃんが見つけた大切なものが颯太だったとしたら、あいつだけは考え直すんだ。颯太はヤバい」
唾でも吐くように、稔は言った。実際に颯太がここにいれば、そのくらいはやってのけそうな様子だ。
「何言ってるの、颯太は幼馴染でしょ」
「幼馴染だってこととあいつがヤバいっていうのは別問題だ。姉ちゃん、何も気付かなかったのか? 今までさ。颯太は明らかにおかしい。本当は薄々感づいてるだろ?」
颯太がおかしいということは、確かに気づき始めていた。離れてみればよく分かる。
異様なまでのあの執着。
颯太は繰り返す。
忠告というには必死すぎる。
「颯太はマジでヤバいんだ。なるべく近付くのは避けるべきだ」
私には、曖昧に頷くことしかできなかった。
颯太が若干変わっているのは確かに頷ける。とはいえ、だからといって近付きもしないのは過剰だと思う。
颯太がどうであれ、今までで過ごしてきた時間が否定されはしない。
私にとって、大事な弟分であるのは同じ。
稔はそんな私を見て、諦めたようにため息をつくと、話題を変える。
「そういやさ、他にどんなことがあったんだ? 教えてくれよ」
稔の気遣いにもかかわらず、場の空気はぎこちないものになってしまった。
なんとか空気を和らげたくて、何を話したら良いか迷いながら、口を開く。
ここに来るまでにたくさんのことがあった。
稔に話したいことも、たくさんあるのだ。
私が口を開こうとした瞬間。
稔に筋が入った。
筋。そうとしか言いようがない赤黒い線が、鏡面に真っ直ぐ走った。全部で六条。
「み、稔!? なにこれ、血……?」
筋はてんでばらばらに、鏡面を縦に横に覆っている。乾いた血の色をした筋は、稔から線状に血が流れているようにも見える。
「違う違う、これはなんつうか……あー、イメチェン?」
「疑問形で言ってる時点でおかしいよ!?」
どんなイメチェンだ。そんなのがあってたまるか。
困ったように言い淀む稔が何かを誤魔化しているのは明らかだ。
「ねえ、これなんなの?」
鏡面の線を指先でつつくが、何も起こらない。
「あんまり触るなよ。良いもんじゃないからな」
「良いものじゃないなら、なおさら安心できないよ」
「良いもんじゃないけど、悪いもんってことでもないさ。まああれだ。気にしたら負け?」
「なにそれ?」
あまりに軽く言う稔に気が緩むような、よけいに心配が募るような、形容しがたい感情がわきあがる。
鏡がまた、揺らめき始めた。
鏡に映る景色も稔も、ひしゃげて判別できなくなっていく。
稔の声が聞こえる。声はまっすぐに、私に伝わった。
鏡はこんなにも揺らいでいるのに。
「さよならだ」
急すぎる別れに、私は何を言えば良いんだろう。
まだ鏡面が波打っているうちに。
言わないと。
自分でも気付かないうちに、私は言葉を発していた。
「ごめんね、稔。……さよなら」
どうして私は謝ったのだろう。
わからない。
でも、謝らないといけないといけないなんて思うよりも先に、口は動いていた。
鏡はまた滑らかに、踊り場の階段を映している。
あの稔を探さなければならないという思いは、消えていた。
私は何を忘れていたのか、教えられることはなかった。そのことにもう罪悪感は感じない。
きっと私は何かを誤ったんだと思う。
稔がそれを許してくれたんだから、もう私は気にしない。
稔には、多分もう会えないだろう。なんとなく、そんな気がする。
でも、自分でもわすれてしまった願いを、私はようやく果たせたんだと思う。
私は稔を探してそれで。
謝りたかっただけだったんだ。
稔がそれで許してくれたなら、私はもう振り返らない。
これで帰ることができる。後は8月を待つだけだ。
────嬉しいはずなのに、どうしてだろう。
どうして、こんなにも、やるせないんだろう。




