0 プロローグ
<主なCAST>
・タロ(菅田):2年 演出助手1
・イチ(富士山):2年 制作・デザイン担当
・ザワ(野本):2年 演出助手2
・チャーシュー(櫛田):3年 演出
この世界に魔法はないから、細い木の杖を振っても部屋に明かりは灯らない。物と仕組みを司る人がいてこそ、社会の営みは保たれる。当たり前のように灯る数えきれないほどの明かりたち、人々が電気設備の保守をする者の姿に目を留めるのは、停電が起きたときぐらいだ。明かりが再び灯り、闇を照らすその有難さを多くの人がすぐに忘れるとしても、ひたすら技術を磨いて汗を流す者がいる。光の満ちる世界の後ろにある、壁一枚あるいは布一枚隔てた自らの潜む空間のことを、寡黙な裏方たちはこう呼ぶ「舞台裏」と。
毎年お正月にだけ会う親戚の子の背が伸びる速度に驚くように、高校卒業後の三六五日で目を見張るほどの成長を遂げる者がいる。住み慣れた地を遠く離れたり、全く異なる環境に飛び込んだりすることで受ける刺激は、心を揺さぶり、鍛え、たくましさをもたらす。
『男子三日会わざれば刮目して見よ(鍛錬を積む人は三日も会わなければ見違えるほど成長しているものだ)』という言葉の日数の百倍以上の期間があればなおのことだ。その年頃の若者があまり集いそうにない、豊かすぎる緑と人口密度の低さが際立つ地域の丘の上。やや古びた二階建て鉄筋コンクリート造りのコの字型の建築物が森の傍に位置している。同じ規模の建物に比べてやたらと数の多いドアの一つの内側、周囲の壁にも窓にも汚れの目立つ室内で、くたびれた黒い革のソファーに座って建物と同じくらい年季の入った素朴なデザインの木製テーブルに向かう菅田はうめいていた。
「だぁー、デザインセンスなんて前世に置いてきたんだよ~」
「前世にすらあったかどうか疑問だな」
隣に座る富士山が、タロの手元のA4サイズのコピー用紙を覗き込んで気遣うことなく評価を下す。
「イチと比べられたら太刀打ちできないって、なあ、もう文字だけでもいいだろ?」
「いいんじゃない、言葉のチョイスの面白さがタロの強みだし。でもフレーズが引き立つような文字のデザインには凝るべきだぜ」
「厳しいなぁ……」
今、タロが難儀しているのは新入生勧誘用のチラシだ。明日からこのキャンパスにやってくるピカピカの大学一年生の興味を引き、この部室棟に活動拠点を置くタロたちのサークルへ誘い込むアイテムの案を、畳一枚半ほどの広さの机をぐるりと囲んで全員で出している最中である。聞いた者は自分の聴覚の正常さを疑うか、名付けた者のインパクトへのこだわり具合を心配せざるを得ないその大学演劇サークルの名称はこれだ。
『劇団どろだんご』
キラキラのキャンパスライフに紛れ込んだ違和感そのもののような絶望的な第一印象を覆して「ちょっと見に行ってみようかな」と思わせるチラシを作らねばならない。新入生歓迎公演を行うのでその情報はもちろん入るのだが、オシャレで魅力的な他のサークルを出し抜くだけのインパクトと、行動を起こさせるためのメッセージがプラスで必要になる。公演の準備で忙しくしていたため、勧誘チラシの作成が後回しになってしまい、入学式の前日に突貫作業ででっち上げているのだ。
「よし、これで完成、印刷室行ってくる。できたらみんな百枚刷ってチラシ箱に入れとくように!」
イチは早々と作業を終えたようだった。何しろうちの劇団のデザイン関係を一手に引き受けるセンスの持ち主だから、誰も文句の付けようのないものが出来上がったに違いない。もうそれで全部作ればいいじゃないかと思うのだが「千人以上いる新入生全員に刺さるデザインなんてない、劇団員それぞれの個性を活かして数打ちゃ当たる作戦で十二種類作る」というイチの制作方針なので仕方ない。偏差値での区分はそこそことされているが、それぞれの学生の得意分野を伸ばして上々の就職実績を挙げており、理系文系の区別なくさまざまな学びと交流の場となることを理念としているこの大学の特色を踏まえればその狙いは的を射ているのだろう。
「お昼食べたら稽古を再開するからあと三十分ぐらいで終わらせてね」
公演に関するスケジュール管理を担う野本がみんなを急かした。公演準備も大詰めなのでグダグダと悩んでばかりもいられない、タロは太マジックでキャッチコピーを殴り書きして文字だらけのチラシ原稿を完成させ、イチの後を追って部室を出た。
窓がなく照明器具も申し訳程度の薄暗い印刷室、年代物の印刷機がゴウンゴウンとうなりを上げる横でタロとイチはまだ見ぬ新入団員に思いを馳せた。
「何人くらい入るかなぁ」
一枚一枚ゆっくりと吐き出されていく二枚組でA3両面印刷のチラシを眺め、室内に満ちるインクの粉の匂いを感じながら呟くタロにイチが応える。
「流れで行くと今年は精鋭の年らしいから、五人もとれたら上々だってチャーシューさんが言ってた」
劇団内でそう呼ばれているのは、今回の公演の演出としてこのチラシにクレジットされている櫛田だ。何事も形から入るタイプで、演出席の前の机に煙草を吸いもしないのに灰皿を置くなど、いにしえの演劇文化への憧れが強い。パチンコや麻雀などのギャンブルにも強いが、さまざまなトラブルを抱えて日常生活は破綻しかけており、運の使いどころを間違えているともっぱらの評判である。
「流れ?」
「大量に入る年と少ない年とが順繰りになっているのが近年の傾向なんだと、去年のうちらは最初十五人いただろ、まあ残ったのは九人だけど」
「そっか、チャーシューさんの代は三人だけだもんな」
「その分濃いけどな、最初っから三人しかいなくてそのまま全員残ったそうだし」
チャーシューの同期は脚本担当の二瓶と音響担当の椿の二人のみ。その上の代は名簿上七人くらい在籍しているのだが、就職活動やら何やらあってほぼ部室には現れない。去年の新入生歓迎公演の頃は賑やかな雰囲気だったのだが、それが終わってみると上級生は実質三人だけになってしまったので、タロなどは「大丈夫かこの劇団」と正直不安を抱いたものだった。しかし、先輩が少ないがゆえにろくに経験もない新入団員にもかかわらずいろいろなことを任せてもらえたし、指示待ちではなく自発的に動く姿勢を鍛えられ、線引き的にはまだ一年生の自分たちが戦力の中心となって今年の新入生を迎える体制を構築できたことは自信につながっていた。
「そういえば誰からも就職活動の話って聞かないよな?大丈夫なのかな?」
タロの疑問に対し、イチが具体的な情報を提供する。
「なんかバッキーさんは大学院行くらしいし、チャーシューさんとカッパさんはプロになるって考えらしい」
「プロ?」
「まずはセミプロの劇団を立ち上げて名前を売っていって、就職はしないでそっち優先でやれるとこまでバイトしながらでもやってくつもりみたいだぜ」
衝撃だった。いい悪いは置いておくとして、大半の大学は学生にとって今や就職予備校である。卒業後の進路に有利な資格を取ったり将来につながる経験を積んだりするために四年間を過ごすことが定石であり、芸術系でもないこの大学からプロの表現者の道へと進もうと考える人がいるなどとは微塵も想像したことはなかった。高校時代に憧れながらも踏み込めなかった演劇の世界に大学でデビューしたタロにとって、劇団活動はあくまで「部活」の延長という位置づけだ。初めてのことばかりの一年間を駆け抜けた段階で、就職という現実的な進路に比べてこの先の演劇との関わり方などぼんやりともイメージはできていない。
そもそも「就職をしない」という選択肢を自分の中で候補にしたことがない。大学を卒業すればどこかに就職して働く、ある意味そのために大学を選択して受験し入学したのだ、誰もがそうではないのだろうか。タロは大忙しの劇団活動と並行してきっちり講義には出て、履修登録をした単位は一つも落とさなかった。一方、チャーシューは「やべえやべえ、ぎりぎりだった」という感じで何とか三年に進級できたと言っていた。真面目とか不真面目とかいう区別ではなく、何を優先させるのかという価値観の違いなのかもしれない。
「よし、飯にしようぜ!」
イチが刷り上がったチラシを紙揃え機で整え、押し切り機で半分のサイズにして両手でつかみ上げる。
「おう!」
タロは印刷機の電源を落として部屋の電気を消す。先のことは正直わからない、でも今やるべきことははっきりしている。一年前に自分達が受けた以上の衝撃を新入生にかまし、一人でも多くこのふざけたバカ騒ぎを共に楽しむ沼へと引きずり込むことだ。部室へ戻る足取りは心なしか行きよりも勢いを得ていたように感じられた。




